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ブラジルの追憶 あるぜんちな丸二等機関士としてして当時を振り返って   【後編】
高根健次郎さんの寄稿文の後編です。お住まいの神戸にある大倉山市立図書館に通い丹念に当時の関係ニュースを調査され当時の人気作家今東光和尚が我々の壮行会に馬の餞として激励の言葉を頂いた事、あるぜんちな丸の船上を訪問して呉れた事実、4月4日付けの朝日新聞社説「海外移住を前進させるために」等の記事を抜粋しております。同じ時期の4月2日付けの朝日新聞港の話題欄より「外航船・自動化による省力化」とか4月3日の「北米航路の安定を望む」との朝日新聞社説等を紹介してくれております。
写真は高根さんより送って頂いた神戸のメリケン波止場のポートタワーとホテルです。


3)あるぜんちな丸の思い出
本船が洋上にある限り船内の職務は甲板部、機関部,無線部そして事務部、医務室に分担されております。船長の指揮のもと各部相互協力により、安全且つ、高能率運航は勿論のことですが客船として乗客のサービスに徹底して努めることはゆうまでもありません。
日本最終港横浜を出帆して北米ロスアンゼルス港まで太平洋横断の約12日、来る日も来る日も果てしない海と水平線、幾日たっても1隻の船も島も見えない日が続きます。船客の皆様は自由時間の連続です。裏を返せば刺激のない単調な退屈な日々の連続とも言えます。サントスまでの約40日、このような状況下、乗客の単調な生活に出きるだけ変化を与え退屈な毎日を解消すべく、事務部乗組の熱心な船客サービスが連日行われて居りました。演芸会、船上運動会,盆踊り大会、赤道祭等、しかし乗客の皆様にとって必ずしも満足できるものではなかったと思われます。
最近の豪華客船と異なり乗客に対する娯楽設備もなく、あるぜんちな丸と言えども移民船であり当時の世相からもご理解頂けるものと考えております。
私は2等機関士として,航海中は毎日、0時〜4時,12時〜16時、の1日8時間のエンジンルーム当直に当たりました。睡眠時間が常時,朝の5時〜11時,体調を崩さない様、苦労しながらの連日でした。16時当直が終わりシャワーを浴びると、ユニホームに着替え、17時30分から特2等船客の夕食デナーのテーブルマスターを努めねばならず、此れが本船における唯一の船客とのコミュニケーションでした。頼りない記憶ですが、このテーブルの乗客は、4乃至5人ではなかったかと思はれます。私が本船に乗船した3航海(昭和37年3月〜昭和38年5月)の間に経験した貴重な体験を思い出しながら披露しましょう。

※日本を出て数日は挨拶程度の会話ですが乗客からの最初の質問は毎航決まって日付変更線180度(デートライン)通過の日に始まります。ある米国人の乗客はロンドンのグリーニッチ天文台を経度を0度と決めたが、うまく太平洋のほぼ真中に180度が位置し、世界のどの国の領土も分断されない。世の中で此れほど上手くいった例はないだろう、と話していたのが印象的でした。
しかし、大半の乗客は何故西から東に向かう場合同じ日が続き、東から西に向かう場合は一日飛んでしまうのか理解に苦しむ様です。テーブルの茶碗を使って、使いなれない英語で懸命に説明しても、余りにも理解してもらえず、最後にそうゆう事に取り決めでありますと申し上げ、席を立ったこともありました。

※ 大洋を航行していると朝夕の大きな真赤な太陽のなんとも言えぬ素晴らしい光景に誰もが魅了されてしまいます。この光景は同じ太洋でも、日本近海、ハワイ沖、カリホルニア沖、メキシコ沖、カリブ海、大西洋、それぞれ違った性格をもち、違った光景と素晴らしさを演出します。乗客も余りの素晴らしい自然の驚異に感動し知らなかった自然にメスを入れようとします。
地球は何故丸いんだろう?。海の水はどうして出来たのだろう?。信天翁{アホウドリ}は夜どこで寝るんだろう?等 答えに窮する色々な質問があり,船内の図書で調べたことも幾度かありました

