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「おいやんのブラジル便り」真砂 睦さんの【黒潮タイムス】掲載ブラジル便り(1)
真砂 睦さんは、ご本人から頂いた略歴によると昭和40年に早稲田大学法学部卒。野村貿易(株)入社。1973年〜1976年リオデジャネイロ、1977年〜1979年ベロオリゾンテ駐在。東京勤務の後、1985年〜1991年再びリオデジャネイロ駐在。間に東京勤務をはさんで、シンガポール及び香港に駐在。2001年退職。2003年7月JICAの派遣で、日系社会シニア・ボランテイアとしてサンパウロに赴任。
学生の頃には、早稲田の海外移住研究会に所属、日本学生移住聯盟の38年度の委員長として活躍、ブラジルには、都合12年間勤務経験もありブラジル通で今回、JICA派遣のシニア・ボランテイアとしてブラジル滞在中に故郷和歌山の【黒潮タイムス】に掲題のコラム欄を担当ブラジル便りを書き続けておられます。『私たちの40年!!』HPのアクセス者が半分以上日本の皆さんであることから分かり易いブラジルでの日常生活を通じてのブラジル便り是非皆さんにもと思い開催許可を頂き公開させて頂く事になりました。
写真は、真砂さんの住んでおられるサンパウロの東洋街七夕祭のものです。


「おいやんのブラジル便り」 (その1)

この7月3日、霧にむせぶ真冬のサンパウロに舞い降りた。真夏の東京を発って、途中ロスアンジェルスでワン・ストップの26時間の空の旅であった。南回帰線直下とはいえ、標高800メートルの高原都市サンパウロの冬は冷える。都市圏人口2,000万人、
南半球最大の街にひしめく車の吐き出す排気ガスが厚い霧に溶け込み、昼もなお暗い。
林立する高層ビルが原始林の大木群のように、薄暗闇の中から次々と浮き上がってくる。
黒っぽい背広やジャンパーに身をつつんだ人々が、せわしげにビルの谷間を動きまわっている。ずば抜けたスタイルの良さで世界的に知られる若いブラジレイラ(ブラジル女性)達も、厚手の黒っぽい服をまとっているせいか、こころなし元気がないように見える。
「違うな。どこか違う。あの真っ青な空とぎらつく太陽はどうした。モザイクの遊歩道に縁取られた真っ白い砂浜を埋め尽くす、そこぬけに陽気でおしゃべり好きな、騒々しい連中はどこに行ったんだ。それにどうしてこんなに冷えるんだ。これではショッピ(生ビール)を飲みながらおしゃべりもできないではないか。黒いスーツの男達がどうしてあのようにせかせかと歩いているんだ。 あれではまるで日本人ではないか。どうもあのブラジルではないな、ここは。それではここは一体どこなんだ。。。。。。。。
そうかわかった!! ここはリオデジャネイロではなく、サンパウロなんだ!!
ここは、リオデジャネイロのブラジルではなく、サンパウロのブラジルなんだ。違うブラジルなんだよ、ここは。それにしても違いすぎるぜ、このブラジルは!! ああ、あのリオデジャネイロのブラジルが懐かしい!!」
こうして私と家内は、いささかの戸惑いを感じながら15年振りの古巣に舞い戻ってきた。でもここは「懐かしのブラジル」とは明らかに異なる、もう一つのブラジルにちがいない。我々はこれからの2年間、「真っ青な空と、太陽がギラギラの陽気で騒々しいブラジル」とは別の、どんなブラジルを体験することになるのだろうか。
ブラジル人曰く、「あわてるな。ブラジルは大きい」

