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【産業開発青年隊 パラナ訓練所・元所長 石井延兼 レクイエム】牧 晃一郎 さんの寄稿
あるぜんちな丸第12次航には、建設省派遣の産業開発青年隊員が合計33名が乗船しておりました。既に5人の仲間が亡くなられておりますが、今も各地で元気に活躍しておられます。その内の一人牧 晃一郎さんは、南米産業開発隊協会の会長にこの4月に就任しておられます。1956年6月9日にサントスに到着したに第一期生18名から合計326名の産業開発青年が来伯、帰国者もいますが現在でも200数拾名がブラジルにおられ大きな団体としてその結束を誇っています。新しい会長としての牧さんの今後の青年隊50周年へのビジョン等をパラナ訓練所長をしておられた石井延兼さんへのレクイエムとしてパラナ訓練所時代の思い出を通じて語っておられます。原稿は、随分前に頂いていたのですが、デジタル化(タイプアップ)が出来ずにそのままになっていましたが、大阪に住む妹の阪口多加代にやつと叩いて貰いました。
写真は、今週サンパウロに出向いた時に昼食を共にしながら産業開発青年隊の今後への抱負等をお聞きしながら撮らせて頂いた近影です。


小山と俺とで貴方の農場を訪ね、3人で農場の小路を共に歩いて、早4年に成るのですね。
あの時石井さんは、「僕は92歳迄生きるんだ」と言われたので、それは又どうしてですかとお聞きしたら、「僕は夢を見たんだ、夢の中で貴殿は92歳迄生きると言われた」「それはいい話だ。明るくて、おいしい話でまだまだ遠い先の話ですね」と言うと石井さんは立留まって大きく顔を上下にされて、躍動感を全身に現し、自分自身に強く言い聞かせている様子。そのしぐさが、少年の様に鮮やかな印象となって私の心に残っています。
 貴方は、私に、沢山のエピソードを残して逝かれましたね。しかも不良で悪の勲章まで授けて頂き、今はあの山の仲間たちと共に懐かしく受け止め、大切な私の宝物としたお預かりしています。
粗末なふるまいをした事に気付いたのは帰国してからです。ブラジルに居る間は、ほら、つい生活に追われていて、それどころじゃなかった次第。私の帰りを待っていたかの様に父も病に倒れ、身近に父と肌を接するようになってからです。石井さんと父は余りにも共通点が多過ぎて、貴方との距離をなくしていた事に気付きました。石井さんも父も酉年生まれで誕生日も確かひと月違いのはずです。父は学生時代に胸を病み、同じ死ぬならと覚悟を持って大陸の渡った、反戦主義で剣道がとても強かったと叔父から聞きましたが、石井さんと同じ酉年でも、父は闘鶏のシャモ、男兄弟の教育は拳骨一本、石井さんはやさしい育ちのよい白色レグホーン種、家庭の文化も環境もまるで違うのです。父と口論となり怒られた言葉の数々をひろってみると、石井さんから怒られたのは当然だったのですよ。若気の至りで、気付くのが余りにも遅かった。しかし、お蔭で山の記憶が鮮明に残っているのです。石井さんのやさしい人と判ってからは距離を置き、そこからの記憶がないのが、むしろ今になってはさびしい限りです。
 初めてウムアラマの町に出る許可を頂いたのが、血液検査の許可。俺様にとっては何でもよかった、街に出られる事が、ささやかな、いや、大きな夢。レストランで出て来る豪華な肉の塊、見ろ、豚肉ではないのだ、すべて牛の肉なのだ。それに色彩豊かなサラダ。
解放感と心の贅沢、日頃山では口にしないものばかり。それに夜の花馬車、早いもん勝ちの精神で「セニョリータ、メウ、コラソン エ セウ コラソン、トロッカ、トロッカ」と初めて使う、俺様のポルトガル語。それでも何とか通じた時の感動と云うやつ、しびれたよ、石原裕次郎を顔負けよ。奴には俺も泣かされたぜ、多少腰から下が短いか目に仕上がっているばっかりに難儀なことよ。あとで冷静に考えてみるに、相手さんだって商売だから、静かに黙って立っていたら判っていたろうによ。それでも帰りのバスの中で真剣に考えていた事は、俺の働く場所はウムアラマの町と堅く決めて帰るのだから、相当なお天気者よ。
