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「おいやんのブラジル便り」真砂 睦さんの【黒潮タイムズ】掲載ブラジル便り(4)
「おいやんのブラジル便り」愈々寄稿集(4)に突入です。筆は冴えてきているのですが、連載23ともなると期限内に其れも字数を気にしながらの毎回の纏め胃が痛くなったり、寝つきが悪いとの事です。ブラジル滞在中は、何としても続けるとの事ですので、連載50回は達成するのではないでしょうか。2年間のシニアボランタリーの大切な業務も然ることながら、おいやんのブラジル便りは、その金字塔として残るでしょう。何時も読んでおられると云う元学生移住連盟のブラジル派遣生のお一人京都にお住みの山添 洋子さんのご意見をご披露して置きます。
真砂さんの「おいやんのブラジル便り」ちょっと堅い内容ですが、読ませて頂いています。私は、大阪の生まれで、結婚して京都に住んでいますが、両親は、和歌山の人間ですので、「おいやん」のイメージよく分かるのです。大阪や京都で言うところの「おっちゃん」で、
「オジサン」の愛称と言えばよいでしょうか。
写真に付いて真砂さんに問い合わせた所次の返事が戻って来ました。
『和田様
いつも私の法螺話にご配慮頂き恐縮しております。
写真をとのご依頼ですが、てきとうなものがありませんので、すみませんが前回の移住研OB会の時のものを使っていただけないでしょうか。宜しく御願い致します。
ネタ切れの悪夢に追われて、このところ寝付きが良くありません。
真砂 睦』


「おいやんのブラジル便り」(その23)        2004年4月25日

ブラジル中銀は、2003年度の海外在住のブラジル人から本国への送金額が22億ドル
に達したと公表した。海外に働きに出ているブラジル人が外地で稼いだお金を送ってきたものである。箪笥にしまっておいた現金をポケットに忍ばせて祖国に帰ってくる人々のことも考えると、実際の外貨の持ち込み額は更に大きく膨らむ筈である。同じ年にブラジルが商品輸出で稼いだ外貨と比較すると、この金額の重みがわかる。大豆及び大豆製品が81億ドルで断然トップだが、食肉40億ドル、鉄鋼製品30億ドルに次いで第4位の稼ぎなのである。第5位以下は、砂糖21億ドル、航空機19億ドル、コーヒー15億ドルと続く。2001年から2003年までの3年間に送金されてきた国を見ると、アメリカ合衆国が32億ドル、次いで日本が18億ドルとこの2国からの送金がだんとつで、続いてドイツ2億1千万ドル、スイス7千600万ドル、英国6千2百万ドルとなっている。ブラジル外務省は海外で働いている「出稼ぎ者」の数を約200万人と推定している。うち、アメリカに80万人、日本に30万人のブラジル人が働いていると言われる。日本に居る「出稼ぎ者」の大半は日系人だ。1980年代、バブルで膨らんだ日本は、歴史上初めて外国人の就労に対して門戸を開いた。同じ日本人の血をひく日系人の入国が優先された。日系人が集中するサンパウロの日本総領事館に査証の発給を求めて、長蛇の列ができた。1988年のことであった。以後、日本のバブル崩壊の影響で行ったり来たりの増減はあったが、今では30万人近い日系ブラジル人が日本の労働市場の一画に組み込まれている。日本人が嫌がる現場労働が多いと聞くが、今では無くては困る働き手であろう。島国日本は外国人と一緒にやってきた経験に乏しい。異分子をなかなか受け入れない。一方の日系人は、百人が百人とも違っていて当然というごった煮のブラジル社会育ち。一つの考え方や規則に押し込められるのを極端に嫌う。顔は似ていても日本人とは流儀が大いに違う。この違いを受け入れるのに日本人は慣れていない。多くのトラブルもあると聞く。しかし日本は、早く毛色の変わった人々を受け入れることに慣れなければいけない。日本はもうすぐ老人ばかりの社会に近ずく。若い者が少ないので、人口もどんどん減り始める。老人達を養うだけの税収も入らなくなるばかりか、老人達の面倒を見る人手にも不足する。海外から若手の働き手をどんどん招き入れないと、社会がもたなくなる。ブラジルの日系人は、鎖国日本のわずかに開かれた扉をくぐって入ってきた最初の外国人である。外国人だが血がつながっている。おじいちゃんやお父さんは日本人なのである。日本語はたどたどしくても日本には憧れもあり、親しみも持っている人達である。そんな日系人と仲よく暮らせないようでは、日本の先行きは暗い。しかし「出稼ぎ」の日系人の親達は、夜間労働もいとわず一生懸命汗を流している陰で、深刻な問題を抱えている。日本の学校に入れても言葉ができず学校に馴染めない不登校児童が増えているというのである。日本の自治体や学校も懸命に対応策を模索しているので、徐々に解決されていくに違いないが、18億ドル送金の代償は小さくない。日本人も日系人も、もう暫く苦しい模索が続きそうである。


