HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




語 る 現 代 史 ブラジル日系人 (上)日本経済新聞8月10日版より。
去る9月訪日時に初めてお会いした大分にお住みの栗本克彦さんに『ブラジルへの思い』寄稿集291番目に掲載と共に日本経済新聞に8月10日と17日に掲載されたブラジル関係の記事『語る現代史 ブラジル日系人』山崎チヅカさんと大竹富江さんを紹介する新聞の切り抜きを別れ際に渡されました。『私たちの40年!!』HPに掲載してはとのお気持ちで切抜きを用意しておいて下さった。有難い気持ちで一杯になる。何とかこれをUPしたいとの思いで大阪に住む妹の阪口多加代に新聞をFAXで送りタイプアップして貰いました。これらの多くの協力者により支えられながら『私たちの40年!!』も10月末に3万回のアクセスを記録しました。感謝の念に耐えません。


ルーツを求め初期移民を映画に---- 女性監督、今の日本もどかしく
黄金郷は幻、過酷な生活

1908年、日本の貨客船「笠戸丸」がブラジル・サントス港に入港、初の農業移民781人が異国の土を踏んだ。以来95年、日系人は人口約140万人と多人種国家ブラジルを支える重要な勢力へと発展。ただ、戦時中の外国人排斥、90年代の日本への出稼ぎ労働者を巡る問題などここまでの道のりは平たんではなかった。
「エルドラド(黄金郷)は存在しなかったんだ。」---−2004年に公開予定のブラジル映画「ガイジン2」で登場人物の日系人がこうつぶやくシーンがある。移住した家族の百年の歴史を活写したこの映画の監督で日系三世の監督のチズカ・ヤマザキさん(54)は「移民は結局、両方の政府にだまされていたわけです」と言い切る。
ヤマザキさんが80年に初めて撮った長編でこの映画の前編となる「ガイジン」はカンヌ映画祭など内外で四十を超える賞を受賞。これを機にブラジルを代表する映像作家として認められた。
サンパウロ州の日系人の多い地域で育ち、大学で映画を志したヤマザキさんが常に温めていた構造が「自分のルーツを調べて映像化すること」。「ガイジン」「ガイジン2」の制作は自分探しの作業でもあった。
1917年に14歳で移住した祖母がしてくれて話を思い返し、初期の移民に聞き取り調査もした。移民に関する文献を読みあさっては自分の家族とブラジル、そして日本の歴史を重ね合わせる日々が続いた。
そこで知った現実は想像以上に過酷だった。「ブラジルにはカネのなる木がある」との宣伝文句に魅せられた移民らは当初、財をなして二、三年で帰国するつもりだった。だが、実際はトイレも床もない劣悪な環境で農園での重労働に従事。生活苦に陥り、自ら命を絶つ者さえ出た。
移民の到着から彼らが日本に帰れないことを悟るまでの約十年間を描いた「ガイジン」は大ヒットを記録。だが当時ヤマザキさんは続編を作る計画を捨て、二度とこのテーマを取り上げまいとまで考えた。
その理由は日本にある。「海外で最大級のブラジルの日系社会を取り上げた作品なのに、日本側はほとんど資金援助をしてくれなかった」。ヤマザキさんは日本の無関心ぶりに憤りを隠さない。
断念した計画に二十年余りを経て再び向かうきっかけを与えたのも日本だった。九六年の訪日時に群馬県大泉町などで目にした出稼ぎの日系ブラジル人たち。日系人の「日本への回帰」ともいわれたが、ヤマザキさんには逆の現象と映り、衝撃を受けた。
日本人のつもりで日本に行った日系人は外国人として扱われ、ブラジル人であることを強く思い知る。「親からは名前も顔も一緒なのだから日本人として振る舞えと教わったが違う。私たちはブラジル人だ」
ヤマザキさん自身、日本滞在中にそれを実感した。スポンサー探しで訪れた企業で、たどたどしい日本語であいさつすると露骨にいやな顔をされた。開き直ってお辞儀をやめ、握手を求めブラジル流に変えた途端、応対が丁寧になった。
ブラジル人としての自我を強く意識しながら作った「ガイジン2」には今の日本に対するメッセージも込めた。「敗戦後の復興を経て高度成長を現実した日本は目標を失っていないか。新しい国ブラジルの活気を見てほしい」との思いだ。
ただ、映画の完成までにはまだ約一億円の資金が不足。ヤマザキさんは「日本も舞台となったこの映画を一日も早く世界で見てもらいたい」と、日本からの支援に最後の望みをかけている。
サンパウロ=窪田淳
     
ブラジル日系人  1908年6月18日に始まったブラジルへの日本人の移住は第二次大戦で中断した後も続き、これまでに約26万人が移り住んだ。戦前は全体の九割以上がサンパウロ州に移住、主にコーヒー農園の労働者として従事した。
日系社会は園芸や野菜栽培など農業分野でブラジルに貢献しただけでなく、60年代以降はヤスダ商工相ら中央や地方の政府に人材を輩出。約140万人と推計される日系人のうち、最近は日本語を話さない若い世代がふえている。
日系三世までの就労に道を開く90年の入管法改正をきっかけに、日本へ出稼ぎは急増。約27万人が働いているが、日本側の受け入れ態勢の不備から子供の教育問題などが浮上している。



アクセス数 7915552 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0263 segundos.