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ブラジル盛和塾10周年記念講演会で発表された松田 典仁さんの原稿。
ブラジル成盛塾は、ブラジル開塾10周年記念セレモニーとして稲盛和夫塾長をサンパウロに迎え塾長の記念講話を9月6日に日本文化センター大講堂で実施(関係記事を寄稿集284番目に掲載)しましたがその際にブラジル塾生の代表の一人としてブラジル43年の体験を発表されたMNプロポリス社松田 典仁社長より原稿を送って頂きました。松田社長は、1960年に来伯された我々より2年先輩にあたり事業家としても勿論、ブラジル盛和塾の優等生として稲盛塾長の教えを実践しておられる。私は、訪日中で直接会場でお聞き出来ませんでしたが原稿を読ませて頂くことができ皆さんにも是非松田社長の体験をご紹介したくここに掲載させて頂きます。松田さんありがとう御座います。
写真は、松田社長のMN PLOPOLIS社のカタログからお借りしました。
【注:使用ソフトが1寄稿集1万語までの制約があるため2度に分けて掲載します】


1. はじめに (Intrdução)
ご参席の皆様こんにちは、ブラジル盛和塾の松田典仁です。
日本の盛和塾の皆々様ようこそ、まだ大自然の残る美しいブラジルを 又同胞日系人の活躍を見て行って下さい。
私どものような者に、本日の体験発表の機会を与えて頂き感謝申し上げます。
2. 日本の生い立ち
私は、日本の群馬県群馬郡群馬町に、昭和12年に生まれました、今丁度66才です、9歳で父を失い母の手で育てられた4人兄弟の三男です。
家系の歴史は古く、私が16代目の3男で、非常に厳しい母に育てられ、学校の成績が悪くなると容赦なく「ブンナグラレ」た事を、今は懐かしく思っております。
私の母、マチは群馬県で初の助産婦の資格を得たと聞いています、又 終戦後は県初の村会議員を3期務めました、小学校や中学校のPTA会長を努めた事がある「上州女」でした。
小中学校の成績は比較的上位にランクされており、運が良く県立前橋高校に入学致しました、高等学校はさぞかし楽しい学園生活がと、期待しておりましたが、其れは逆で勉強々々の雰囲気の中で愕然と致しました。
周囲が進学、又 学歴社会であることを身に感じ、大学在学中に安保騒動が起こり、今から約45年前の岸内閣の時代を思います。
日本人同志が路上で血を流す状態に接し、これが今の日本か、日本の将来はと考えた時、絶望致しました。
そんな時、大宅壮一のブラジル記行に“明治の人を見たかったらブラジルに行け“又 ある雑誌にブラジルの日系人の活躍と日本の親戚への贈物に付いて記載されているものに接し、心を強く打たれました。
早速、群馬県庁の海外課を訪ね、ブラジルに行くにはどんな方法があるか尋ねました、ブラジル移住には
u 呼び寄せ
u 農業移住
u 工業移住
がある旨説明を受け、若しブラジルに行きたいなら、工業移住で行くのが良かろう、生活に困る事が無いから、その時の工業移住への道はコチア産業組合、又は日系企業、日本のブラジル進出している会社だったと記憶しております。
県庁では、私のように単身ブラジルに行くには工業移住がベターだろうとの、そのオリエンテーションに賛同はして見たが、よく考えてみると、
移民とは
u 健康で明るく
u 開拓精神に富み
u 強い意志の持ち主で努力を惜しまない事
が移住、移民の最小条件であろうとの結論に達し、農業移住でブラジルに渡る事に致しました。
家族には何も話さず、ブラジル移住の手続も完了し、出発10日前に、母と兄弟に自分はブラジルに行く、長年月いろいろ有難うの旨感謝を述べという、母は泣く兄弟はボーとして言葉にならなかった事を昨日のように覚えております、私の22.5歳の時です。
一昨年(2001年)母が102歳で天国に旅立たれました。丁度私が日本に出張している時で、何と運が良かったのかと思っております、葬式の挨拶に兄からお前話せと言われ、町長、知事代理、知人を前に3世紀にわたり活躍された母に感謝を述べると共に、拍手を持って母を送って欲しい旨お願い致しました。翌日の新聞に葬式に拍手の記事が載り、今は唯感無量です。
3. ブラジルに農業移住者として渡る
@ 養蜂場に就労
1960年(昭和35年)横浜港からブラジル丸で38日間の航海後サントス港に着きました。
