語 る 現 代 史 ブラジル日系人(下)日本経済新聞8月17日版より
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サンパウロ駐在の日本経済新聞の特派員、窪田 淳記者には直接お会いする機会がありませんが、同記者が書かれた 語る現代史ブラジル日系人(下)日本経済新聞8月17日掲載を大分に住む栗本克彦さんに提供頂きました。現在リオにお住みの画家大竹富江さんとお二人の息子さんの話は興味あるものです。当地ポルトアレグレにも今年7月に日系画伯の展覧会が開催され30点の大作が展示されました。間部画伯、大竹画伯、福島画伯、近藤画伯、豊田画伯等の作品が人気を博しました。
大竹さん親子の芸術家としての特異な人生とブラジル人社会での生き方が大いに興味をそそるところです。日系コロニアという枠を離れた見事な生き方学ぶべき点が多いようですね。
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39歳で始めた絵画----日系人社会と一線、親子3人で頭角 芸術融合、新たな価値創造
本人はブラジルを代表する画家で、二人の息子は有名建築家と元サンパウロ州文化長官−−。95年に及ぶブラジルの日系移民史のなかでも女性画家、大竹富江さん(89)一家の成功ぶりは際立っている。日本的な感性をブラジル社会に溶け込ませることで新境地を開いた芸術一家の功績はブラジルと日本との新たな関係の有り方を示唆している。
「禅の思想に裏付けられた東洋的な価値観が、オオタケのアーティストとしての表現力を高めている」−芸術評論家、ミゲル・シャイア氏の指摘に表れるように、大竹作品はブラジルと日本文化との邂逅(かいこう)の産物としてとらえられてきた。
大竹さんは1983年以降、リオデジャネイロの湖に浮かぶ直径20メートルの彫刻やサンパウロ市地下鉄の駅の壁画などを次々と発表。公共美術の第一人者としての地位を築いた。独特の色使いと力強い線は日系人社会を飛び越え、多くに人に受け入れられた。
だが絵画を本格的に始めたのは子育ても終わり、39歳になってから。ブラジルへの移住も自分の意志ではなく、大竹さんは人生の節目を運命の巡り合わせに任せてきた。
ブラジルに単身で乗り込み貿易を営んでいた兄を追い、京都府の材木店の実家を出てこの地を初めて訪れたのは36年。反対する家族には「兄の様子を見るだけで一年で帰るから」と言い残したが、第二次大戦のぼっ発により渡航規制が敷かれ、移住を決意。現地の日本人と結婚した。
たまたまブラジルを訪れていた日本人画家に手ほどきを受けたことをきっかけに芸術の世界へ。「港に降り立った時に目が覚めるような原色を感じた」というブラジル到着時の体験と、22歳まで過ごした日本の経験が創作の原点だ。
当時、日系人社会では著名な画家がすでに活動していたが「男ばかりの閉鎖的な画壇。ブラジル社会の方が入り込みやすく、楽だった。」日系人の集まりから次第に遠ざかるようになった。
子供の教育でも日系人社会とは距離を置き、建築家の長男ルイさん(65)、次男でグラフィックデザイナーのリカルドさん(60)とも一般のブラジル人の学校で学んだ。夫とはその後離別。親子三人がほぼ同時期に芸術の分野で頭角を現すようになる。
芸術一家に転機が訪れたのは2001年。ルイさんが研究所の設計を担当した縁で大手製薬会社の資金援助を得て、民間としては最大級の「大竹富江文化センター」がオープンした。
ルイさんによる斬新な建物の同センターには大竹さんの作品の常設スペースやアトリエ、一般の展示室、劇場を備える。理事を務めるリカルドさんの企画で欧州、中東や日本の芸術家の作品を展示。地元の教員向上育も行うなど文化地として機能し始めた。
リカルドさんが心を砕くのは、日本人の名を冠した同センターを単に日本文化の紹介ではなく、日本を含む外国とブラジルの文化融合の場にすることだという。
「純粋な日本文化なら日本にある。移民がもたらした日本の野菜がブラジル料理で使われるように、融合で新たな価値を創造するのが我々の仕事だ」と説明する。
そんなリカルドさんにはブラジルに進出している日本企業の振るまいが苦々しく映る。「現地の文化に見向きもせず、日本語の新聞を読みゴルフに興じる。ブラジルから学ぶことはないのだろうか」
世界に出ても「日本流」を通しがちな日本人にとって、リカルドさんの言葉は重く響く。
(サンパウロ=窪田淳)
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