「イタプア」へ無事に届いた桜の苗木
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寄稿集に色々掲載したい原稿が見つかるのですが、デジタル化(所謂タイプアップ)の時間がなくて実現していないものが幾つかありますが、大阪の茨木市に住む妹、阪口多加代が定年退職したのを期に自宅にもPCを備えたとの事で原稿をFAXで送り手伝って貰うようになり助かっていますが、その内の一つ私の前任者で丸紅ポルトアレグレ出張所長をしておられた先輩、内田義雄さんが南伯日本商工会議所の前身に当る三水会の10周年記念誌「10年の歩み」に寄稿されたポルトアレグレ勤務時代のお母様宛の手紙を頼りに書いておられます。もう時代も隔たり風化した感がありますが当時の丸紅社員に取ってはロッキード事件は大きな影響と陰を落としていた事が窺われ興味深い一文です。内田さんは神奈川県に御住いと聞いていましたが退職後ブラジルを訪問するとの話を聞きましたがそのまま実現していないようです。是非懐かしいポルトアレグレを訪ねて欲しい方です。
写真は、今も倉敷紡績の工場敷地内に現存している三水会の昼食会100回記念碑の序幕式のもので時の新村総領事、倉敷紡績の奥山社長のお姿も見られます。
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元丸紅ポルトアレグレ出張所長 内 田 義 雄
会社生活30有余年の中で、ブラジル勤務時代の思い出は生涯忘れ難いものとして心の奥に刻み込まれています。特に、縁があってとしかいいようのない(例のロッキード事件から波及した海外人事による)2度目のブラジル駐在として赴任することになったポルトアレグレでの生活は、昭和51年6月から53年4月迄の2年間ではありましたが、その前年昭和50年には、ビルマの山奥ジャングルの中で、火力発電所の建設現場という、それこそ仕事をし生きていく為に、やっと食べていけるだけの、戦争中のような酷しい体験をした後だけに、「楽しき港」ポルトアレグレでの生活は、地の果てより地上の楽園に移り住んだような印象を受けたものです。
さて、本題に入って、筆を進めねばなりませんが、いろいろな記憶が走馬燈のように脳裡をかけめぐり、なかなか焦点がまとまらないまま、ふと小生が折にふれ、書き送った故郷の母親宛の手紙の中から選んで見ようと思いたち、久し振りに、実家を訪ね、母が今もなお後生大事にしまっていた、小生の海外写真集、封束の中から一通を取り出した次第です。
以下にその手紙を原文のまま披露させてもらいます。
・ ・・お母さんへ・・
桜便り有難う。桜はなんといっても日本の名花。当地でも去年お花見に行ったこと文したと思いますが、今度、「日本 桜の会」というところから、ポルトアレグレの近郊、“イタプア”という日系人の移住地向けに桜の苗木が10,000本寄贈されてきましたが、検疫証明書が無い為、通関が出来ず、苗木がポルトアレグレの飛行場に放置され、枯死寸前の状態にあり、何とかならぬものかと、移住地の日系代表者が、丸紅の事務所に泣きこんで参りました.
当方で早速、そこは得意のテレックス(電報)で“日本桜の会”宛、東京の本社経由連絡を取って貰い、検疫証明書はどうなっているかと問い合わせたところ、昨日、ブラジル航空会社バリグの機長託送で届けたとの返事がありました。(この件は、当時、海統部中南米課におられた地曳兄一現在は丸紅ブラジル会社副社長一に大変お世話になった事を付記します。)
このテレックスが入りましたので直ぐ、日系の代表者に電報のコピーを渡して、これで解決するよう連絡しておきました。
今日、事務所へ出勤すると、公社の人が昨晩テレビ放送で桜の苗木が日本から折角送られて来たのに通関出来ず困っていたのが、日本商社のテレックスのやりとりで何とか解決がつきそうだと放映していたと喜んで報告してくれました。近近、通関も終り故国日本からの善意が無事通じ万事目出度しということになるでしょう。
この移住地には、日本からの移民20家族が住んでおり、この近くに公園を作る計画がありそこに10,000本の桜を植えることになっているとのこと。海外にいると仕事の外に、このような社会的な奉仕も出来ると独り悦に入っている次第です。
それでは取りいそぎ、今日はこれ迄、元気ですから御安心の程を
52年4月14日
当時は例のL事件の後遺症が頭の片隅に残っており、何かと社会的サービスとか地区貢献とかいった言葉が出てきたことを思い出します。
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