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ブラジルの追憶 あるぜんちな丸の二等機関士として当時を振り返って。  【前編】
私たちが乗って来たあるぜんちな丸第12次航には、仁平仁平船長以下乗組員として実に101名の方達が昼夜面倒を見てくれました。多くの方は既に故人となられていますが、現在70才で神戸で静かにお過ごしの当時二等機関士をしておられた高根健次郎さんから寄稿を受けております。15ページに近い力作で2回に分けて掲載させて頂きますがこれはその前編です。元気なうちに南半球にしか咲かない紫の華麗なジャカランダの花を奥様に見せて上げたいとのお気持ちを持っておられとの事でジャカランダが花を付けるブラジルの春先に来伯頂けるかも知れませんね。大歓迎してあげたいですね。
写真は草津温泉の湯煙の中で寛ぐ高根夫妻です。


 「私たちの40年」・・乗組員の一員として当時を振り返って 
1962年{昭和37年}4月2日,16;00移民船あるぜんちな丸は移住者682名を乗せ、春爛漫の神戸港を出帆、ロスアンゼルス、パナマを経由、一路南米へ。途中ベレン、リオデジャネーロに寄港し5月11日、無事サントス港アルマゼン15(岸壁)に到着しました
あれから40年、本船に乗客の皆様方がこの度40年の記念事業の一貫として「私達の40年」を編集、発刊されるにあたり,当時私が本船の二等機関士として乗船した奇遇から執筆の強いご要請がありました。高齢を理由にご辞退申し上げましたが再々のご要請に敢えて拙文を投稿する次第です。

英国の作家レイは「学ぶに老い過ぎていることはない」と申しておりますが、古稀を迎えた現在の私には「40年の追憶を辿るには半ば老いすぎている」と言えます。当時は若輩の30歳、結婚2年目、長男の誕生後一年目、未だ新婚と言える頃、家庭の為に只ひたすら仕事に専念していた時代です。船乗り仲間ではスマートな移民船“あるぜんちな丸”は垂涎の的でありました。又、大阪商船の当時の南米移民船あめりか丸、あふりか丸、さんとす丸,、ぶらじる丸等のデイーゼル船とは異なり、あるぜんちな丸は振動の少ない快適な蒸気タービン船、三菱重工自慢のタービンプラントと自動化機器を搭載し運転,整備に高度の技術と頭脳を要する推進プラントでした。ゆうまでもなく移民船であるがゆえに安全運航、パーフォーマンスの維持は最重要課題であり乗組員各自想像を絶する暑さのエンジンルームで自己の職務に全力を尽くしていたと言っても過言ではありません
残念ながら、、本船のエンジンルームは騒音と熱気で危険であり、我々エンジンパートの職場を乗客に知っていただくケースは殆どなく、メキシコ沖のもっとも静かな海域で行われたエンジンルーム見学会が唯一の機会であったと考えられます。
私の場合唯一、乗客と接した所が特二等の夕食デナーの席であり、二等航海士,,二等通信士と3人でそれぞれのテーブルで特定の乗客とテーブルマスターとして気を使いながら食事をした事は記憶にありますが残念ながら断片的なものでしかありません。
今、瞼を閉じて40年前にタイムスリップし、印象に残っている当時を振り返ってみましょう。