焼け野原のまだ残る横浜港からサントス港に着いて、先ず感心した事は建物が高層建築で立派であり、又 サントス市からサンパウロ市につながる高速道路は片側2車線で、私を迎えに来た横地様の自動車が100〜120Km/hのスピードで走るのには驚きました。
就労先は横地養鶏場で、約10万uの土地に1万5千羽の産卵養鶏場でした。
当時、既に31年間(昭和4年ブラジル移住)ブラジルに生活する同郷の群馬県人でした。
この部屋を利用してベッドを作って寝て下さい、と指示されたのは2x3.5mの広さに、天井はかわらむき出しの土間でした、其れにベッドを作り、4本の足と3枚の板で、麦藁のようなサッペーを敷き、その上に「むしろ」を釘で止め、パン粉を入れてきた木綿の布で止め完成です。
もちろん電気も、水道も電話もありません、唯驚きの一言です。
これが私のブラジル生活の第一歩でした。
夢に見たブラジルと現実の差がこれほどに大きいとは思いませんでした、悶々と悩みました、はたしてブラジルに着てよかったのか。
日本でも此れしきの生活は可能ではなかったか、言葉に表せない苦しみが続きました。養鶏場の労働は、朝は5時から夕方は7〜8時までが毎日です、パトロンも一緒に働きますから、働いている間は楽しい日々でした。
夜はローソクを4〜5本も灯し読書です、私は、酒は全然飲めませんでしたが、この残念さ、苦しみを和らげる為に地酒「ピンガ」にレモンを入れ、これを毎日のみ始めました、今は一人前に酒とお付き合いが出来ます。
当事、私のような独身者、一人で来伯した20%以上がノイローゼになると聞いておりました、これは生活や習慣等が大きく異なる為で、充分理解出来ます。
私も、ブラジルに着いて3〜4ヵ月後にノイローゼ気味となった事があります、よく眠れず、夢の中に日本が出てくるのです、ある日突然自分に言い聞かせる事があり、”今の生活が最低である、これを乗り切れば必ず明るい将来が待っている“と思う時急に体が軽くなり、青い空と、光が差して来ました、今でも理解出来ません、多分心の転換が出来たのでしょう。
そんな時パトロンの横地様が私に”来伯するのに、ここの養蜂場と4年間の労働契約を行ったと思うが、君は若いのだから好きな時に自分の道に進んで欲しい”旨話されました、ありがたい言葉で涙が出ました。
一日考え、2年間働かせて頂く事を話しました。
そこで働いている時、淋しさのあまり雑犬5匹を飼いました、名前はチョン、マゲ、ドン、クン、ヤーです、ある日長男各のチョンが、口を開けベロを出しているではありませんか、気の毒に思い、其の舌を洗ってやったところ、小生の左腕を噛み付きました、腫れがひどくなり次の日、Instituto Pestor(研)にチョンをトラックで連れて行ったところ、狂犬と診断されました。
私にすぐ予防注射をする様指示されました、狂犬病の予防注射は無料で頂き、第一日目は薬局で臍から下のお腹に注射です、薬局まで約20Kmの道のりがあるため、自分で自分の体に注射をすることになりました、自分の体に注射するのは難しいです、やっと4日目ぐらいから自分でらくに注射が出来る様になった時、夜中に体調を悪くして、ベッドから降りましたが、土間に敷いてあるムシロの上で立ち上がることが出来ません、頭は痛く、これで人生が終わりかと思った時が24歳の時でした。
翌朝、私が起きていないので、パトロンの横地様が私の住む離れ屋に来て、私の病状に驚きトラックに載せられ、救急病院に2泊3日の緊急入院を強いられた、養鶏場に帰った後も予防注射を29日間続けました。
このパトロン横地様夫妻には、精神的にも経済的にもいろいろお世話になり、何のお礼も出来なかったため、毎年お盆の11月2日にはお墓参りをさせて頂き、35年もお線香を上げさせて頂いております。
A 日本の自動車部品メーカーN社に就職
養鶏場で2年間お世話になった後、まだブラジルの事は何も知らない為、生活のためどこかで一時的に就職させて頂きたいと思っていた時、日系のサンパウロ新聞に技術者募集の広告が載り応募致しました。社長との面接の時、君は何の技術屋かと言われました、私は技術を持っておりません、唯の学卒です、企業で働いた事もありません、養鶏はプロに近い実力はありますが、健康であり真面目に努力して働く自信がある旨返答し採用して頂きました、我25歳の時でした。