そんな事があってから、やがてひと月、改めて血液検査の許可を頂きに行くと、いやあ石井さん怒ってね。君は何を言っているんだ、先月行ったばかりじゃないか、と言われてね。そしてそんな事忘れかけた頃、何の話か定かではないけれど、君はもっと真面目にやらないといけないと言われてね。そんな事、ひと月もふた月も後々まで、いい大人が忘れてやるものだと言ったから、石井さん、本心から叱曹ウれたと思う。そんなこんなで不良の不の字は、どうもその頃付いたものらしい。
その頃だったと思う。エンシャーダの柄のつけかたも覚え、マモナ畑も綿畑のカルピも人並みのとはいえないが流せる様になったある日、希望者の配置換えとなり、変化の富んだ野菜畑に落ち着いた次第。日ごろ目にする野菜畑とは違い、こいつがめっぽう奥行きが広くて、何の事はない、マモナや綿がミーリョとマンジョカに替わっただけで、基本的にエンシャーダはエンシャーダ。それでも大岡君は無口で時間一杯目一杯、いつみても額に大粒の汗をかいて、そいつをタオルで拭き拭き黙々とやっている。石井さん好みの真面目人間、何時までも石井さんのそばに置いていてやりたい人なので、俺は自然と遠くの方のカルピに廻った様な気がする
我々の部屋は同じ関西出身の山下、小山、北田と私の4人構成で、いわば気心の知れた者同志で何事もスムーズに流れていた様に思う。山下はパスト係で馬と牛の世話をやり、馬も牛も好きな石井さんとは性格的に言わば妙に気の合う関係だったように思う。俺の好きなレイチを搾ってはコーヒータイムを楽しませてくれ、仲々頼りになる奴だった。
ある日、未だ見た事もないバナナ畑を通り、その下の方に続くパストに足を進めていたら、何やら大きな人の声。見るとセルカの手前に牛が一頭、声はその下方から。近寄って見ると山下が搾乳に奮闘中。話しかけると、彼も思わぬ所に俺が来て結構話に夢中になって来た。その時『牧よ、毎日毎日一人でいるとたまには皆んなと一緒に汗かいてみたいよ』といつにない軽口。彼の心情が判る気がした。その内せせらぎの音が聞こえてきて「山下、この近くに川があるのか」と聞けば、「 何?川はないぞ」「おかしいな、俺せせらぎの音が聞こえるけれど」と、牛の背中の上の方から目を通してそれとなく眺めていると、山下の大きな声「またやりやがった、こいつ!」 
うん、なんだ? 見れば動かぬ様に両足を縄で縛って固定するのはよいが、蠅叩きになる尻孱も一緒に縛っていたので、牛の奴放尿しくさってそいつが尻尾を伝ってそのまま、牛乳缶の中にせせらぎとなってしっかりと貯えられたのだ。悲しいかな山下は、子供の頃耳を悪くして片方が不自由なのだ。俺には聞こえるあのせせらぎの音が、彼には判らなかったのだろう。すかさず山下、大きな声で、「牧、お前今日は飲むなよ」よっしゃ、ふたつ返事でその日は終わった。
けれども、レイチに目がなく貴重な蛋白源として大事に飲んでいた俺にとっては、次の日から悩みがひとつ増えたのだ。コーヒータイムの時、山下が飲めば俺も飲む、レイチが沢山あって山下が居ない時は俺は飲まない。判らない時はカネカにレイチをついで山下に渡すのだ。彼が飲まない時は俺も飲まない。なにしろせせらぎは半端な量じゃないのだ。これも同室の誼と云うやつで黙って俺の問題として片付けていた訳だ。
