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ボリビアのラパス在住の南雲謙太郎さんからのお便り。
あるぜんちな丸第12次航(1962年5月11日サントス入港)でボリビア国に移住された南雲謙太郎さんから次のようなお便りが届いています。写真は、南雲さんの住んでおられるボリビアの首都ラパスの町並みです。遠くに万年雪を湛える山々が見えます。

名前        南雲 謙太郎
生年月日      昭和23年9月20日
出身県       長崎県 長崎市港外高島町端島
入植地       サンタクルース州 サン フアン移住地
当時の家族構成   家長 南雲 勲(父) マサ子(母) 三代子(姉 次女) 本人(長男) 忠範(次男)
現住所       Calle Eduardo Berdecio #1800 eqa Landaeta Alto San Pedro
          Tel (02)248-7091 FAX(02)248-7222 Casill(P.O.BOX) No 4318
          La Paz Bolivia
          E-Mail kentngm@ceibo.entelnet.bo
現在の家族構成   家長 本人、デイ子(妻 二世)、 奈々美(長女)、清美(次女)、広見(長男)


私達ボリビア移住者達はサントスより鉄道にて約2週間の旅でボリビア国サンタクルース市に
到着、サンタクルースよりはトラックに乗り目的地のサンフアン移住地に入植致しました、
各家族自分の選んだ土地に入植でき私達家族も移住地の上の方30Km方面に入植致しました、
入植当時より殆どの人が米作に励んでいましたが価格変動が激しく豊作貧乏で当時皆な苦労致して
おりました。私自身、学校も中退し営農に励みましたが父の商売の失敗による借金を二重取りされ、
全ての農機具を取られた上一年分の収穫米も押えられ生活も困る様になりましたが、家族で力合わせ
2年後にサンタクルース市に家族皆で出て行き野菜作り、スナック、食堂、塩豆作り等色々と商売
いたしました。父も持病の喘息と珪肺のため73年59歳で亡くなりました。此れより母は一人でサンタクルス市で商売をしながら暮らしたおりました。姉と弟はアルゼンチンに出稼ぎに行き数年で戻り商売をしておりました。数年は順調でしたが80年に姉は一人で日本に引き上げ苦労し現在石川県山代温泉に自宅を購入し今は母を呼び寄せ一緒に暮らしております。弟の方も色々と仕事勤め又は商売等しておりましたが90年から日本へ出稼ぎに出ており現在まだ日本滞在中です。私自身は、サンタクルース市の電話網充実のため当時日本より沖電気工業が施設取付工事の為に来ており臨時工員とし仕事致したのが機縁となり約25年間沖電気工業ボリビア駐在員事務所員として勤め上げました。一時はブラジル サンパウロに2年半ほど新潟県出身の蓮沼氏の経営する工場に勤めた事もあり、又沖電気勤務時期もブラジル バイヤ州の(当時TELBAIHA?)通信網工事等にも参加し、また南米各地の沖製品取付補修等の業務のため殆どの国に出張で行かせて頂きました。92年沖電気駐在員事務所閉鎖に供ないN.G.Mという会社を興し沖電気代理店とし現在まで電話通信関係工事補修、部品販売等のアテンドをしておりましたが、先々はホテル経営と思っており98年6月よりホテル建設を始め今年1月より無事営業出来るようになりました。この間資金的、人員的問題で工期が遅れましたが無事故で完了する事が出来ました。振り返ってこの40年の見れば若いときの苦労、女房子供達の支え又回りの人達の応援が有った故、今の自分が有る事、感謝の気持ちを持っており、此れよりまだ20年間は現役として輝かしい晩年を目指して頑張って行きたいと思って下ります。短い40年記ですが、最後に和田好司さん始め編集に御苦労為されている皆様に対し応援と感謝込めてお礼を申し上げます、
                          以上



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