「おいやんのブラジル便り」(その24)      2004年5月1日

1970年代は米国の中国承認、ドルの変動相場制移行という激震で幕を開けた。程なく穀物メジャーの中国への大豆・小麦の販路開拓を狙った集中販売のあおりをくって、米国産大豆の対日禁輸が断行された。あい前後して第一次石油ショックが勃発。安全と食料は米国、石油はアラブ諸国に根を張る石油メジャーにお任せで、せっせと商売に励んできた日本も、ここにきてようやく自らの足元がゆれ始めたことに気がついた。食料も石油も日本に入ってこなくなるかも知れない!! 地平線上に現れた薄雲がゆっくりと黒い雨雲に変わり頭上を覆い始めた、そんな漠とした不安が広がっていった。エネルギー・鉱物資源や食料は国の生命線、人任せでは危ない。札びらを切っても資源が手に入るとは限らない。資源は自らの手で確保すべし、という大戦前の「南進政策」を思わせる世論が、きな臭い空気をかもし出していった。地球の反対側で距離はあるが、世界有数の鉱物資源を持ち、緑したたる広大な農業開発余力をもてあましていたブラジルに照準が合わされた。一方、100万人を越す日系人の存在を通して、ブラジル側にも日本に対し「親戚同士」とも言える親密感があったことが、日本を戦略的パートナーとして受け入れる後ろ盾となった。田中首相が訪伯し、ガイゼル大統領も訪日した。日伯の蜜月時代が訪れた。それは戦後一貫して米国におんぶに抱っこであった、戦略無き脳天気国家日本が大戦後初めて見せた、アングロ・サクソン支配網から抜け出そうとする懸命の抵抗のように見えた。日本経済の背骨であった製鉄を筆頭に、アルミ原料ボーキサイト開発、製紙原料パルプ用植林、農業開発等の企業が一斉にブラジルにやって来た。これらの大型開発事業のブラジル側の受け皿となったのが、国の資源開発の現場を担っていたリオドセ社であった。リオドセ社は、鉱山開発・鉱物選鉱処理・鉄道輸送・大型港湾の運営・地域開発とその一環としての植林等、資源・地域開発の総合企業で、当時すでに鉄鉱石の輸出では世界一の実績をあげていた。幅広い分野の優秀な技術者でかためられた巨大な頭脳集団であった。当時まだ国営であったが、民間企業顔負けの効率・採算志向の強い専門家軍団で、日本企業にとりなんとも力強いパートナーであった。リオドセ社が本拠を構えるリオデジャネイロに出入りする日本人が増えた。黒っぽい背広を着た紳士達が、リオの暑さに鼻の頭から汗を流しながら足早にリオ・ブランコ大通りを行き来する姿に、陽気なリオっ子(カリオカ)達は口笛を吹いて面白がった。リオにはごく少数の日本人しか住んでいなかったせいで、珍しかったのである。しかし、珍しいのは日本人も同じである。大通りのど真中で大きな身振り手振りで話に熱中している褐色の男や女達から、ブラジルの熱気がまき散らされていた。いきなり飛び込んだ極彩色の喧騒にあてられ、目まいをするような興奮で汗を流していたのである。70年代も半ばになると、リオで合弁基本契約を固めた日本の企業群は、やがて三々五々それぞれの生産現場である奥地へと活動の拠点を移していった。初めて異国の開発前線にとび込む緊張感で、こわばった顔をした日本人技師に寄り添うようにして、ガレオン国際空港から奥地に向かうもの静かな男達が散見された。日系人であった。(次号に続く)