「おいやんのブラジル便り」(その2)      2003年10月20日

サンパウロの街中に「イビラプエラ」という大公園がある。東京の代々木公園も結構大きいと思っていたが、その5倍はある。亜熱帯の大木が繁り、市民の格好の憩いの場となっている。一周するのに早足でたっぷり一時間はかかるのでウオ―キングには最適、私たちも毎日曜日に出かけている。見慣れない木や花を見るのも楽しいが、もっと面白いのが歩いたり走ったりしている人間の観察だ。老若男女思い思いの格好で汗を流しているが、その肌の色や体型が実に多彩。世界中の人間を大きな釜に入れ、かき回すとこんな具合の色とりどりの人間の集団ができるのかと思わされる。あの「人種の坩堝」と言う言葉は、ブラジル生まれに違いない。坩堝の中で混ざり合って、溶け合って一体どの人種なのか、判読不可能な連中が多いが、しかしよく見るとなんとなく出目が浮かんでくる人間も居る。
小柄で物静かな老夫婦はポルトガル系に違いないし、目鼻立ちの整った若い陽気なカップルはイタリア移民の子孫、鋭い青い目の金髪紳士はドイツ系、濃い眉毛のグループは明らかにアラブ系だろう。おっと忘れてはいけません、10人に1人は東洋系の顔が出てきます。勿論、日系人です。130万人居ると言われる日系人の80%がサンパウロ周辺に集まっているので、どこに行っても日本人の顔に出会うのがサンパウロだ。と言う具合で、このあたりまではなんとなくご先祖様がどこの出なのかが推測できる。その他の大多数は、
アフリカから連れてこられた黒人や土着のインデイオや白人が、坩堝の中で溶け合い混ざり合った挙句の果てに生まれで出た、「ブラジル産新人種」としか言いようのない人々が闊歩している。こんな多様な人々がそれぞれに「我々はブラジル人だ」と胸をはっている。
ブラジル人になるのに、人種は関係ない。「ブラジルで生まれた」という事実だけで、立派にブラジル人になれる。ご先祖様がどうのこうのは一切問われない。朝鮮半島から連れて
こられ、3代にもわたって市民としての義務を果たしているのに、いまだに国籍や選挙権はおろか、就職の機会さえ与えないどこかの島国の「哀しくなるほど狭いりょうけんと
差別意識」を振り返るについて、ブラジルの大きさに感じ入る。日本人の多くの子孫も、
先の大戦では敵国にまわったにもかかわらず、ご先祖様の詮索など一切なく、「ブラジル人」
としてごく当たり前に受け入れてもらっている。ブラジルは心も大きい。


「おいやんのブラジル便り」(その3)      2003年10月23日

リオやサンパウロのような大都会では、フェイラと呼ばれる露天市場が開かれる。火曜日から日曜日まで、毎日何十箇所かで屋台が立ち並び新鮮な野菜、果物、肉類や魚などを山積みして客を呼び込んでいる。新参の外国人は、フェイラに並ぶ生鮮食料品の豊富さに度肝をぬかれる。真冬だというのに熱帯から温帯までの果物は何でもある。マンゴウ・パパイア・
メロン・スイカ・葡萄・イチジク・ビワ・柿・リンゴ・梨・オレンジ・レモン・ライム。野菜がまた半端ではない。ホウレンソウ・キャベツ・小松菜・ばかでかいピーマン・白菜・人参・ゴボウ・大根・クレソン・シイタケ・マッシュルーム類・それに熊野のめはり寿司をくるむ高菜まである。そして魚貝類。マグロは言うに及ばず、鮭・ブリ・鯛・平目・黒鯛・シマアジ・アジ・カマス・スズキ・ボラ・カツオ・イワシ・タラ・エビ類・シャコ・蛸・イカ・シジミ・ムール貝。断っておくが、これらの果物、野菜、魚貝類は日本の皆さんにわかる馴染みのものを並べただけだ。この他にこちら特有の野菜や果物、それに魚が屋台狭しと放り投げられている。これらの野菜や果物の大半は日本人が日本から種を持ち込み、こちらで栽培、根付かせたものだ。白菜・ホウレンソウ・ゴボウ・シイタケ・小松菜・高菜、
それにイチジク・ビワ・柿・富士(リンゴ)・梨も日本語がそのまま使われている。魚もしかりで、マグロ・ブリ・鯛・黒鯛・シマアジ・カマス・スズキ・イワシなどは日本語がブラジル語(ポルトガル語)になっている。もともとポルトガル語になかった単語ではないのだが、
日本人が持ち込み、ブラジルの食生活に取り込んだものばかりなので、日本語の方が定着してしまった。日本人移住者の、「やわらかい日本の米を食べたい、おいしい漬物を食べたい、日本で食べていた魚の刺身が恋しい」という思いが、今日のブラジルに驚くほど多彩な食材を根付かせた。戦前の移住者は、柳行李の片隅にこっそり日本の野菜の種を忍ばせて、奥地の受入先農場に入って行った。戦後になると、堂々と表から日本の農業技術情報を入手し、日本の野菜や果物をブラジルの大地に適応させる為に汗を流した。それまでになかった新しい品種の野菜や果物が大都市にどんどん供給され始めた。サンパウロ都市圏2000万人の台所、卸売市場(セアザ)に運び込まれる野菜・果物の8割が日系人の手に
よってつくられるところまで来た。鮮魚の流通も日系人が握った。一世達の日本食への思いが、その子や孫達の助けでしっかりとブラジルの食生活に入り込んでいった。いや、折からの健康食志向にも乗って、ブラジルの食生活を変えてしまった。日本人は「農業の魔術師」として尊敬されている。


