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【46年前の初めてのブラジル出張】 近畿車輛辻課長(当時)のブラジル体験記(書き下ろし特別寄稿)
インターネットを通じてお知り合いになった元近畿車輛に勤務しておられた辻 重雄さんより貴重な寄稿を送って頂きました。私たちより4年も前にブラジルにソロカバ線の車両引渡しに立ち会う為にブラジルに来られたとの事で、当時の様子を克明に記録、瑞々しい表現で再現して下さっております。2度目の来伯時1962年にはポルトアレグレにも立ち寄られたとの事で(ブエノスからリオに向う途中ポルトアレグレに不時着?)少し変色した当時の写真も提供頂いており画像掲示板にご披露する予定です。
辻さんは、現在宝塚にお住いで、1921年生れの83歳、6人のお子さんにお孫さんと大家族を形成、お元気に過しておられる様子、辻さんのHPもリンクさせて頂きました。インターネットを通じ大きな繋がりが見られ嬉しい限りです。写真は、辻さんのHPからお借りした辻さんの老いて益々お元気そうな写真です。


昭和33年の正月を過ぎた頃だったと思いますが、雲の上の人と思っていた社長がお呼びだとの知らせで、「何事か」と驚いて恐る恐る社長室に出向きました。
話は「南米のアルゼンチンとブラジルへ出張してもらいたい」ということでした。
前年にアルゼンチンのサルミエント線の電車を納入していたので、そのアフターケアとしてブエノスアイレス市に立ち寄った後、当時製作中のブラジルのソロカバナ鉄道の電車の納入に立ち会うためにブラジルへ出張せよとの指示でした。
製造中の電車の約半数は完成して船積み待ちの状態でした。輸送中の船内でのメンテナンスのために社員が2名乗船することになっていて、その2名は私が指名したでしたが、私自身も出張することになるとは思いもしませんでした。飛行機には国内でも乗ったことが無く、ましてや外国それも日本から一番遠いブラジルへ行くなど、予想もしない大変な仕事でした。
現在のように外国観光のガイドブックはなく、出張の準備としては、会社から支給された支度金で服装を新調したほかには、外国語講座放送や会話教室も無いので、取りあえず小型の日葡・葡日辞書と日亞・亞日辞典とを購入して、1から10までの数字と「ボンディア」などの挨拶語など、最小限の言葉だけを覚えました。

会社としても、海外出張者に対する扱いは大層なことでした。出張に際して、全役員との送別の会食があり、総務部長に奈良県の大神(オオミワ)神社へ安全祈願に連れて行かれ、お守りを貰ってきました。
いよいよ東京へ出発する大阪駅のプラットホームには会社の各課代表が集まって、万歳の声での見送られました。まるで出征するようでした。

船は3月初めに船積みして出港、私は3月28日に飛行機で日本を発ち、アンカレッジ経由・シアトル乗換・ニューヨーク乗換で、ブエノスアイレスに向かいました。ニューヨークでは4泊し、ブエノスアイレスには4月5日に到着しました。
ニューヨークからブエノスアイレスまでは、PAN AM の DC-7B機のプロペラ機で27時間の長旅でした。
ブエノスアイレスには13日間滞在した後、4月17日に目的地のサンパウロに向かいました。ブエノスからサンパウロまで4時間半かかりました。

羽田からは、ノースウエスト航空の DC-6B機で、定員70名のプロペラ機でした。日航は週2便サンフランシスコへ飛んでいましたが、南米へはシアトル・ニューヨーク経由の方が速いという旅行社の勧めで、日航には乗れませんでした。機中での日本人は私を含めて2名だけで、日本語が通じず困りました。敗戦間もない頃ゆえ、アメリカ人の乗員からは、英語も話せない日本人は、なめられているように感じました。

出張の日程は、サントス港に着く船に先立ってブラジルに着き、現地で船を出迎えるという段取りになっていました。
サンパウロには17日に着いて、船の到着を待つ間、サンパウロホテルに滞在しました。サンパウロでは、ニューヨークからサンパウロまでの飛行機の中で、航空会社の計らいで隣り合って座った人が、サンパウロ在住の「斉藤あき」という日本人女性で、元領事を父に持ちサンパウロの総領事館に勤めていた方でした。その方の案内でサンパウロの観光をしました。
Butantan , Parque da Agua Branca , Ipiranga Parque Ibiraqura , Praca da Se 、インテルラーゲ湖などでの写真や、メーデーパレード(SESI?)の写真が残っています。驚いたのは市内にモーターサイクルの競技場があったことでした。市内を走るバスや、乗客が車輌の側面に立つ路面電車にも乗りましたが、車掌が前の出口付近に腰掛けて、動く事もなく、ただ切符を売っていただけなのが印象的でした。現在は地下鉄が発達したので、この路面電車も無くなったと思います。

滞在中、日本語新聞を購読しましたが、先ず驚いたのは、戦後ブラジルの日系人には「勝組と負組」とがいて、長い間日本が戦争に勝ったと信じる勝組の人達がいたということでした。
双方の組の間に争いがおきて死人も出たということは驚きでした。更に、戦後十余年にもなる当時も、勝組と負組という名称のみならず色分けが残っているということでした。
サンパウロに滞在したのは、5月の秋でしたが、街を歩いている人は、半袖の人や毛皮のコートを着た人が混じっていました。
斉藤さんの斡旋で、4月29日の天皇誕生日の祝宴への招待状を貰っていましたが、丁度その日に船がサントス港に着くという知らせがあったので、船の出迎えのために祝賀パーティは残念ながら欠席しました。

