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「シニアとパソコン〜粋な関係」大分合同新聞および「ブラジルへの思い」
今回の訪日で大分県を尋ね宇佐駅で待ち合わせ昭和の町豊後高田市、国東半島の富貴寺始め沢山の仏閣と宇佐神宮を案内して下さった栗本克彦さんとはHP、インターネットを通じてお知り合いになった方です。移民船の通信員としてブラジル移民50年祭の行われた1958年にブラジルに来ておられたブラジルとの関係45年の大先輩です。今回妹さんの後藤暎子さんと共に楽しい1日を過ごさせて頂きましたが、別れ際に手渡して呉れたのがこの大分合同新聞、2002年8月7日付けの新聞の切り抜きでした。丁度メール交信を始めた頃の記事で懐かしく思いました。
同じ時に渡された『ブラジルへの思い』を南米航路Cとして栗本さんのHPに掲載される予定ですが、今回肝臓ガンが再発10月22日から国立ガンセンターに再入院されるとの事でUPが遅れるとのことですので一足早くここにUPして置きます。
写真は、日本でお会いしたときに撮らせて頂いた栗本さんです。


今週のおしゃべり
栗本克彦さん(大分市・70歳)

移民船が運んだメール交流
W杯優勝やジーコ日本代表監督就任など、近ごろ何かとブラジルにかかわる話題が多いですね。実は私も、ブラジルやアルゼンチン在住日系人の方々とメールでやりとりする機会が、最近急に増えたのです。
 昭和30年代、私は移民船の乗員として、多くの日本人をブラジルやアルゼンチンへ送り届けていました。戦後、貧しい日本から新天地を求めて南米に移住していった日本人は6万3千人にも上っていたのです。
 そのころの思い出を、私のホームページの「南米航路移民船」というコーナーで紹介しているのですが、なんとそこに、かつて私が乗船していた船で渡航した方がアクセスしてきたのです。 そして{自分たちの乗った移民船の写真が掲載されているモームページがある!}と、仲間内に伝え広めてくれたのです。
 このことが理由で、南米移民の方々からメールが届くようになったというわけです。当時、働き盛りだった方々も、今となってはシルバー世代。海外移住への夢と不安を乗せて航海した40数日、そして遠い南米に渡り苦労した時代を懐かしく思われたのでしょう。あふれるほどの祖国への思いがつづられた数々のメールからは、その心情が深く伝わり胸を打たれます。
 日本から見ると地球の裏側になる南半球の国々で、今でも懸命に生きておられる方々と40年も前の話を介して始まったメール交流。ホームページを公開して本当に良かったと思っています。インターネットによって世界がつながれている素晴らしさを、まさに実感、再認識したしだいです。
 今、新たに取り組みたいと思っていることがあります。それは、移民船が歩んだ一世紀を形に残すこと。二世、三世、そして後世に自分たちの開拓史を伝えるための資料が、各移住国ではなかなか集まらないらしいのです。かつて彼らを運んだ船の船員として移民船の史実を風化させないよう、資料をCD−Rに記録して、南米の方々に送りたいと考えています。


ブラジルへの思い!! 南米航路 C

大阪商船 あめりか丸の乗組員として、私がブラジルを訪ねたのは、1908年笠戸丸が第1回目の移民を運んで50年目の1958年でした。
サントス港では日本移民50年祭「明るい笑顔で移民祭1908〜1958」が開かれていました。
このホームページで「ブラジル戦後移住50周年記念 1953〜2003」を知り、胸が熱くなる思いがしました。
移民は 1971年以降はほとんどなくなって、現在では移民した20数万人に匹敵するブラジルからの人が日本にきて働いています。
その殆どが日系二世,三世ですが、時代が大きく変わったことを示しています。
40数日もかけて船で渡伯した時代から24時間で渡伯できる時代、そして何日も掛かって船便または航空便で送受していた手紙は何秒もかからないで電話、FAX、インターネット。輸送、通信は飛躍的に両国との交流を至便なものにしています。
遠くて近い国と言われますが、計画移民で行かれた方々の勇気と開拓者精神には頭が下がります。
私は南米航路に何度も就航しましたが、一航海3〜4ヶ月、4ヶ月後には日本に帰港する私は、日本を出港するとき淋しい思いで一杯で、航海中、何度もホームシックで苦しみました。 
移民の方々が遠いブラジルに移住する決断と実行力には深い敬意を持っていました。毎航海、サントス港でお別れする時、「元気でね!頑張ってね!幸せになってね!」と祈りながら船上から手を振って見送りました。 日本は貧しい時代でした。
大志を抱いてブラジルに渡った人達ですから、異国にあって成功したのでしょう。ブラジル人の明るい性格と、恵まれた広大な風土は、狭い島国の日本では望めません。
その日本は高度成長で繁栄しすぎた感じです。豊かになりすぎて、その反動で日本経済は破綻を前にして、苦しい痛みの中にあります。
日本の敗戦、貧しい戦後復興期、そして高度成長を経験した現在の高齢者はその経緯がわかりますが、戦後生まれ、特に最近の若者は現在の価値観で自由を享受し、平和ボケして全く危機を感じていないのです。 余りにも恵まれすぎた環境で育ち、私たちと違った物差しでものを計ります。一番心配なのは目的を持たない若者が増えたことです。 
私達は日本の復興と、より良い暮らしを目的にして働いてきました。すべてが豊かになりすぎて目的を失ったようです。 
現在の目的は遊ぶことだったり、ブランド物だったり、お受験だったり・・・になっています。そして日本は少子高齢化が進んでいることです。
国際競争に勝てるわけがありません。 政治も行政も腐敗し、国民は政治行政不信になっています。私には間違った道を日本が歩んでいるような気がしてなりません。広い国土と、おおらかな明るい国民性のブラジルには未来があると思います。
ブラジルからの出稼ぎ労働者は、ブラジルに家を持ちたい目的で来日し、その目的のために良く働くと聞きました。日本で働けばブラジルで家が買える! 確りした目的をもっています。
日本人の好まない仕事、悪い労働条件にも耐えてブラジル人は頑張っていると聞きました。日本人が駄目になったのは私達の責任です。そしてなんとかしなければと思っています。



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