「おいやんのブラジル便り(その4)」        2003年11月1日

ブラジルは移民によって作られた国である。移民達はそれぞれの祖国から色んな物を持ち込み、この国を形作っていった。1500年にポルトガルが最初にこの国に入り込み領有したのだが、一時はナポレオンに追われポルトガル王室そのものがリオに本拠を移したことがあった。だからポルトガルは、ブラジルにとって単なる旧宗主国という以上の特異な関係にあり、この国の土台を作った。しかしポルトガルだけがこの国を構成する移民集団ではない。時代が下がるが、ドイツ人やイタリア人もやって来た。日本人も後に続いた。その日本人の移住が始まって今年が丁度95年目。ドイツの175年、イタリアの125年に比べ、まだ日が浅い。移住者の数も日本は戦前19万人、戦後が6万人と、ドイツより少ない。圧倒的に多いのがイタリアで、サンパウロはニューヨークに次いでイタリア人の多い街である。ドイツ人は大都会が好きではなく、涼しい南部で小奇麗な小さな街を作り静かに暮らしている。日本人は農業から入り、大地と格闘の末「農業の魔術師」と呼ばれるようになり、この国の食生活を一変させたが、高等教育を受けた3代目4代目はサンパウロに出て中間層を形成している。古くからブラジルの指導層として、大土地所有をもとに隠然たる保守勢力となっているのはポルトガル系だが、前世紀からの工業化の波に乗って産業を生み育ててきたイタリア系の経済力は大きい。ブラジル最初の都市として古くからひらけ、一時はポルトガル王室の本拠地ともなったリオデジャネイロは今でもポルトガル系が多い。19世紀のコーヒー資本の蓄積の中で生まれ、その後の工業化の過程で急成長したサンパウロはイタリア系が強い。リオっ子(カリオカ)の話言葉にはポルトガル訛りがあるし、サンパウロっ子(パウリスタ)の会話にはイタリア語の響きがする。それほどまでにこの国の成り立ちにポルトガル人とイタリア人が関わってきたということであろう。だからブラジルの基層をなす政治的経済的な力はポルトガル系とイタリア系に及ばないが、それでも日系もドイツ系も少数派ながら、キラリと光る存在である。「農業の魔術師」の功績は計り知れないし、この国の医者と技術者の出目をたどると、ドイツ系と日系が多い。医者とエンジニアは近代社会の要となる人材。先だっての大戦の廃墟からみごとに先進大国にのしあがったドイツと日本の血をひく移住者をご先祖様に持つ人々が、新大陸で先進技術の担い手として活躍している。ブラジルは良い血統の人々を取り込んだものである。1976年に時の大統領ガイゼル将軍が日本を訪れ、天皇陛下との話の中で、「日本からブラジルへの最大の贈り物は資金でも技術でもない。それは日本人を送ってくれたことです」と表明し、ブラジルの日系人を感激させた。ちなみに、そのガイゼル大統領はドイツ系二世である。