※ ロス入港前、ハワイ沖で穏やかな天候の折、毎航ボート総練が行われます。乗客は担当の司厨手に決められたボート(何号艇)に誘導されます。イザとゆう場合混乱しない様に自分の乗るボート確認のための事前の訓練です。本船に乗船している全員が参加するため、乗客にすれば始めて見る若い士官に驚いた顔で“あなたは本船のどこに住んでいるのか”と尋ねられ返答に困ったこともありました。
エンジンルームで作業服姿で汗まみれになっている者が,突然、純白のユニホームに着替えて現れたら誰だって驚きますよ。

※見知らぬ国の港に初めて入港する時は,それがどんな国のどんな小さな港でも、何かワクワクする期待に胸がふくらむものです。航海が長いほど次の港が待ち遠しい。ロスアンゼルス入港前日カリホルニア沿岸が見え出すと乗客もそわそわとして落ち着かない。やはり人間は陸で生活するのがノーマルであると気がつくのでしょう。
ロスアンゼルス港を出航して翌日,どうして船乗りになったのですか?と尋ねられる。。
戦後の荒廃した日本から飛び出して外国へ行く夢を実現させてくれる手っ取り早い方法が外国航路の高級船員になる事だったと説明しました。しかし当時結婚して長男が授かり、家庭から離れて生活する事に何となく抵抗を感じていた時期でした。又,当時日本の高度成長の兆しが見え始めた頃で商船大学卒で大阪商船入社した同期の機関士12名中8名が転職(商社関係)しており,早期退職を考えていたのもこの時期でした

※メキシコ沖を南下するにしたがって船内の温度がぐんぐん上昇します。空調の調整もエンジンパートの仕事です。当時の空調は特別な客室を除き移民客及び、乗組員居住区共に自然通風装置でメカベンによるエアーダクト方式で行はれており各部屋への風量の調整はハンドル付きのダンパーで行われます。担当の司厨手が船客各部屋の調整をしますが風量不足で対策に苦労した事を思い出します。
その様な時に爽やかの風を与えてくれたのが、帰国の途上にある僚船“さんとす丸”とのすれ違いです。ロスを出航して4日目、お互いに無線連絡にて行き違う時間を確かめ,船内放送されます。乗客が今か今かと待ちわびる中、行き違い歓声をあげ、思いきり手を振りあって本船の安全運航と乗客の健闘を願いつつ遠く離れ行く姿をいつまでも見送ったあの日が、鮮明に思い出されます。

※ いよいよパナマ運河です。運河の通行には、船の種類による優先順位(プライオリテイ)があります。軍艦,客船、貨物船…・の順です。、本船は客船ですから沖待ちがなく、すぐ運河にはいります。太平洋から大西洋に移るのですから乗客は興味しんしんです。乗客にガツン湖通航中、運が良ければ鰐を見ることがありますよと話すと皆さん真剣に探しておりましたが、どうだったのでしょうか。パナマ運河を通過しクリストバル港に着岸、久しぶりの上陸に乗客達が港の近くの土産物屋で買い物をしている姿が目に付きます。帰りに皆さんバナナを担いで帰ってくる姿が印象的でした。多分2〜3ドルで購入されたのでしょう。それにしても当時1ドル360円でしたから,今考えると高いものでした。

※カリブ海に浮かぶキュラソー島{洋酒キュラソーの原産地とか}、ウイレンスタット港で燃料油の補給です。日本からキュラソーまで約25日間の重油の消費約800トンの補給です。2等機関士の担当です。ヘルメット姿でタラップを降りる時、何時も夕食で一緒の乗客に挨拶しても知らん顔をされてしまう。後で聞いたらヘルメットで顔が変わっていたとのこと。よくある話しです。
本船のメインエンジン(タービン)の出力は一万馬力です。一日約40トン消費します。もし本船のスピードを18ノットから9ノットに落すと消費量は4トン以下になりますと説明すると皆さん驚かれます。燃料消費はスピードの3乗に比例するからです。自動車でも変わりませんと話しても中々理解してもらえないのが普通です。
話しは変わりますが何故キュラソーで燃料油重油を供給するのか、ロスやパナマ、或いはサントスでも供給できるのではないかとよく聞かれます。世界の主たる港のボンド油(税抜き重油)の価格はその月のマーケットにより変化します。大量に使用する船舶の燃料費をミニマイズする為、その航路の寄港地のアップデートのマーケットプライスを調査し補油地を決定しているのです。