1)昭和37年はこんな年でした。
池田内閣全盛時代,所得倍増政策の高度成長期に入り労働組合が台頭、ベースアップによる賃金のアップは公務員初任給で年間2千円(約17%アップ)、アップ率が戦後最大の年であったとといえます。そしてテレビ,冷蔵庫,洗濯機の普及が大巾に進みサラリーマン中流所得意識が芽生えてきたのもこの頃からです。当時宝くじの一等賞金が500万円,国立大学の授業料が年間1万2千円、大学卒初任給が1万7千8百円、巷ではビートルズのデビュー,はな肇とクレジーキャッツがスーダラ節を歌い無責任時代と言われ,又流行歌に`嫁を貰って1万3千8百円、贅沢しなけりゃ贅沢しなけりゃ何とかなるさ`と歌われ当時の庶民のつつましい生活がうかがわれます。堀江青年の小型ヨットによる太平洋単独横断等もありました、2年後の東京オリンピックを目前に控え東海道新幹線(東京大阪間)、東名高速道路の建設が急ピッチで進み,宅地ブーム,公団住宅の建設ブーム着工{当時大阪の住宅公団平均競争率は11,1倍}もこの時期です。トランジスターラジオ、トランジスターグラマーがもてはやされたのもこの年の前後と記憶しております。。
又、当時車を所有する事は夢の又夢の時代、一般小型乗用車としてはダットサン、スバルがデコボコ道を砂埃りを上げて走っていました。
昭和36年7月4日の毎日新聞に「自動車ブームに免許屋」なる記事が掲載されています。免許屋なる商売は折りからのマイカーブームで運転免許取得希望者が急増しつつあることに目をつけ、偽の運転免許証を売りつけたり、運転免許試験「替え玉受験」をするものでした。正規であれば昭和37年当時、約4〜5千円で免許取得可能な時代でしたから本当に夢の様な話です。
時の流れと共に、常識も変わり今のような車社会と携帯電話の時代が来ようとは誰が想像したでしょうか。
因みに、当時私の本給は船員手帳によると2万3千8百円,乗船中の手取額は1ヶ月約4万円程度と陸上に比べて若干高額であり,日本に4ヶ月ぶりに帰国するとボーナスも入る事が多く、停泊中、同僚と高給バーを梯子して飲み歩いたあの日、あの酒場が懐かしく思い出されます。

2)昭和37年4月2日、3日(出帆当日前後)の朝日新聞より
4月3日、本船が出帆した翌日の新聞によると、2日夕刻より春の嵐(通称、台湾坊主)が近畿南部に吹き荒れ満開の彼岸桜が無残にも散ってしまったと報じています。丁度本船は紀州沖を航行中であったと思われますのでシケに遭い船体の動揺により乗船早々乗客の中には船酔いに苦しまれた方もあったのではと考えられます。
最近、原稿作成に当たり40年前の出来事を調査する為,神戸大倉山中央図書館を訪れ出帆当日4月2日、および翌日3日の新聞記事、政治、経済、社会面の記事を通読しました。特に本船に関係ある記事を2,3紹介してみましょう。


oあるぜんちな丸出帆前日の今東光和尚訪船。{昭和37年4月2日朝日新聞抜粋}
外務省神戸移住斡旋所は4月1日各府県移住業務関係者、船会社代表、作家今東光氏らを招き、ここ数年間中断されていた移住懇談会を開いた。昨年{昭和36年}アルゼンチン、ブラジルを旅行した今東光氏は「水間寺で大騒動を起こして大きな口はたたけないが」と出席者を笑わせ「道路一つ満足にちくれない日本で多くの人がひしめいていてもつまらない。大いに海外に渡り大和民族のエネルギーが世界にどれだけ必要で役に立つか証明しようではないか」と話した。一同は昼食のあと2日夕方南米移住者469名を乗せて出帆する「あるぜんちな丸」を見学した。

註)今東光和尚は1898年(明治31年)横浜伊勢佐木町生まれ,今日出海小説家の兄さん。父が日本郵船の船長だったため、函館,横浜、神戸等を転々とする。1918年(大正5年)川端康成を識り文学に目覚め作家同盟に加入、専ら仏教史などの論文を書く。戦後1951年{昭和26年}大阪河内郡八尾の天台院住職となる。以後河内ものと言われる作品、「こまつなんきん」「悪太郎」「悪名」など発表、「お吟さま」で36回直木賞受賞、その後「みみずく説法」を皮きりに、いわゆる東光毒舌を発揮し,晩年にいたるまで縦横な弁舌を振るった。1965年{昭和35年}岩手県平泉の中尊寺の住職となり、1968年(昭和38年)参議院議員に自由民主党より立候補、第4位で当選した。1977年(昭和51年)9月、79歳で癌のため死去した。