「おいやんのブラジル便り(その5)」       2003年11月8日

戦後、日本人のブラジル移住再開を演出した紀州出身の大立者が居る。松原安太郎。印南町出身。その松原が、当時絶対権力を握っていたブラジル大統領ヴァルガスとアミーゴ(親友)であったという個人的な力で、戦後の日本人排斥の風潮のなかで、日本人受け入れを強引に認めさせた。20世紀初頭のブラジルはコーヒー農園主が君臨する旧体制下にあった。1930年ヴァルガスが革命を起こし新体制を打ち立てた。このヴァルガスという男、徹底的な独裁者でありながら、労働者保護に熱心で民衆の人気があった。1945年、戦後の反独裁の流れでヴァルガスは失脚、下野する。浪人中の失意のヴァルガスを金銭的・精神的に援助した取り巻きのうちの有力者が松原であった。松原はその時すでにブラジル有数の大牧場主にのし上がっていた。1950年、ヴァルガスが大統領に復帰、以前にも増して絶大な権力者となった。一方、戦争でブラジルの日系人社会はズタズタにされた。軍国主義の洗礼を受けた日系人の中に、日本の敗戦を信じない人々が数多く居た。「勝ち組」と呼ばれた。日本は戦争に敗れたという正しい認識を持った人々も居た。「負け組」と呼ばれた。「神国日本が負けたなどと吹聴するのは、日本人の風上にも置けない輩ども」と「勝ち組」が「負け組」を襲った。「勝ち組」が「負け組」の有力者を次々と暗殺した。ブラジルの官憲が緊張した。日本刀で切り殺す日本人の残忍さに、ブラジルの民衆も震え上がった。日本人排斥の世論が沸騰した。汗と涙で築き上げた戦前の日本人の信用が一気に崩れ去った。戦争で中断していた日本からの移住の再開の望みは、日本人自らが絶ってしまった。松原が日本人の移住再開の為に動き出したのは、そのような逆風の中であった。650万人もの大陸や南方からの引揚者がなだれ込み、日本は失業者であふれ返っていた。海外移住は日本を救う数少ない選択肢のひとつであった。松原はヴァルガスに食らいついた。激しい排日世論にもかかわらず、ヴァルガスは松原の恩義に応えた。未開拓地に限るという条件付きながら、ヴァルガスは松原に4000家族の移民枠を与えた。1953年、「松原移民」第一陣22家族112名がブラジルに着いた。戦後初めての日本人移民であった。しかし、開発の進んだサンパウロ州以外の奥地にしか入れなかったので、原生林との格闘に明け暮れた初期の松原移民は辛苦をなめた。入植地から脱耕者が相次いだ為、政府との約束で松原が個人的に金銭解決を計った。それでも松原は屈することなく、その後も移民の呼び寄せに私財を投げうった。晩年は金銭的に不遇だった。しかし、一民間人である松原がブラジル最高首脳の懐に飛び込み、排日の機運のなかで日本人移民再開を認めさせた功績は大きい。パラグアイと国境を接する南マットグロッソ州には、松原が送り込んだ日本人の入植地が何箇所もある。今、大豆の輸出で沸き返っている。地平線まで大豆とトウモロコシしか見えない大農場の所有者に、和歌山県出身者が多い。