 その頃から輪が部屋も何かと騒々しくなって来た。豚当番の早川がお尻に名誉の豚傷を受け、北田が豚当番を引受けて問題を部屋に持って来たのだ。夜明けと共に豚君がキーコキーコと泣きだすと、我部屋では北田の大きな溜息と舌打ちと共に嘆きが充分に伝わって来るのだ。元気良く戸を開けて日入って来て「体操だ、起きるのだ」と石井さんの声がかかるまで決して起きない、私も起こされながら又夢も中に落ちて行く。あの夢宝の時と言うか童心に帰って行く様な一種の心地よさ、あの一瞬の心の贅沢、これは横着者と一方的に決めつけられても困るのだ。たとえ体操へは出なくとも、コーヒーとパンのヘタを胃袋に入れないとエンシャーダは持てない。その日一日使いものになるように、当方にて充分調整しているのだ。付け加えれば部屋の優等生小山は、何時も起こされる前に部屋を出て行く感心な青年を勤めていた。
どこの国でも災難は突然に降って沸いてくるものだ。レタスの苗畑に豚君が闖入、いや かな、ムーダを食べているのだから慌てるぜ。思わず「大岡はどこに居るんだ」生憎彼は野菜を届けに調理場へ、俺は奥の方でカボチャの種を播いていた最中の出来事。仕方なく苗畑の手入れをしているところへ石井さん御帰宅。事情を説明した所、石井さん、こんな所に豚が来る訳がないのひと言。「この足跡が馬か牛か、これ見てくれ。」石井さんも負けてはいない、君はどこで何をしていたのか、だもんな。「俺がどこで何をしていても、この場合関係ないの、問題はここに豚君が訪問された事が判ればいいの。後はこちらの問題。年甲斐もなく大人げない」と言ってクワ放り投げて帰って来てやった。神州不滅と大和魂で出来上がった明治の方には歯が立たぬ。その日から不良になった訳。ハイ、又その日から北田との関係も豚が取り持つ縁で、被害者と加害者が同室の誼になった訳。
石井さんの起床タイムにも変化が現われて来て、元気がいいのだ。気合が入って来てね。上の方から順次、起床の声。俺の部屋は末席で、ここまで来る間にいい汗かいて、これで今日の朝のお勤め終りとばかりに、入口に体当たりの勢いで入ってくるのだ。「牧君、起きろ!」声は大きいのだ。山下君、起きなさい、だ。起きろと起きなさいの差はデカイのだ。これが毎日続くのだ。せめて隣の部屋に続くのなら連帯感があって余韻の響きがあってよいのだが、我が部屋で打ち切りなのだ。毎日毎日〆焼香で送られる救われない、やるせない日が続いていたのだよ。北田は豚の心が判ったのか、小山の「たまには起こされる前に起きてみろ」の声が利いたのか、感心と早くから出勤するようになった。
 人間誰でも妙に気の合う奴、肌の合う奴、いわゆる相性と言うのが有ってね、そいつを打ち壊す気など持ち合わせていないが、毎日レイチで泣かされている俺としては間尺に合わないのだ。そこで山下を踏台にして計画を練り、作ったのが寸劇。劇団青年隊、題して
<蘇生と出逢いのはざまで>を企画。監督は俺様、主演主役が石井延兼、脇役は名優山下公で、発表会は未定だが、近日中、脇役の演技ひとつで決まるのだ。
それとなく山下に「寝相が悪い、たまには手足をまっすぐ伸ばして寝た所を見たいもんだ」と小言を言って、しばらくしたある日、遂にその日はやって来た。
 急ぎ用意していた板を一枚、限りなく山下の頭の近くにそっと置き新品の白いタオルを素早くかけ、砂の入ったコップをタオルの上に置くと線香5,6本まとめて火をつけてコップに差し込んだ。容姿端麗にして姿勢よく毛布を鼻の先までかけ、髪の毛まで立てて寝ている山下の顔に新品の白いハンカチをそっと、さりげなく置いて、ハイ、お一人様、滞りなく仏様のできあがり(本当に見事な出来栄え)だった。
俺は急ぎ、窓から飛び出して入口の通りの高台でね、今日という今日はさすがの山ちゃんも、主演主役の石井さんに「山下君、起きろ」の明治の大声で一喝されて、今日は何事かと慌てて飛び出す、そこへ、「山ちゃん、おはよう、体操だ」なんた、声のひとつも・・・と、はやる心で待っていた。