技術部に配属され、良い上司に恵まれ、N社の第一回本社研修生に選ばれ、8ヶ月間の実習を受けました、課長、部長と早い時期に昇進し、32歳で家庭を持ちました、共稼ぎだった為、経済的には何の不自由も無い生活が出来、自分の家を持ち、サントス港の外海のグァルジャー海岸(Guaruja)にアパートを所有するまでになりました。
N社では比較的早い時期に昇進したため、嫉まれ 又日本からの出向者の本社々員には云うことを聞かない男として、痛め付けられました、私は何事も”納得してから”が条件です、其のため役員に嫌われ、各部をたらい回しされました。
技術、品質管理、製造及び資材部と、このたらい回しにくじける事無く、後に私の仕事をするにあたり非常に役に立っています。
40歳を過ぎた時、自分の今に不満を持つようになり、ブラジルに渡った目的、サラリーマンで終わりたくない、といろいろ悩みました、家庭を持つとオヤジとしての男の責任があります、自分の馬鹿を反省し、女房に自分の苦しみを話したところ、女房はブラジル生まれの移民の子です、サッペー家の生活(土人の様な電気も無い掘っ立て小屋の生活)も知っています。
大の男が何でつまらん事で悩むかと言い聞かされ、家の事、子供の事は私に任せておけ、ブラジルに渡った目的があるだろう、其れに向かって男のロマンを求めなさいと言われ・・・・。
私は、N社を退職させて頂く10年前から自分の進む道について計画して来ました。
2. 企業家として
@ プロポリスに出会う
自分で独立して仕事をするには何が良いか、考え、悩み、調べました、其の時 フト 養鶏場で働いている時を思い出し、鶏に噛まれると血が出、蝿が飛んで来て2〜3時間後には膿みになってしまいます、其れを防ぐ為、そこのパトロン横地様がプロポリス・エキスを持っており、鶏に噛まれるとすぐプロポリスを塗り、又咽喉が痛いと言うと、又プロポリスと云う事で、40年以上も前からプロポリスの名前は知っておりました。
そこのパトロンが、これはプロポリスと言ってサンパウロ市では売っておらないもので、奥地に行ったときに10数本購入して来ていました。
私は、フト 其の時の事が思い出され、幸い女房が薬学出身だった為、プロポリスに関する文献をサンパウロ大学の図書館で調べさせたところ、蜂の巣から採集された膠状の物で、フラボノイドを多量に含み、風邪、切り傷等に効果が大と言う事で、データーは皆無でした、今のようにガンによくきく自然界の物で薬以上の薬と云われていなかを時代です。
私は、プロポリスに興味を持ち調査を始めたのは、1982年です、今から21年前の話です。
丁度其の頃、日本に本社のある「三菱系のANEW」社が、プロポリスを探している旨、私の友人でAnew社の重役である野沢弘司さんから話され、いろいろ教えて頂きました、私のプロポリスは野沢弘司さんが先生です。
まだプロポリスが山のものとも、海のものとも分らない時代です、飲んで良し、塗って良しは知っておりましたが、科学的な分析データーは無く、ブラジルの生産量も掌握できない状況でした。
ミツバチはどんな国にも養蜂されており、どんな国にもプロポリスはあると言うのが私の考えでした。
人間の平均寿命が伸び、老齢化社会になりつつあり(なっています)健康栄養補助食品(以後 健食と呼ばせて下さい)時代が来るであろう、薬害の無い健食時代は必ず来るとの信念に燃え、ブラジルの特産の健食品は何かを調べました、いろいろな材料が健補食の対象になりました。
当事、私はまだN社の従業員であり、部長職にありました、会社は朝8〜17時が就業時間です、月〜木曜日までは朝7に会社に入社して、退社はいつも20時ごろまで働ました、但し 金曜日、週末は夕方5時に会社がはねるとすぐ一人で奥地にプロポリスの調査に走りました、ブラジルには養蜂家のデーターがありませんので、養蜂家がどの町に、プロポリスの生産量はと、距離にして20万kmぐらいは調査の為に走ったと思います。
養蜂家の専業は非常に少なく、10〜100箱までの養蜂家が中心で、農業との兼業である事が分りました。
今でも、養蜂家が何処に、どんな地形に取扱っている人を良く覚えております。



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