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「私と移民船」 海外日系人協会発行の【移住家族】第418号より転載。
財団法人海外日系人協会(横浜市中区)で発行している機関紙【移住家族】の平成16年6月30日付け第418号の移民の日特集「移住者と移民船」の第三面に掲題の「私と移民船」との題で寄稿文を書かせて頂く機会がありました。『私たちの40年!!』HPの編集基本理念を披露させて頂く良い機会となり喜んでおります。
私と移民船【あるぜんちな丸】、人生の幕開けがこの移民船の中に有ったような気がします。681名の多くの同船者の皆さんもその後の人生が各々違っていたとは云え、思いは同じではないかと思います。人生の選択の一つ、ブラジル移民が肯定できる仲間が一人でも多くいる事を願っています。
今回の寄稿に当り原稿依頼、写真の選択、校正等を担当頂いた阿部順子さんには大変お世話になりました。この場を借り御礼を述べて置きたいと思います。
写真は、移住家族の第三面に掲載された紙面です。


あるぜんちな丸第十二次航(1962年5月11月サントス着)でブラジルに着いた私たち681名の同船者は、移住が下火になり始めた頃の最後の大型移民団として各種、各様の移住形態(炭鉱離職者等を中心とした計画移住、呼寄せ単身移民、コチア青年、産業開発青年隊、野球移民、工業移民、花嫁移民)をもちベレン、サルバドール、リオ、サントス、ブエノスアイレスを上陸地としたブラジル、ボリビア、アルゼンチン、パラグアイへの横の広がりのある移住者仲間でした。
横浜から乗船しサントスに上陸した仲間の航海日数は、42日間。日本における最後の町となった神戸を出ると大しけに合い、皆が船酔いに困りました。少し元気になると船内活動が始まり、私は、船内新聞の『さくら』を仲間と一緒に発行する事になりました。藁半紙にガリ版刷りで毎日2ページ。寄港地の案内や寄港目的、移住先国の案内等、増刷の場合は4-5ページに渡るものもありました。最近になって奇跡的に見つかった、黄色く変色した船内新聞と同船者名簿を見ると、当時の船内生活が走馬灯の様に去来します。
◆40年ぶりの同船会
ブラジルで、がむしゃらな戦後移住者の一人として生活を経て、ふと気が付けば還暦も過ぎ人生を見つめる機会に遭遇し、この移住船の船内生活から始まった我が人生の大半を振り返る時期を迎えております。
高校の友人から『ブラジルに40年を在りし人は、落ち葉踏む音恋しからずや』との問いかけを受けました。落ち葉踏む音に象徴される、残して来た日本への思いがないとは云い切れません。しかしながら、私なりに生きて来たブラジルでの人生に悔いは残しておりません。
同じ移民船での生活を共にした同船者681名の仲間の42年前の選択がどうだったのか。一人でも多くの人に『落ち葉踏む音恋しからずや』と聞いて見たい衝動に駆られ船内新聞『さくら』の40年後の号外を発行したいと思い立ち、『私たちの40年!!』というHPを2年前に開設しました。船内新聞を作っていた仲間と寄港地での見知らぬ町を歩いた思い出、近い将来に待ち受ける新しい生活への不安と期待、狭い限定された船内での同じ釜の飯を食った一連托生的な連帯、仲間意識を醸し出す船内生活・・・。今もそれは夫々の人生に大きく陰を引いていると言っても過言ではないと思います。
2年前の2002年5月11日に40年振りに初めて同船者の集いをサンパウロで開き、100数拾名の同船者とその家族、関係者を一同に集う機会が有りました。長い間忘れていた40数日の移民船での生活と、その後の夫々の人生を語り合う集いは、今も時に触れ続いております。同時に櫛の歯が欠けて行くように仲間が減って行く寂しさも感じています。今後、何時まで仲間との集いが継続していくのか。今この時に、戦後移住史の一部を生きて来た一人ひとりの生き様を聞き、記録に残して置きたい。そんな気持で『私たちの40年!!』の更新を続けていますが、思いに任せぬ歯痒さを感じています。
◆それぞれの生き様を記録する
最近、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに出向く機会があり、ガルアッペスの移住地に入られた三浦祐子さん(船内学校の幼稚部の先生をしておられた)と、三浦大祐さん(船内でも竹刀を振っておられ、現在はブエノスで剣道の先生をしておられる)にお会いしました。これからも時間を見つけてアルゼンチン、パラグアイ、ボリビアに入られた同船者仲間を訪問し、戦後移住者としての自分史の一部なりともお聞かせ頂き、記録に残して行きたい。命の続く限りこの『私たちの40年!!』の更新を続けて行きたいと願っております。
着伯後、僅か2ヶ月でマラリアに倒れ、アマゾンのトメアスの移住地に眠る海谷千栄子さん(享年21歳)、昨年亡くなられた海谷ことさん(享年90歳)他、多くの先立たれた同船者の皆さんのご冥福を祈ると共に、生きながらえている我々の義務として、先立った仲間の分も、一生懸命行き続けていく事を誓いたいと思います。
◆あるぜんちな丸よ、ありがとう!
戦後移住船として建造されたあるぜんちな丸2代目は、1958年6月2日神戸港から842名を乗せて処女航海後、第12次航の私たち681名、1971年10月29日に第40次航127名まで合計10817名を南米に運んで呉れました。その後客船につぽん丸に改装され1973年2月14日に33年振りの日本船による世界一周航路の途中285名の移住者を運び、その移民船としての使命を終えました。
1976年12月10日に廃船となり、タグボートに引かれて台湾の高尾に最後の航海に発ちました。「美人薄命」の諺通り僅か18年の短い期間に1万人以上の戦後移住者を運んで呉れました。あるぜんちな丸有難う!! 

和田 好司 1962年に移民船「あるぜんちな丸」でブラジルに移住。現在リオグランデドスール州ポルトアレグレ市在住。船内新聞の編集員が中心になり、40年後の特別号発行の企画から発展した『私たちの40年!!』HPを開設。資料や写真等を同船者全員の資産として共有し、後世に残して行く事を目的としている。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/



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