「おいやんのブラジル便り」(その25)        2004年5月8日
(前号から続く)
当時、「ブラジルが潰れても、リオドセ社は倒れない」とまで言われていた強力なパートナーとの合弁事業とはいえ、前線に飛び込んだ現場部隊は苦労した。先ず言葉。シェイクスピアは語れても、英語で仕事をこなせる日本紳士は少ない。相棒の方も当時、アメリカ嫌いがインテリの条件となっていたようなお国柄。空気を吸い込んだフグがしぼり出すような発音では仕事にならない。世界の共通語で意思が通じないとなると、地元のポルトガル語が共通語とならざるを得ない。これでホッとした日本人が多い。何十年も単語を詰め込んでも、ロクな会話もできない英語では恥ずかしさが先にたつ。ポルトガル語ならできなくて当たり前。なんとも気が楽である。しかしそれには仲立ちが居ないと始まらない。日伯二つの言葉をあやつれる役者が必要だ。そこで日系人が出てくる。2世だがお父さんに厳しく日本語を叩き込まれたドラエモンを思わせる丸顔の青年。幼少のころブラジルに渡り、奥地の辛い農作業をきらって町に出て来た準2世。若い頃露天市場(フェイラ)で野菜を売りまくっていたという頭の大きな男。夜、大学で勉強する為に働いている陽気な若者。そして奥地の日本人入植地の小学校時代、「教育勅語」で日本精神を叩き込まれたおいやん。日に焼けて黒光りするたくましい腕が共通していた。みんなサンパウロ州からやって来た。日本語の力はばらついていたが、日本人と一緒に働くのを喜んでいた。オシでツンボの日本人技師に働いてもらうのは骨が折れる。住居の借り入れ、買い物の手ほどき、レストランでの注文のしかた、事務所の美人秘書の喜ばせ方、タクシーの乗り方、物貰いの追っ払い方、小切手の書き方、医者のかかり方など手取り足取りの指南。そして仕事の通訳。つきっきりのお手伝いである。無事事業が立ち上がり開所式典が開かれても、彼等日系人の名前が表に出ることはなかったが、事業の順調な滑り出しを喜んでくれた。あれから30年。みんな歳をとった。一人や二人の孫を持つ歳になった。孫は4世になる。その昔、入植地の「教育勅語」で鍛えられ、ポルトガル語より日本語で話す方が好きだと言っていたおいやんだったが、子供達や孫は日本語が得意でない。家族の会話も日本語では肩身が狭くなった。おいやんは心なしか寂しそうである。1970年代は日本に憧れ、少々古い言いまわしながら格調の高い日本語をあやつる2世達が、第一線で輝いた時代であった。日本の企業は彼等に支えられてブラジルで事業を展開した。時代が移りブラジルの日系社会は今、3世とその子供達の時代に入ろうとしいている。日本からの新移民はばったり途絶えて久しい。1世も2世もめっきり歳をとった。日本語をあやつれる2世達は現役を退いた。日本語は「親からの継承語」という位置から、習得が難しい「外国語」に変わってしまった。公私丸抱えの通訳をはべらせて仕事をするという贅沢など、はるか昔の夢物語になった。世代を経た日系人達も、顔は似ていても日本人も一人の外国人として冷めた目で見ている。オシでツンボの日本人を丸抱えで面倒を見る気など毛頭なさそうである。日本はいつか又、食料や鉱物資源を求めてブラジルにやって来るだろう。その時は自ら英語やポルトガル語で脂汗を流しながら、仕事をこなす覚悟が必要のようである。