サントスでは、喜望峰周りの長い船旅で疲れた部下二人と共にアトランティコホテルに泊まりました。
その夜、ホテルで出来事がありました。私の部屋に、部下から「風呂の水が漏れて部屋に流れ込んできた」との電話が架かりました。まずフロントへ電話をしてから、その部屋に行ってみるとバスから部屋へ水が流れ込んでいて、部屋のカーペットが濡れていました。原因は直ぐにわかりました。
部下は日本の浴場での習慣に従って、バスルームが広いので、バスタブの外で体を洗い、床に湯を流していたからでした。悪い事には、バスルームに排水口がなく、バスルームと部屋の間には段差が無く繋がっていたので、体にかけた湯が部屋に流れ込んでいたのでした。
当時の日本には洋式ホテルが極めて少なく、一般の日本人にはホテルに泊まる習慣がありませんでした。これが、この騒動を引き起こした原因でした。カーペットの汚れは大したことが無かったので、弁償はせずに済みました。

5月1日のメーデーには荷揚げが行われず、27両の電車の荷揚げは5月2日から行われることになったので、一旦サンパウロホテルに引揚げました。
5月1日の朝、賑やかなパレードがホテルの横を通ったので、あわててカメラを持ってホテルを飛び出しました。日本のメーデーは、赤旗を立てた労働者の群集が「賃上げを・・」と叫びながら、大通りを歩く風景に慣れていたので、このお祭りと思えるメーデーの各種会社や団体のパレードを見て、日本もこのようであったらと痛感しました。

荷揚げに立ち会ったサントスでは、かって遥々と日本からきた移民の人達が、ひとときの憩いをとった「ミカサホテル」は営業を続けていました。

荷揚げが終わってソロカバ市の工場へ回送する電車を見送った後、一旦サンパウロに戻りました。

サンパウロでは、赤い鳥居が立つ、今では名称が変わっている「日本人街」では、漢字の看板を懐かしく眺め、日本映画を見ました。
ホテルに近い「お茶の水橋」には、良く行きました。当時はお茶の水橋横の日商が入っていた?ニューヨークの国連ビルを真似て建てたビルが一番大きかったように記憶します。

出張の記録では、羽田・ブエノスアイレス間の往復航空運賃は65万円余でした。
当時の月給が3万円弱でしたから、随分高いものでした。部下の工員達を、船内でのメンテのために船に乗せ、課長だった私だけが飛行機で行ったのは、今に思えば航空運賃が高額であったことが、もう一つの理由のようでした。
会社の業務で海外へ出かける場合には、政府に外貨の申請をしますが、法令により会社での身分に応じて、一日当たりの金額が定められていました。一日当たり、一般社員は 17.5ドル 部課長で22.5ドル 役員は 27.5ドルと決まっていました。為替絵レートは1ドルが360円でしたから、宿泊費と食費を充分にまかない、土産も買うことができました。
数年の後、一般社員も飛行機で往復するようになりました。

ニューヨークでは、ある会社との商談が実現しなかったのと、南米行きの航空機の座席が取れないので4泊しました。お陰でたっぷりと市内見物ができました。現在は治安が良くないと言われる地域や地下鉄も一人で行動できました。観光船でマンハッタンを一周した時に驚いたのは、ヤンキースタディアムに近い広場に、自動車の廃車が山のように積んであったことでした。日本では、乗用車は会社用とタクシーだけの時代で、自家用車などは、殆ど普及していませんでした。

電車がソロカバに到着したという知らせで、ソロカバ市に出向きました。ソロカバでは一流ホテルとされている「ホテルソロカバ」に泊まりましたが、バスタブはなく、シャワーも冷たい水だったのには閉口しました。このホテルで、ロータリークラブの例会が催されていたので、ソロカバでは一流のホテルであったことは確かだと思います。

引渡しも済んだので5月21日に帰国の途につきました。帰国することになって、帰国の喜びよりも途中48時間もかかる事を考えると、長旅が億劫になりました。会社の了解を得て、リオなどに立ち寄りゆっくりと帰ることにしました。
先ずは、リオデジャネイロに向けて出発しました。途中その他の都市に立ち寄ったので、羽田には5月28日に着きました。45日間の予定でしたが、62日間の出張になりました。

この輸出は三菱商事扱いだったので、各都市では商事のお世話になりました。各支店には VIP 扱いするようにとの紹介状を持参しました。

今回のブラジルへの出張では、移民あるいは移住について間違った考えをしていました。
移民・移住は戦前のことと思っていましたが、認識不足もはなはだしく、出張した当時も、更にその後も行われている事を知りました。
資料によると、戦後再開された計画移民は、昭和27年に17家族54名がサントス丸で神戸からアマゾンへ行く事が最初でした。昭和35年にブラジルとの移住協定締結されて、平成5年までに5万4千人が移住しています。又ブラジルへの戦後の移住者人数は、平成12年現在で7万1千3百人に達していることも知りました。

余談ですが、前述の斉藤あきさんは、サンパウロで姉さんの家族と同居していましたが、船会社に勤めていた姉さんの主人は、ポルトガル語をはじめ英・独・仏・蘭・日本語と6ヶ国語が話せる人でした。
帰国の約10年後に年賀状によって、NHKに就職した斉藤さんが、偶然大阪府枚方市の自宅近くの社宅に住んでいることを知って、久しぶりに再会しましたが、その後は交流が途絶えています。
辻 重雄
shigeo@sweet.ocn.ne.jp
www8.ocn.ne.jp/~shigeo/">http://www8.ocn.ne.jp/~shigeo/









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