「おいやんのブラジル便り(その6)」    2003年11月16日

「シュハスコ」というブラジルの焼肉料理がある。牛を様々な部位毎に切り分け、大きな塊を金属製の櫛に刺し、炭火で焼く。同じ牛肉でも、テンダーロイン・サーロイン・ヒレ・骨付アバラ等々、部位によって全く味が異なる。蝶ネクタイの男前の給仕達が大きな櫛刺しの肉と包丁を抱えて、次から次と焼きたてを運んで来る。客は自分の好みの肉だけをスライスしてもらい皿に取る。好きではない部位の肉が来た時は断り、好きなやつが来たら「よし、もらおう」と命じればよい。食べ放題である。いくら食べても値段は同じ。前菜の野菜・果物も食べ放題。肉と野菜と果物を腹いっぱい食べ、生ビールをジョッキで2〜3杯飲んで、中の上クラスの立派な焼肉レストランでも一人前1,500円もあれば足りる。ブラジルは牛肉が安い。牛肉の生産量はアメリカに次いで世界第二位だが、輸出量は今年オーストラリアを抜いて世界一になった。ヨーロッパや日本のように、牛に牛の骨を食わし共食いまでさせて無理に成長を早めるなどという怖いことはやらないので、ブラジルの牛肉は狂牛病感染の恐れがない。全て自然放牧で育てる。アメリカ流にフィード・ロットに詰め込んで無理に太らせるようなこともしないので、肉にねっとりとした脂分が少なく、精製をしていないミネラルたっぷりの荒塩をまぶし炭火で焼くと、香ばしくてあっさりしたすばらしく美味しいブラジル風焼肉ができあがる。こちらの焼肉に慣れると、日本やアメリカ産の牛肉は脂っこくて胸につかえるようになる。ところで国土の主要部分が亜熱帯であるブラジルで、牛肉の生産をここまでもってこれたのには、それなりの歴史がある。これだけ広大な国土であるから、牛の放牧にはうってつけの筈だが、ヨーロッパ系の肉牛や乳牛は暑さに勝てない。思案にくれた旧宗主国のポルトガルは、先に占拠していたゴアから、インドのコブ牛を導入することを考えた。同じ亜熱帯のインドの暑さに慣れたコブ牛は、ブラジルの気候に良く馴染んだ。またたくうちにインド生まれの牛がブラジルの大地に繁殖していった。ヒンズー教徒には聖なる牛で、食用にするなどめっそうもない事だが、カトリック教徒にとっては暑さに強い頼もしい食用牛となり、この国の豊かな食生活を支えている。このコブ牛は、暑さに対する抵抗力のみならず、荒れた牧草地での粗食にもよく耐えるのだが、脂肪分が少ないだけに肉質が柔らかいとはいえない。しかしその事がブラジルのシュハスコの味を独特のものにしている。亜熱帯のブラジルでは、脂身の少ない炭焼肉がよく合う。生ビールもうまい。15世紀、ポルトガルは大航海時代の先陣をきって、アジアと南米に足場を築いた。その商業ルートに乗ってインドからコブ牛がブラジルにやって来た。ブラジルの炭焼き肉には、アジアの臭いがする。

「おいやんのブラジル便り」 (その 7)「修正版」  2003年12月26日

ブラジルは移民が作り上げた国であると言われる。その通りである。最初に領有したポルトガルに続いてドイツ人、イタリア人、スペイン人、ポーランド人、ユダヤ系ヨーロッパ人、シリア・レバノン等アラブ系人それに日本人が入り込み、国作りに参加した。それら
先進地域からの移民達が持ち込んだ文化や食習慣が、この国での生活を大変多彩で豊かなものにしている。しかし、この国にはヨーロッパ移民が入り込むずっと以前に、もう一つの大きな移民の流れがあった。アフリカ系の黒人である。黒人が入り込んだのは、国策として送り込まれたのでもなければ、自由意志でやって来たのでもない。奴隷として連れてこられた。だから正確に言えば、移民ではなく、商品売買された「家畜」としてこの国に放り込まれた人々である。1500年代の半ば、ポルトガル人がブラジル東北部で砂糖栽培を始めると同時にアフリカからの黒人奴隷の流入が始まった。北アメリカの英国領(後の合衆国)では綿の栽培と共に導入されたが、南アメリカのポルトガル領では砂糖きび栽培と同時にポルトガル奴隷商人の手で黒人奴隷が導入された。以来1850年に奴隷輸送が禁止されるまでの約300年の間に、ブラジルに「輸入」された黒人はおおよそ500万人と言われている。ブラジルの開発に取り掛かった当時、16世紀半ばのポルトガル本国の人口はわずか100万人そこそこだと言われているので、ブラジルの人口構成や経済的・社会的な骨格形成に与えた黒人集団の影響は大きい。極く少数のポルトガル人とそれより多くの黒人奴隷、それに更に数は多かったが外来者社会となじめなかった為、経済活動の外に居た原住民インヂオがこの国の最初の構成メンバーであり、ヨーロッパ系移民が
入り込んできたのは、黒人奴隷の「輸入」が国際世論の圧力で困難になってきた1800
年代半ば以降のことである。それは丁度コーヒー産業の勃興と時を同じくしている。黒人奴隷は砂糖栽培と共にやって来たが、ヨーロッパ移民はコーヒー栽培と共にやって来た。その間、おおよそ300年の時間差がある。ヨーロッパ移民はコーヒー資本の蓄積に乗って、この国の近代化や工業化に大きな貢献をした。しかし、ヨーロッパ人がやって来るまでの300年間に、ブラジルはたっぷりとアフリカ黒人と原住民インヂオの血を吸い込んだ基層文化を形成していたのである。本国からやってきたポルトガル人女性の数が少なかったこともあり、ポルトガル人はアフリカ黒人と混血を繰り返した。原住民インヂオの血も混ざりあってブラジル特有の人種構成と文化ができていった。とりわけ音楽と宗教面で黒人達の影響が大きく残されている。そうした基層文化の上に、ヨーロッパや日本の血と文化が注入された。ブラジルは移民によって作られた。しかしその移民の中に、どの国からの移民よりも多くのアフリカ黒人が居ることを忘れてはブラジルを語れない。アフリカ黒人と原住民インヂオの血が混ざったヨーロッパ系国家であることが、ブラジル人の性格や生活意識を陰影の深いものにしている。近隣の南米諸国と比べてさえ、ブラジルは一味も二味も違う。ブラジルが日本人にとっても温かくて住み易いというのも、黒人やインヂオと混血したポルトガルの基層文化が持つ「おおらかさ」のおかげであるからに違いない。