※南米ブラジルの領域に入り下船準備に忙しい頃のことです。特2等の夕食の席に同席した、齢30歳位の独身ブラジル在住の2世で中位の美人,故国日本で良き伴侶を探しましたが、目にかなう人物が得られず傷心の帰国の途上にあるらしい、聞くわけにいかない。。ロスを出帆して数日後、好きな人が出来たらしい。若い私にもホールインラブであることがはっきり分かる明るい彼女に変化していた。、話し振りもすっかり変わりそれとなく探りを入れるとなんと好きな相手は乗組員、しかも、機関部の30代のよか男、このよか男も何時からか今まで以上の陽気な男に変身、本船帰国後、下船,、退職し、その後ブラジルに渡りハッピーエンドとか。めでたし、めでたし。

* 昭和37年11月末頃、本線はハワイホノルルに寄港し,横浜へ向け出航、事前にアメリカ国防省より当日の原爆実験による危険水域への立ち入り禁止警告のあったジョンストン島沖約250マイル航行中、早朝02;00頃、遠くに原爆実験のすさまじい光景に遭遇しました。
ブリッジから2等航海士からの連絡でデッキに駆け上がると、すさまじい爆発音と既に水線上に深紅の大きな火の柱が上がり、その上にキノコ雲が周囲に拡散していく様子がまるで地獄絵のように感じられました。ふと思い出したのがビキニ環礁で被爆した福竜丸、そして広島、長崎の悲惨な原爆絵図、決して忘れられない本船での思い出になりました。

4)ブラジルの追憶
私は昭和30年大阪商船に入社,昭和62年商船三井を退職するまでの約32年間、、陸上勤務約14年を除く約18年間世界の海を駆け巡りました。ニューヨーク航路、欧州航路、豪州航路、あふりか航路、東南アジア航路など、しかし、移民船による約4年、貨物船での1年半の南米航路は私の船員生活にとって、これと言った特別な理由は見出すことは出来ませんが、何故か最も印象に残る航路であったと言えます。

〈1〉 サントス港
移民船にとって忘れられない港であり、1908年笠戸丸に始まって殆どの日本からの移民(ベレンでの下船移民を除き)はこの港でブラジル上陸第1歩を印しています。戦後はサントス港15岸壁、通称アルマセン15は移民船の指定岸壁であり、旧大阪商船の有志の間ではアルマゼン15会があり往時を偲んでいると聞いております。
移民客のイミグレーションが済み,乗組員が船客アテンドから解放され肩の荷が降りて、,初めてホットするのがアルマゼン15です。このゲートを出ると、数軒のアメリカンバーが点在しております。夕食を済ませ、旧市内の土産物屋で蝶額、コーヒー豆、木彫り、水晶,化石など購入しますが、蝶額とコーヒーはブラジルでの代表的な土産品でした。又、芽の出る木(ドラセナ)も当時珍しがられたお土産のひとつです。今、日本では“幸福の木”とか言われて売られております。
土産を抱えてNo,15のゲートをは入ろうとすると、税関が手を軽く差し出してコミッションを請求します。土産の質と量によってコミッションの額は変わります。このコミッションを我々乗組員は通称オブリガードと称しておりました。大した額でなく当時で10〜50クロゼイロ位ではなかったでしょうか。
日が暮れて、アメリカンバーのネオンがまたたく頃になると、どこからともなくセニョリータが集まってきます。晩の9時を過ぎるとサンバのリズムが熱気を帯び、ウイスキー、セレベッサ、カイビニーニャの酔いが航海の疲れを癒してくれます。セニョリータが知らむ間に横にはべり媚びを売り、嬌声があちこちから聞こえ、サントスの夜が更けてていきます。
ゴンザカの海岸通りには比較的高級な店があり、愛妻にブラジル特産のアグアマリンを購入しようと探索しましたが、どの店もデイスカウントが難しく,高買いしてしまった経験は未だ忘れておりません。しかし,夏になると妻の指にブラジルのマリンブルーが輝き、当時を思い出します。高買いしても価値あるお土産だったとひそかに感じております。