 何時もの様に「森ちゃん起きろ、森ちゃん、起きなさい、起きるんだ」−やがて隣の部屋から我が部屋へ。ひと息入れて右肩腕に力を入れて勢いつけてドンと開けて入るなり「牧君起きろ」「山シタ・・・」
 ド・ド・ド・ド、脱兎のごとく元気良く主演主役の石井さんは部屋から飛び出すや、入口で右に左に忙しく行ったり来たり。
 あれ、こりゃなんだ、俺の筋書きとはちと違う。主役が逃げてなんとする、落ち着くんだ石井さん。水も塩も米も、花の一本置いてない、線香の雲の糸驚いてどうするの、アラ・ラ・ラ・ラ・・・・
見ていると、少し戸を開けて大きな身体をくの字に曲げて又忙しく行ったり来たり。俺もおだやかでなくなって来て、逃げるか、俺の筋書きに失敗はないのだ、山ちゃん動け、この野郎だ。本当にもうだ。パニック状態少し前、俺はたまらず最早これまでと、腹の力を入れて「おい、山下、起きろ!」大声で一喝。耳が速いのだ、山ちゃんは。
それでも石井さん、山下を見ていたが山ちゃんが少し動いたのか、今度は俺の方を見たので、すかさず「石井さん、体操体操」と声をかけ両手を大きく廻してやったら、石井さん大きくひとつ、肩で息をしてからゆっくり顔を上下にされたけど、石井さんのあの素直な驚きの顔には、こりゃあ、えらいことをした、やさしいのだから、とにかく、俺はヘマをした、やさしいのだ石井さんは。
体操も途中から止めて石井さんは、何か思いつめた様な感じで自宅の方へ。血圧でも上がったのか、気分でも悪くなったのか、目眩でもされたのか。俺も体操そこそこに部屋に戻ると、山下は両足開けてベッドに腰をどっかと据えて、何か異状を感じていたらしく右手の白いハンカチと左の線香のコッブを交互に見ながら、考え込んでいた。
「牧よ、こりゃどぎゃんこっか?どぎゃんなっちょるとか?」(緊張した時は熊本弁が出るのだ)「お前なぁ、朝早くから蚊が沢山入って来てよ、寝られんので線香に火をつけて、顔にハンカチかけてやったのよ」「そぎゃんか、すまんのう牧よ、そぎゃんこっか」にっこり笑って恵比須顔。「おいコーヒーじゃ、急がんとパンのヘタまでなくなっど」だもんな。
仏様から蘇生して恵比須様に成られたのも御存知ない。山下幸せ、俺不幸せよ、なんでこうなるの?俺は猿から進化して人間になった、奴はゴリラから進化して人間になった、その位の持ち合わせの違いがあるケタハズレの大物役者を使った俺のマケ。熊本の人にはあまり逆らわん方が、よかと。
 八期生の仲間達にトラブルがなかったのも実は山下のお蔭なのだ。牛の女性ホルモン入りのレイチを飲んだ所に、大きな原因があると俺は今も堅く信じている。
 北パラナの山奥に、やさしい明治の御方が所長として来られようとは、思ってもなかったのです。貴方が主役、手をふれて、ゆすれば、そして山下君起きろの大きな明治の一声が欲しかったのです。蘇生と出逢いのはざまの中に、妙に気の合う者同志が、あわ・あわ・あわと驚き、ひと騒ぎ。今日はいったい何事かと、飛び出して来る山ちゃんが居れば私には充分。笑えてさわやかな朝が欲しかっただけなのです。あの日露戦争の『しっかりしろと抱き起こし』のイメージが、私の明治の人でした。明るい笑える寸劇になれな、俺も気が晴れたのでけれど、なんとも早、締まりのない根暗のおもいとなって、どちらにしても悪は素直に引受けた次第です。悲しいかな石井さんのやさしさが判ってからは、花火を散らしてはいけない、俺には自信がないから意識的に離れて行ったのも事実です。その後訓練所を出るまで、何をやっていたのかも定かでない、俺の青春と我儘はこの短い一年が花でした。