o海外移住を前進させるために{昭和37年4月4日 朝日新聞社説より}
我が国の海外移住政策は、最近のドミニカ移住の失敗や、移住行政機構の在り方などをめぐって国会でも相当の議論を呼び、その政策転換の必要性が指摘された。
政府はこの為、海外移住審議会を新たに設置するほか、海外移住基本法の立案を急ぐ等、本格的な検討を始めることになった。中南米を中心とする我が国の海外移住が、戦後10年を経て転換期を迎えていることは疑いのないところで、遅すぎたとはいえ、政府がこの問題と取り組むのはよい。
海外移住に関する現行法は66年も前の明治29年に制定された移民保護法で、その後3回の改正を経て現在に至っている。この法律は、移住者がだまされたり、不当な損害をうけたりする事を防止する一種の取締法であって、現在の海外移住の実情とは全くかけ離れている。又、新憲法によって日本人の海外移住の自由が保証されているのと合致しない。
そこで、新たに立案される基本法においては、戦後の新たな環境に即応した海外移住の基本理念が明確にされる必要があると考える。いわゆる「お国のため」とゆうのではなく,健康で優秀な日本人がさらに海外で繁栄し、相手国の発展にも役立つことが根本であって、あくまで個人の自由な意志に基ずくものでなければならない。海外に過剰人口ののハケ口を求めるといった棄民思想を一掃すべきはゆうまでもない。
第2に望みたいのは、移住行政全般に渡って責任が明確化され、統一的運営が実施されることである。海外移住については、国内移住希望者の募集や訓練は農林省が担当し、一方、海外への送り出しや移住後の援助は外務省が担当しているため、責任の所在が明らかでなく、権限争いも絶えないとの非難がある。これを、一本化して、統一ある運営に切りかえることは、緊急を要する課題と言はねばならない。
第3には海外移住を相手国に対する技術協力の一環として考え,技術移住に重点を置くことが望まれる。南米諸国は国内経済建設の要請から、工業技術者の移住を強く希望している。昨年、ブラジルに行った技術移住者は、僅かな人数であったが、現地で非常な好評を博したといわれている。こうした経験を基にして、技術移住者を増やすことは、相手国の経済発展に貢献し、経済技術協力を推進することにほかならない。
欧州から南米への移住者は、いずれも工業移住者ご農業移住者を上回っているのに対し、日本からの移住者はその9割が農業移住者で占められているのが現状である。これを工業技術者中心に切替えることは,種々の困難があるにせよ、当面、もっとも重要な施策といわねばならない。それには、政府の海外移住政策は勿論、国民の海外移住に関する認識をも、根本的に改める必要があるように思われる。

註)同日の記事に、36年4月,国会で問題となったドミニカ移住者のうち49世帯207人が移民船あめりか丸で現在帰国の途にあるが、労働省が就職斡旋のため、本船の寄港地サンフランシスコへ先回りして空路係官を派遣した。船の中で斡旋業務にあたる。求人側をあらかじめ探しておいて、横浜港で「ハイ、どうぞ」とゆう仕組み。船は4月20日頃横浜着予定。お役所仕事では珍しい太平洋上でのスピード就職斡旋とゆうこと。

一方、当時の海運界に目を転じると
o外航船、自動化による省力化。(37年4月2日 朝日新聞、港の話題より)
海運界の採算が近頃、世界的に悪い。経費を節約するため、乗組員が少なくてすむ自動化を各船会社が研究中だ。新三菱重工神戸造船所はこのほど機関部の遠隔操作ですべて用が足せる自動化装置を完成した。今月7日、進水の大阪商船「たこま丸」に取り付けられる。この装置で、これまでの20人必要だった機関部要員が13人ですむ。

註)当時、三井船舶の金華山丸が自動化船として昭和36年3月就航し、その成果ば高く評価されました。この自動化により乗組員数40名、従来より7人減であり、これを更に34人まで減ずることが出来ました。此れは船舶のオートメーション化の第1歩であり
,当時、外航船会社にとって高度成長に伴う一船当たりの船費増を出きるだけ抑制し諸経費軽減が国際競争に打ち勝つ為の重要課題でありました。