「おいやんのブラジル便り」(その26)        2004年5月16日

中国のやくざ「蛇の頭」や日本の「ヤクザ」は、それぞれ原語読みで世界に通じる。「ヤクザ」は日本語そのままで世界語として定着した数少ない単語のひとつである。ブラジルにもなかなかしっかりしたヤクザ組織がある。これが相当手強い。組織プレーが苦手のブラジリアンだが、この地下組織はなかなかのものである。必要とあらばちょっとした軍隊並みの戦闘力を発揮する。「マフィア」という呼び方が似合っているかも知れない。シカゴの大親分アル・カポネは密造酒が資金源、中国や日本のヤクザは人身売買や売春という女性絡みの湿った商売が得意だと聞くが、南の国では麻薬と武器の密輸で派手に立ち回っている。数あるグループの中でも、最も活発なのがリオのマフィアである。ブラジルの大都会にはほぼ例外なくファベーラと呼ばれる貧民窟がある。警察の手も及ばない無法地帯となっている所が多い。リオでは市の人口600万人のうち、100万人近い人間がファベーラの住民ではないかと言われている。勿論、ファベーラの住民の多くは真面目な働き手なのであるが、同時に地下組織の本拠ともなっている。そうしたファベーラに潜む親分衆が麻薬の流通を握り、ボロ儲けをしている。親分の指揮下、麻薬は毛細血管のように張り巡らされた末端の売人まで流され、人々に浸透させていく。小銭欲しさに麻薬の売人がどんどん増えていく。麻薬中毒者も増えていく。中毒者が薬を買う金が欲しくて市民を襲う。麻薬売買を取り締まるべき警察官が組織に買収されているので、なんの抑止力にもならない。リオやサンパウロで住むには、いつも5000円程の現金をポケットに入れておけと忠告を受ける。襲われた時、薬代として差し上げる現金を持っていないと、腹いせにドンと撃たれるからである。親分衆は組織が巻き上げた金でせっせと武器を買い、戦闘力をつけていく。武器の入手手段は密輸だけではない。軍人と結託して、陸軍や海軍の武器弾薬庫から最新鋭の武器を裏から手に入れることまでやる。先だっても、リオの海軍武器弾薬庫から高性能機関銃や地雷までもがごっそりと地下組織に横流しされ、新聞紙上を賑わした。そうしたリオの親分衆の縄張り争いで、数ヶ月前に派手な戦闘が展開され、数十人の死人がでた。なにしろちょっとした軍隊並みの武器で固めた組織同士の戦争である。警察ではまるで歯が立たない。市街戦さながらの戦闘にさすがのリオ市民も震えあがった。打つ手に窮した州政府は連邦政府に駆け込み、「陸軍」の出動を要請した。もはや警察力ではどうにもならないと見た陸軍は、2000人の軍隊をリオに「派兵」することを決めた。先に手を出されない限り軍が麻薬組織相手に発砲することは許されていないが、警察の後ろからにらみをきかすことになった。世界有数の観光都市リオの目抜き通りに重装備のタンクがやって来た。争いの舞台となったファベーラがタンクに遠巻にされ、砲撃の照準が合わされた。陸軍の援護を得た警察は今、組織のアジトを襲う機をうかがっている。しかし重装備のタンクで迫っても、警察や軍隊までも買収の手を伸ばしている地下組織を根絶するのは容易ではない。麻薬がらみの犯罪が横行する街では、治安が好転する気配はいっこうに感じられない。当分の間、5000円の命金をポケットに入れて歩かねばなるまい。