 帰国しても強く山が心に帰って来るとは、思いもしなかった。仲間たちと共に汗を流し、自由で明るい笑いの言葉が如何に大事な事か、若い発想のまま、思いのまま、無責任でノーブレーキの言葉を使った青春が懐かしく思い出されてくる。同系会社の営業マンと、同じレベルの言葉だけでは実積が上がる訳がない。緻密な単価交渉の中にも、誠意と熱意と、コンベアーラインの時間帯の変化の中での言葉のやりとり、配慮。要領は一切通らない。話した言葉への責任、息も詰まる思いもする。所詮、仕事とはそんなものだと思いつつ我家に帰っても、口はつい重くなって来る。心の切り替えしがつかないのだ。小さな会社であっても責任だけは重くのしかかって来る。
テレビやラジオにブラジル情報やニュースが流れるや、時は止まって山を思い出す。 それにしても、横文字の横も知らない若造から、年甲斐もないとか、めざめてくれとか、心して事に当たれ、大人げない、早く忘れてやるものだとか、バカバカしくってやってられるかとか、、その他暴言の嵐の中で、心にダメージを受けながら石井さんは、びっくりしたり驚かされたり、トラトールから振り落とされたり、血圧の上がる思いをされて、一日として気分の安まる穏やかな日はなかったのではないか。今思うと貴方は立派な明治出身唯一人の青年隊員でしたね。そして、共に歩いたあの山は、我等の原点であり、出発点であり、又、石井所長の青春でもありましたね。
 ブラジルからぼつぼつと問合いをとって、大阪の我が家へ仲間や先輩達も尋ねて来てくれ、逢えば仲間の山の言葉になり、話が生きていて、俺の日本語はやっぱり北パラナが原点なのだ。ひと昔の前の話になるけれど、石井さん御夫婦が我が家を訪ねてくれた時の思い出と楽しい団欒。東京の皆さんや兄弟との何十年振りの、喜びと感激の出逢いや、義姉が「靴を、靴を」と言われるので足許みれば、畳の上に靴をはいたまま立っていた話など、大笑いしましたね。立派なブラジル原産の明治の日本人よ。若かったです。新鮮だったです。また大阪城でカメラを手にした石井さんの、あの若さ、被写体に追って危険な足許も顧みず、前へ前へと進んで行くあのエネルギー。奥さんの注意の声もなんのその。俺はその逆、それでいいのだ石井さん。
貴方の背中に父の明治をだぶらせて、それ行けどんどん、山の汗とあの連帯感のぬくもりを感じつつ、後ろからしっかりと腰のバンドに手を入れて、喜びひとつ、手でささえ、今は只懐かしい思い出になりました。
 頃合いを見て、我が女房「ブラジルでの主人はどんな人でした」とさりげなく問えば、石井さん実に軽快に、牧君はね、不良で悪かった、うん、三人ほどいたけれど、牧君は不良で悪かったと、にこにこ笑ってね。私の心の凝りを笑って溶かしてくれて、有難う石井さん。我が女房殿は外国もブラジルも知らない純国産品なので、石井さんの言葉をまともに受けて、困りました。不良お風呂が沸きました、不良食事の時間です、不良ぼつぼつ休む時間ですけど・・・・・実にさりげなく軽蔑とさげすみの思いを込め、間の取り方も完璧で、釈明も利かない、言い分けもきかない。こいつは意外と胸に応えるのです。逃げ場がなくてね、黙して耐えるだけでした。ブラジルを知らない女房には歯が立たぬ。
 95年に小山と共に見た貴方自慢の素朴で飾り気のない石井コレクション。その中にサザエの貝殻ひとつ。あれ?ブラジルにもサザエが捕れるのだ、だろうなあ海ガ・・・・「違うんだよ、これ、僕の大事な思い出なんだ」と手に取り、「ほら、大阪で牧君と一緒に楽しい食事をした時の僕の大事な宝物なんだ」と、そっと貝殻を元の場所に戻された。石井さんのやさしくて熱い真心ひとつ、ゆっくりと俺の胸は炎となって燃えて来て、うれしかったのですよ。客の身でありながら、我が家のように遠慮せず三度も風呂に入るバカ一人、熱い胸の内、心の洗濯、よかったですよ。いい汗流しました。夜遅く浴室から寝室に向かう食堂の側を通ると、御二人だけのミサをしていましたね。お互いの個性を大切に認めあい、共に育て、目立たぬようにフォローしながらン見ている他人に決して不快を与えない。二人だけの時間を大切にもっている方だったのですね。だからあの思いや、やさしさは、ごく自然に出るのですね。真似しても出来ないし、作ってもできないのですね。