「おいやんのブラジル便り」(その8)      2003年12月31日

ブラジルを代表する食べ物はシュハスコ(焼肉)だが、その相方のアルコールとなると
カシャサである。砂糖きびの絞り汁を発酵させて作られた蒸留酒だ。砂糖キビ焼酎ということになろうか。俗名をピンガという。アルコール度数が45〜50度と高いので、さすがにこいつを生でぐいぐい飲のはこたえるが、カクテルのベースとしてもってこいの酒
である。最もポピュラーなのは、ライムをタップリ入れたコップに砂糖を加えライムを押しつぶし、カシャサと氷をかき混ぜると出来上がる。カイピリ―ニャという。ビタミンたっぷりの口当たりの良いカクテルだ。カイピリ―ニャを飲りながら、あっさりと粗塩をまぶした焼きたての焼肉をほおばると、ブラジルに住んで良かったと思う。至福の時である。
カシャサはかすかに砂糖キビの甘い香りがするがクセがないので、どんな果物ジュースとも良く合う。レモンやマンゴウ、パイナップルなどのジュースとカシャサを混ぜるだけで美味しいカクテルができる。バチ―ダという。食事の前に好みのバチ―ダをひっかけると、食欲もでる。自信のあるむきには無論、生のままのカシャサを味わってもらっても良い。星の数ほどもある銘柄の微妙な味の違いがわかるようになれば、「奴はピンガが飲める」とその道のブラジル人に尊敬される。洋の東西を問わず、アミーゴ(親しい友人)になるには、その地の地酒を酌み交わすのが一番である。
この地酒はブラジルの歴史の落し子でもある。1500年代の半ばから、ポルトガルは本気でブラジルの開発にとりかかるが、最初に興した産業が砂糖の生産であった。東北伯の気候と土壌が砂糖キビの栽培に適し、大規模な砂糖プランテーションが現出した。自給自足の開拓時代にあって、唯一の生産物であった砂糖キビを利用して、カシャサは生まれるべくして生まれた。以来、ブラジル各地に砂糖キビの栽培が広がるにつれて、カシャサもいたる所で作られるようになっていった。カシャサの作り方はしごく簡単である。砂糖キビを絞る小さな機械と、2〜3日の間絞り汁を寝かせ発酵させる為のタンク、それに最後の仕上げである蒸留釜があればいい。唯、蒸留釜は銅製でなければならない。銅製の蒸留釜を「アランビッキ」という。大きな設備投資はいらない。そのため、砂糖キビ産地のあちこちに小さな醸造元がたくさん誕生していった。実はこのことが、広大なブラジルの中で、地域的に変化に富んだ土質や気候の違いによる影響により、実に多様な風味を持ったカシャサという国民酒を生むことにつながったのである。多くの銘柄の風味の違いにこだわるのは、それを作り出した地域の風土を知り、地域の文化を味わうという知的な楽しみにつながるからだ。家族労働による手作りのカシャサを「アランビッキ」と略称され、珍重されている。旅の途中でその地方の「アランビッキ」の醸造元を探し出し、親父さんの昔話を聞きながら文字通り手作りのカシャサを味わう。そんな楽しみ方もしている。多様性を尊重するブラジルの国民酒は、色んな地方の「アランビッキ」から滴り落ちるカシャサでなければならない。




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