「おいやんのブラジル便り」(その27)        2004年6月13日

先般「母の日」に、以前一緒に熊野本宮大社にお参りしたブラジル人夫婦に招待された。4人の娘さんとその連れ合いや友人達も集まって、ワインと日本酒と寿司が並べられ、賑やかな午後を楽しんだ。ホスト役のご主人はドイツ系2世。どういうきっかけであったか、ご主人が戦時中の苦労話を始めた。「親父はドイツ語にこだわっていたので、戦時中もドイツ語を捨てようとせず、憲兵につかまり何度も監獄に入れられた事があったよ。私も若い時期にドイツ語が勉強できず、今だにドイツ語が上手くならない」「日本人も同じで、日本語の温存に苦労したらしい」と顔を寄せ合って話していると、近くで聞いていたブラジル人が「日独枢軸会談か」と呟いた。この一言で30年前の若いドイツ人夫婦との出会いを鮮やかに想いだした。ブラジル幼稚園に通っていた娘の友達の誕生パーテイに、ひときわ色白の真っ青な目をしたカップルが居た。ゲルマンだ。ビールを勧めながら「ドイツからか」と聞いたら「日本生まれか」と返してきた。「先の大戦で少数派の日独が戦っていく為に、互いの技術交流が生命線だった。日本の戦闘機と軍艦、ドイツの潜水艦と戦車の進んだ技術を交流する為に、極秘のプロジェクトが組まれた。双方技術情報を詰め込んだ潜水艦を出し、アフリカ喜望峰の沖合いで落ち合って技術図面を交換する。米英包囲網に悟られない為に、本国を発った潜水艦は一切の無線連絡を禁じられていたが、2隻の潜水艦は決められた時間に決められた場所にピタリと浮上し、無事任務を果たした。日本とドイツだからできたことだと思わないか。相手がブラジルだとこうはいかなかっただろうな」とどこかで聞いた話をすると、身を乗り出してきた。「近く一杯飲りながら話し合おうじゃないか」。若い夫婦との付き合いが始まった。旦那はベルリン大学出の音楽家、奥さんは白ワインで有名なモーゼルの酒蔵のマイスターの娘。とにかく理屈っぽい。給料の比較をするのも絶対額では満足せず、実働単位時間当りの額で迫ってくる。車を走らせれば、時速何キロで走れば一番経済的か、懸命に速度とガソリン消費の記録を取る。人口一人当たりのノーベル賞受賞者の数は、ドイツが一番多いと計算機を弾く。日本語の文法構造を説明しろと突っ込んでくる。ゲルマンを敵にまわすとうるさい。論理が完結するまで手をゆるめない。情緒民族日本人の「まあまあ」は通じない。夫婦を通じて他のドイツ人数人とも知り合いになった。理屈っぽいところが共通していたが、ビールを酌み交わしているうちに、論理で固められている筈のドイツ魂の裏側に、特有の感情が隠されていることがわかってきた。「仲間意識」が強い。「仲間」になると、論理を超えて大いに情緒的な付き合いになる。ドイツ人は歴史を忘れない。「一緒に戦った」という歴史体験を共有した日本人にたいして、密かな仲間意識を持っているように見える。仲間どうしの語らいは、夜明け近くになって肩を抱き合ってお開きになることが多かった。理と情の両端に居ると思われるドイツ人と日本人であるが、実は彼等も熱い「情の世界」を隠し持っていた。「母の日」にホストと私が話しこむのをみて、「日独枢軸か」と呟いたブラジル人は、他人には近寄り難い二人の間の密かな仲間意識を感じたのかも知れない。民族性とはつかみにくいものである。


「おいやんのブラジル便り」(その28)       2004年6月20日

20年ぶりのブラジル生活で大きく変わったのは、英語が随分と身近になったことである。
なにしろあの頃はブラジル人も英語が得意ではなかった。日本人といい勝負だった。下手どうしなので、互いに劣等感を感じないで済んだ。相手も嫌がる英語は捨てて、やぶれかぶれのポルトガル語で済ませられたのだから、いい時代だった。ところが最近は違ってきた。英語を上手にあやつるブラジリアンが増えてきた。外の世界との商売上の交渉事は言うに及ばず、映画を見るのも英語、娯楽や学問的な情報も全て英語で迫ってくる。ちょっとした企業なら英語があやつれないとまず採用しない。日系の企業ですら、日本語ではなく英語の力で採用の可否を決めるところが増えてきた。厄介なことになってきた。英語といえば、日本の半分の人口に満たない島国イギリスの言葉である。それが世界語になった。
しかしイギリスは最初からトップランナーだったわけではない。16世紀、17世紀はポルトガルとスペインに先を越され、彼等が新大陸から持ち帰る金や銀を略奪することに全力をあげていた海賊国家であった。しかしこの海賊、ただものではなかった。蛮刀を振り回すだけではなく、恐ろしく悪知恵に長けていた。南米からイベリア半島に運ばれた大量の銀と金を、巧みな外交戦略でそっくり掠め取り、それを元手に産業革命を起こし、金本位制を押し付けることで世界の通貨供給の胴元となり、綿製品の販路確保の為にインドの綿畑をアヘン畑に変えさせ、インドで作ったアヘンを中国に持ち込み、アジアの二大国家インドと中国が骨と皮になるまで利益を吸い取った。その一方で、19世紀にはブラジルとアルゼンチンの鉄道と港を押え、南米の二大国家ブラジルとアルゼンチン産の国際商品、砂糖・コーヒー・綿花・食肉・原皮の流通を完璧に牛耳った。ブラジルとアルゼンチンは、大英帝国の陰の植民地と言われた。イギリスはアジアや南米で荒稼ぎする一方で、北アメリカとオーストラリア・ニュージーランドを占有しいていたのだから、恐れ入る。日本の半分の人口しか居ない島国が、ほんの2世紀程の間に世界の主要な地域を、経済的・軍事的に手のなかに握りこんでしまったのである。英語はその後について来た。20世紀になると、イギリスの落し子アメリカの世紀である。アメリカは親に勝る征服欲の強い国である。広大な沃土を有することが何よりも強い。親ゆずりの技術開発力も相まって、軍事はもとより、産業・食糧生産で世界を牛耳っていく。主だった石油資源も押えた。そしてコンピューター。アメリカが開発した基本ソフトを抜かれると、人類の一切の活動が瞬時に停止する。水爆も及ばない破壊力である。コンピューターの原語は英語である。コンピューターの専門用語は日本語にも翻訳できない単語が多い。日本自前の技術ではないから、自前の単語もないのである。だから英語の理解力がないとコンピューターを操れない。かくして世界の共通語としての英語の地位は磐石となった。かって英語嫌いで定評のあったブラジル人も、今や習得に余念がない。英語知らずでは外の世界と遮断され、一人孤立してしまうからである。親と子、2代かけてアングロ・サクソン一家は自国語を世界語に仕立てた。しかし英語が国際語になった後ろには、生臭い歴史も隠されているのである。