 奥さんよりお聞きした、生前の石井さんは青年隊のことをよく話していた由、胸にズシンと響きました。奥さんを始め暖かい御家族の皆さんのやさしい思いに包まれての人生卒業、明治から平成の今日を見事に勤めを果され、コロニアの歴史の群像の中に旅立たれた石井さん、哀惜の中にもある種の走]さえ覚えます。
貴方の記念会(ミサ)の後、久し振りに集まった仲間達と夕食会をやって心に残る一夜を過ごしました。母さんの心で焼いた記念のお湯飲みで好きなお茶を飲んでいて、ふと気付いたまま、思いのままにこのお湯飲みをミサに参加出来なかった遠くの仲間達にもと思い母さんに伝えたところ、気持ち良く引受けてくれました。そして、「牧さん不良のお友達にも作ってあげるから、よろしく」と。心配やら気配りがうれしくて、喜んで二つ返事で発送の件、引受けました。石井さんの色と母さんの色で思いをこめて染めあげた作品を作ってくれる事でしょう。楽しみにしています。貴方の人間味とやさしさは多くの仲間達の心の奥深く、何時までも褪せることなく語り継がれて行くでしょう。青年隊には涙は似合わない、青年隊にはさようならも似合わない。
 青年隊もぼつぼつ豊かさを求められる人生の総集編にかけた道を共に歩く年代を迎えました。あの戦中戦後のはざまに生を受けた多くの仲間達の両親は、誰よりも生命の尊さを、重さを知った上で、この大地に送り出してくれたことと思います。生命の尊さも人生の尊さも、生きるの何たるかも知らない若者が、大地に向かって飛び出して、経験豊かな大人の胸を借りて、叩いて、確かさの何たるかを求め、活路を求め共に歩きに歩いたあの時代。歩き疲れて、心乱れた夜もある。
 各州、各地のロマンの大地の中、老いて尚胸に秘めたる青春の門ひとつ。透明なる使命感を持ち200有余名の人間味溢れる仲間達の真心で、大きな和を作ったら、誰からも好かれる地球にやさしい大和心になります。その大きな和の中に創意と誠意とビジョンを持って集まった時、その中から、自然に理念の息吹や新芽が育っていくと確信しています。
 謙虚に歴史の群像に問いかければ、我等が道も又同じ。後の世の日系ブラジル人の名をこそ惜しみ、名をこそ残してやれるやさしい理念が欲しいものだ。倒れてもいいじゃないか、よしんば三本足で歩いても、膝行ても、病床に臥せろうとも、家族への、一族への思いをしっかりと胸に抱き、黙って優しい背中ひとつ見せてやれるいい男子なら、又別の道もある。病に臥せし妻を背に野辺の中、花一輪、老楽の恋ひとつ。豊驍の中、人生共に夫婦色に染まってやれるいい男子なら、生涯かけて隊員を懇切丁寧に勤め、大志の士を常に心に持ち続け、逝って隊士の墓に眠れよや君の世界。逝って尚快男子たれの世界。逝って尚開拓者たれの世界。逝って尚大器のうつわたれの世界。隊員である限り、心疲れる事なかれ、心寂しく死ぬ事なかれ。今一度、我等が隊旗と語るべし。ひとりひとりが真心の熱き思いの胸の内、理念とモラルがあるのなら、青年隊こそ我が墓標。
これでいいんですね、石井さん。俺達の道は、俺達の明日は。
未熟者の私には語り続けて未練です。ペンを取っても未練です。思い出たどって未練です。未練の糸がやさしくて、未練の糸があたたかく、未練の糸がさわやかで、真心ボロリと落ちました。心配するなよ親父さん。不良は私の勲章さ、悪るこそおいらの宝物。
                          牧 晃一郎



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