o北米航路の安定を望む。(昭和37年4月3日 朝日新聞社説より)
定期航路、わけてもニューヨーク航路は日本にとって荷動きの多い黄金航路である。最近イスラエル系、ギリシャ系などの有力な盟外船が進出して荷物をとるので、日本船主を主体として結成されている北米航路同盟は対策に苦慮している。同盟も低運賃で対抗すれば良いのではないか、と思われがちであるが問題は2つの事情からである。
その1つは、日本船の国際競争力が弱いことである。同盟内部には盟外船の摘み取りの多い品目については同盟の協定運賃を外すべし、との意見が米国船主から出ているが日本船主は運賃引き下げによる減収をおそれて乗り気でない。特定品目の協定運賃を外せば他の品目にも波及し、全面的に運賃の安定が乱れるおそれが多分にあるとゆうことである。
第2の事情は、欧州航路の同盟に比べて、北米航路の同盟はもともと拘束力が弱いとゆうことである。大きな理由は船主間の同盟に対し欧州諸国は此れを尊重する建前をとっているのに対し、米国政府は厳しい抑制政策をとってきたことにある。北米航路同盟では此れまで二重運賃制は禁止され、又運賃協定そのものの有効期間も短く、数ヶ月ごとに協定を更新している状況である。
もっとも、北米航路のニ重運賃制は、米国が海事法を改正してこれを認めることになり、その細則がつい最近公布されたので、二重運賃制採用の手続きを同盟としても進めている。
日本政府も積極的に2重運賃制の実現を促進し、その円満な運用を図るため米政府に働きかけるべきであろう。
日本側の船主は,最近の社長会議で、ニューヨーク航路で運賃プール制などを実施する方針を決めたと伝えられる。日本船同士の過当競争を避け団結を図ることは、海運合理化のためにも、また同盟の協定運賃が引き下げられ、或いは野放しになった場合の出血を共同で負担するとゆう意味でも、一歩前進である。しかし、日本船主の協調と同時に、同盟全体の結束をはかることの重要性も忘れてはならない。

註)不況による海運集約
昭和32年4月スエズ運河が再開し、スエズブームにより新造船が大量に建造され、昭和30年、日本商船隊1770隻、373万50000トンだったのが35年には3124隻、693万1000トンに増加しました。隻数、トン数共に約1,8倍に増え戦前水準を上回りました。しかし、海運各社の収益はますます低迷し海運企業の台所は火の車,事実、37年度末海運55社の設備資金借入残高は3089億円,償却不足額962億円、元本返済遅延額961億円にのぼりこのままでは日本海運総倒れとなる危険がありました。その為、政府は海運造船合理化審議会の答申を受け抜本的対策を検討、,運輸省は海運業の再建整備に関する2法をまとめ、国会に提出、2法は昭和38年7月公布施行されました。この法案に基ずく大手外航海運会社の集約が実施され、昭和39年4月、大阪商船(株)、と三井船舶(株)が合併し 大阪商船三井船舶(株)が誕生しました。

註)南米移住船の終焉。
戦後の南米移民の第1陣はブラジル移住者54人を乗せて,昭和27年12月神戸港を出航したさんとす丸であります。その後、南米移民が本格化しました。しかし,移住船客は34年の6793人をピークに減少に向かい38年には1990人に激減しました。移住者が6000人程度の時はソロバンに乗っていましたが、ぶらじる丸、あるぜんちな丸といった高い船価の船(昭和29年建造ぶらじる丸の建造船価は17億4200万円、昭和32年建造あるぜんちな丸は22億4300万円)を投じながら乗客が2000人を割り込むと,政府の補助金があっても採算を割る結果となりました。(運輸省は国策上放置できないため、赤字補助金として昭和38年度3億1000万円、39年度4億7000万円を支払う)。,昭和38年2月大阪商船は日本移住船会社を設立し、これにあるぜんちな丸、以下南米航路の5隻を譲渡して債務を肩代わりさせ、大阪商戦はこれを裸傭船する形をとり運航を継続しました。しかしその後も採算の好転は望めないまま、移住者輸送は昭和45年から商船三井客船(株)で取り扱う様になりましたが、あるぜんちな丸{当時にっぽん丸に船名変更}は昭和47年2月、日本帰着をもって南米航路より撤退し、これが戦後の移民船の最後となりました




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