「おいやんのブラジル便り」(その29)          2004年7月17日

「ブラジルの大きさは距離で測っただけではわかりません。社会的尺度でも測らないといけません」と言われる。日本の23倍の国土はうんざりするぐらい大きい。ところがその地理的な大きさに感心ばかりしていると、この国の本当の大きさが見えてこないというのである。「社会的尺度」を「社会格差」と置き換えた方が理解しやすいかも知れない。先日知人から、ある日本人老移民の話を聞いた。老人は戦後も初期の移住者としてブラジルにやってきた。サンパウロ州の奥地に入り、苦労の末ちょっとした農場を借地し、コーヒーを植えるところまでこぎつけた矢先、突然大霜にやられ、大事に植付けたコーヒーの若木をすっかり枯らしてしまった。無一物になった彼は、近辺の日本人社会に居ずらくなったのであろうか、ある日ひっそりと一人で入植地を抜け出し、700キロ程離れたブラジル人の農場に労務者として雇われた。農場労務者は通常農場内の、寝室が一部屋にかまどだけが付いた粗末な小屋をあてがわれる。決まった現金収入はないが、なんとか三食にありつける生活が始まった。真面目によく働く日本人をパトロンは重宝した。ある日、パトロンの許可は得ていると言って、若いブラジル人女性が小屋にやって来て、みすぼらしい荷物をといた。「今日からあんたのおかみさんよ」と言う。聞くと、1年間の区切で一緒に小屋に住んで身の回りの世話をする、嫌なら1年間で別かれ、望むなら次の年も続けていこうという。期限付きの契約同棲である。これといった現金収入もない最底辺の農場労務者を渡り歩く女達。条件は唯ひとつ、もし一緒に住んでいる間に子供ができた場合、子供は女のものとなる。これが鉄則である。子供は将来の女の生活の保障になるからである。パトロンは近くの町の大きなプールのある豪邸に住んで、時々大型ジープで農場にやって来る。ベンツも2台持っている。子供達は高校生になると、サンパウロの別邸に移し、私立高校に通わせる。日本人労務者もかつて、パトロンのような生活を夢見て汗を流した。日本人は運が無かった。日本から元手を持参する余裕もなかったし、一緒に汗をながしてもらえる身内も居なかった。霜にやられた時、一人で立ち往生するしかなかった。運命の辛い仕打ちに、ひっそりと悔し涙を流した日もあったが、やがて時が日本人の熱かった感情を封じ込めていった。パトロンに重宝された日本人も70歳を過ぎた。女とも契約を打ち切って久しい。ある日パトロンが小屋にやって来た。「長い間よく働いてくれたが、時が来たようだ」と言って5万円程の現金を握らせ、老移民をジープで近くのバスターミナルに連れて行った。「良い所を見つけて、老後を楽しめよ」と言って立ち去った。何十年ぶりかで町の喧騒に放り出されて、老移民は立ちすくんだ。帰るべき家も、話し合える家族もない。パトロンが握らせたわずかばかりの現金はすぐに使い果たした。途方に暮れている老移民に目を留めた日系人が、サンパウロまでのバス代を支払い、バスに乗せてくれた。日本人老移民は今、サンパウロの日系老人福祉施設に身を寄せ、静かにその時を待っている。広大な大地に君臨する大農場主と、貨幣経済の外に放り投げられている農場労務者。距離では測れない大きな落差である。ブラジルの大きさを知るのは、楽しい事ばかりではない。










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