若林輝男氏の死を悼む
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ブラジルヤクルト商工の名誉会長をしておられた若林 輝男さんが今年2月にお亡くなりになりました。若林さんは、長年ブラジル稲門会の会長としてもご活躍され経済界に置ける実績だけでなしにブラジル日系コロニアの重鎮として各種活動に積極的に参加しておられました。もう30年も前にサンパウロのザ・リトル・シンガーズの少年合唱団がポルトアレグレの連邦大学主催の音楽祭に参加する時に旅費支援をお願いした時にも気持ちよくヤクルトがスポンサーになって呉れました。昨年所用がありブラジルヤクルト本社を訪問した時に若林先輩を訪ね歓談する機会がありましたが、『早稲田の頃は、学徒動員で殆ど勉強をしていなかったし卒業式もなかたし、卒業証書も貰っていないのに卒業者名簿にはちゃんと出ている有難い大学だ』と当時を懐かしがっておられました。昔、お世話になった少年合唱団のポルトアレグレ派遣の際のお礼を言って置きましたがそんな些細な事は、覚えてもおられない様子でした。当時頂いた名詞には裏面に10を越す公職を持っておられたことを話すと今は楽隠居だよと笑っておられた。サンパウロでの野球の早慶戦には何時も顔を出しておられたのにもうお会いできないのは寂しい限りです。ヤクルト商工の飯崎副社長にサンパウロ新聞に掲載されていた鯉友 尾上久一さんの追悼文を送って頂きましたので昨年撮らせて頂いた若林先輩の写真と共に掲載して置きます。 |
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若林輝男氏の死を悼む
サンパウロ 尾上久一
去る二月二日、ヤクルト商工名誉会長でブラジル錦鯉愛好会相談役の若林輝男氏・急逝の電話に接した時の驚きは、まさかと信じられぬ気持ちが強く、受話器を握ったまましばし茫然自失の態で、我に返ったとき、言い知れぬ寂しさを感じました。
と言いますのは、去る一月十八日に行われた錦鯉愛好会の新年宴会にはご夫婦で出席され、皆さんと談笑されてお元気そうに見うけられたし、亡くなられる四日前にはご自宅の池のことでお話をしたばかりだったからです。本当にかけがえのない人を失い、痛恨の極みであります。
最近は専ら自宅で奥様とお二人で、車椅子で仲むつまじく悠々自適の毎日を過ごされていたあの容姿が、今も瞼に去来しております。
私と若林さんとの交わりは、錦鯉が縁で始まり、以来三十年近くになります。当時、ブラジルではまだ錦鯉を見たという人は希にしかいなかった時代で、アチバイアの古久保養魚所で錦鯉を見て鯉熱に取りつかれた私は、古久保さんと意気投合し、錦鯉を日系だけでなく広くブラジルに普及させ、日伯親善に寄与できたらとの話し合い既に錦鯉を飼育しておられた若林さんを訪ねて同意を得、まずブラジルで日本の愛鱗会のような会を創ってはと(鯉キチ同士は理解も早いが行動も早い)相談一決。
これがきっかけで善は急げと早速、若林、古久保、私の三人で訪日、全日本愛鱗会名誉会長の黒木建夫先生を別府に訪ねてブラジルの事情を説明し、支部結成の承諾を得て一九七八年九月十日現ブラジル錦鯉愛好会が誕生しました。
以後、約八年にわたって会長としてブラジルでの錦鯉の普及に努められ、八十年から日本側の協力を得て始まった「錦鯉品会」はサンパウロの年中行事の一つとしてブラジル人間にも広く好評を得ております。
愛好会発足当時ヤクルト商工の運営を軌道にのせ、ブラジル日本文化協会の副会長や同協会が運営管理を行っているイビラプエラ公園内にある日本館の運営委員長をされていた若林さんの発案で日本館の池に日本から錦鯉を導入したことで入館者が増え、それまで費用ばかりかかっていた同館の運営がスムーズにいくようになったのです。
その後、日本館の鯉が事故で全滅したり、病気がでたりといろいろとありましたが、そうしたことも若林さん私との二人三脚で一生懸命にやってきた事など、鯉を通じての懐かしい思い出は尽きません。
若林さんは堂々とした風格と温厚な人柄で、会員の誰からも敬愛され親しまれておられたのに返す返すも残念でなりません。心からご冥福をお祈り致します。
若林さん、貴方の念願だったブラジルでの錦鯉普及も、サンパウロを始め、リオ、ブラジリア、ミナス、パラナ、サンタ・カタリーナと愛好者が増えております。やがて全伯に普及するとおもいます。
永年のご指導、ご厚誼本当にありがとうございました。
鯉友・若林さんさようなら。
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