(2)リオデジャネイロ港
リオでは乗組員はもっぱら観光です。世界三大美港といわれる所以も、入港時に見られる山並み、海岸線,入り江と恵まれた風景から納得出来ますし、本当にすばらしいの一語に尽きます。コパカバーナの海辺でブラジルの美女の眺めといい、コルコバードのキリスト像からリオの街と湾を見下ろす眺めといい、実に素晴らしい。又、ポンデアスーカにケーブルカーで登頂し、リオの広大なパノラマを俯瞰するのも結構ですが、頂上からの夜景は格別の趣きがあり、誰もが驚嘆する素晴らしい光景です。 
有名なリオのカンナバルは残念ながら本船のタイミングが悪く、楽しむことが出来なかったけれど、リオの人口18万人が観光客で30万人になるとゆうから大変なお祭りです。私にとって、心残りのブラジル追憶の一つです。
リオの街から約70キロ位離れたところにペトロポリスとゆう山の街があります。ブラジルの避暑地、別荘地であり、王政時代の遺跡でもあります。リオからバスをチャーターしアルコールの排気ガスの甘いにおいをかぎながら郊外へ向かいます。広大なオレンジ畑を過ぎて、山道に差しかかると熱帯樹のジャングル、ブラジルの国花であるイッペイの黄色や樹に寄生しているランを見ることが出来、。特に色々の洋ランは我々の目をなごませてくれます。
1840年、王政時代、ペトロ二世の宮殿が現在博物館として存在し、庭園とその優雅な風景は贅沢な別荘群と共にズラジルの富裕な一面を覗かせています。ブラジルと思えない世界に驚いた次第です。
ブラジルのコーヒーにウイスキーと砂糖をまぜてたドンペドロとゆう飲み物があります。この名はこのペトロ皇帝が愛飲されたことが由来とか,本当でしょうか。

(3)サルバドル(バイア)
サルバドルはブラジルで最も古い歴史の街であります。1500年、ポルトガルのキャプテン、カプラスがこの地に第1歩を印し街作りが始められたといわれています。街は山の手と下町が線を引いたように分かれており、その間をケーブルカーとエレベーターで結んでいる世界でも珍しい街です。
エレベーターで上がると、ポルトガル的、古典の街があります。狭い露地、坂の道を挟んで塗料のはげた家並みがひしめいています。道は石畳、教会の多い街、しかもその教会はそれぞれに風格を持っており、カメラでとらえたいものばかりでした。
下町の中心の広場に面したメルカード、モデーロには民芸品を売る店が五十数軒あり、壮観です。乗組員はここででパパガイヨ(オウム)、アララ、ポケットモンキーなどの愛玩ペットを購入します。比較的若くて活発な元気の良いペットが安く手に入るので、サルバドル入港を心待ちわびている乗組員が多かった様です。現在の様にワシントン条約による輸出入制限はなく、自由に購入できる時代でしたから、サルバドル出帆時の乗組員のコーターはパパガイヨとモンキーであたかも小動物園のような光景を呈しました。帰りの航海は当直が済むと自分のパパガイヨに言葉を教えるのが日課になるようです。メルカードから餌にする向日葵の種を購入してきて餌を与えながら“おはよう、おはよう”と教調している姿、想像つきますか。愛嬌あるポケットモンキーは大変です。米粒に砂糖をチョットつけて数粒与えるのですが寒さに弱く日本着までに半数以下になってしまいます。
又,折角、購入したアララに逃げられマストの上のアララに降りてくるように哀願している姿も南米航路ならではの風景でしょう。

