印象に残っているポルトアレグレ
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南伯日本商工会議所の前身にあたる三水会という日本からの進出企業の代表者の集まりが1974年から始まり1984年9月に『ポルトアレグレ三水会10年史』として10年の歩みという小刷誌が私の手元に残っています。その中の第1章創立当時のところに1968年丸紅ブラジル会社初代所長として勤務された水野栄次さんが書かれた掲題の【印象に残っているポルトアレグレ】という一文があります。ブラジル奇跡と云われた1960年代後半から70年代は、日本からの進出企業が続々と出て来た時代で活況を呈し三水会が生まれゴルフ、麻雀、日本語補習校、家族ずれのバス旅行等ポルトアレグレでも結構賑やかな進出企業間の交流が盛んでした。その後日本企業の引上げが相次ぎ日本語補習校も閉鎖、地元日系企業との合流により発展的解消南伯日本商工会議所に移行して行った。
水野さんの印象は、書かれた頃から20年近く経っていますが未だに瑞々しく当時を伝えています。帰国後大宮ハム社長、会長を経て退職されましたが現在もMIZUNO TRADINGと云う貿易会社を経営しておられ造園関係資材、スペインのオリーブ、ポルトガルのビール等を輸入販売しておられる。写真は、73歳とは思えぬお元気な姿を9月に訪問時に撮らせて貰いました。
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印象に残っているポルトアレグレ
大宮ハム梶@ 水 野 栄 次
私の12年間に亘る海外駐在や出張で訪れた都市はたくさんありますがポルトアレグレは、その中でも印象に残る都市の一つです。
空路POA入りする際、着陸態勢に入る飛行機の窓から見えるグァイーバ湾からセントロの林立するビル群の眺めはリトルニューヨークと云った感じで仲々の景観です。
小生は1974年1月から75年3月までの、1年3ヶ月の駐在で、体調をこわした爲、短かい期間でしたが、いろいろ印象に残るものがあります。事務所のあるアンドラーダス街の週日の夕方にもなると、歩行困難な程たくさんの人が立ち止まって、楽しそうにダベリ合っている光景など、隣国の首都ブエノスアイレスのフロリダ街にも似た風情があり懐しく感じたものです。そのアンドラーダス街の坂道を上りきったあたりにシュラスカリーア(名前は忘れましたが)があって、そのピカーニャ(サーロインの芯の部分)の味は忘れられません。小生体調をこわした後、カトリック大の森口先生からレヂーメをすすめられて3ヶ月程毎日ビッフエと野菜を食べていましたので、あちらこちらのシュラスカリーア廻りをしたものです。帰国後はこの食習慣を変えるのに苦労しました。また、グァエーバCCの牧歌的風情や、そこでのシュラスコ大会や玉つき競技等頭の疲れをいやしてくれたものでした。又、サンフランシスコ・デ・パウラにある毛利さんの別荘での観桜会など、忘
忘れがたい楽しい思い出です。将来機会があればもう一度訪れたいものと思っています。
最後に最も忘れがたいことは、ポルトアレグレに駐在していたお陰で命拾いしたことです。それは、小生がポレトアレグレに転勤になって間もなく、マットグロッソ州でジャスコとイトーハムの社員と同州のエノモト州議会議長の乗ったセスナ機が墜落、全員死亡と云う事故がありました。
そのとき、実はエノモトさんから、日本から来聖する両社員を案内してエノモト氏のセスナ機でマットゴロッソへ一緒に来てほしい、と電話で依頼されたのですが、小生はどうしても手が離せない用事があって同行できずお蔭で命拾いした訳です。亡くなった方々には大変お気の毒なことでした。合掌。ポルトアレグレ駐在なかりせば・・・と考えると、人生のまことに不思議なめぐり合わせを感じると共に、ポルトアレグレは私にとって文字どおりアレグレで幸運のまちです。
最後になりましたが、遥か地球の裏側から、三水会の皆様方の御健康と御繁栄を祈念して筆をおきます。
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