(4)マナウス港
昭和59年、ぱなま丸乗船中、アマゾン河上流のマナウス港に寄港しました。ベレン沖にてパイロット乗船、アマゾン河を本船スピード15〜17ノットで約2日間遡ります。途中両岸ジャングルの大河の中、時折、現地の河船を追い抜きながらやがて黒い水の支流、ネグロス河との交流 点、通称“ソリモンの奇観”に到着します。ここでエンジンスタンバイ、約30分でマナウスの桟橋に着桟します。日本からの揚げ荷は“すずきのオートバイ(ノックダウン梱包)”、約20時間の停泊です。
桟橋の近くにアマゾン河の水位を示すメジャー・付きのスタンションが立ててあり、毎年の最高水位が記されております。増水の年、渇水の年一目瞭然であり、興味深いものです。
代理店のクラッケ氏にお願いしてアマゾンクルーズツアーを手配してもらい、約5時間のツアーに参加しましたが、あまり印象に残るものはありませんでした。アマゾンの色々な魚と果物をメルカードで興味深く見た程度で限られた数時間では奥地まで行けず残念でしたが断念せざるを得ませんでした。
クラッケ氏の案内で市街見学に向かい、途中、ガリンベイロの棲家のような汚い集落を通り,暫くして市街地に入りゴウジャスなアマゾナス劇場(オペラハウス)に到着、ゴム景気が最高を迎えた20世紀初頭に建立された当時をしばし偲びながら、その豪華さに驚かされました。夕食を街角のレストラン・パノラマにて、アマゾンの魚、テンバッキーのフライを味わい、なかないける料理でセレベッサが美味しく感じられました。また、、酔いが廻ると泥臭いブラジルコーヒーも抵抗なく飲め、片言のスペイン語で楽しい一時を過ごしました。
夜ともなれば、どこからともなく大勢の若い男女が現われ、サンバのリズムに乗って踊り狂っている姿は何故か  
THIS IS BRASIL と感じたのは私だけでしょうか。
後髪を惹かれる思いで、翌日マナウの桟橋を離れ、ベレンに向かいましたが、まさか願ってもない、アマゾンの奥地まで商船でこれたなんて私にとって、夢の様なことでした。

(5)もう一つ、私にはどうしても忘れられない40年前の本船での強烈な思い出があります。
ベレン沖で本船からの蛍の光のメロデーと乗客、乗組員全員の盛大な見送りを受けて、アマゾン奥地へ家族ぐるみで移植される皆様が本船のタラップを降りて河船に乗り移られ、、更に数日アマゾン河を遡り開拓地に入植されるあの時、“頑張って必ず成功してください”と祈念しつつ見送ったあの日のこと。
そして、リオデジャネイロで花嫁として移住される方々が本船のタラップを降りて、迎えに来られたご主人達と未知の土地、ブラジルでの生活に入られる第1歩、慣れた船内生活から去って行く淋しい後姿、目にうかびます。
新聞、テレビ等のメヂィアを通じてブラジル移住者、2世の生活ぶりが時折紹介されます。しかし、あくまでも一般的な一面でしかありません。
この度、『私たちの40年』(あるぜんちな丸12次航船内新聞特別号)の発刊を計画された編集委員会の皆様が同乗された移住者の40年の姿を書き残すため南米各地を訪問しての並々ならぬご尽力に、心から感謝申し上げます。又、今後、益々のご発展をお祈り申しあげます。

最後に『私たちの40年!』編集委員会の皆さんの余りにも熱心なご要望に打たれ、あの日を思い出しながら老体に鞭打って書き上げました。やはり我々当時の乗組員にとっても、移住された乗客の皆々様のその後の様子,生活について、決して忘れておりません。また、決して忘れられません。。
昨年、神戸のメリケン波止場に“南米移住者乗船の碑”が建立されました。永遠に神戸から新天地を求めて移住された皆様を決して忘れない為に。
和田好司様始め、『私たちの40年』編集委員会の皆さんのたゆまない活動に心から感謝申し上げ、益々のご発展をお祈り申し上げます。          以上。



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