船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して【第一部】
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あるぜんちな丸第12次航の当時二等航海士として私たちを南米まで連れてきて下さった吉川誠治さんが、現在も現役で大阪湾水先会専属の水先人として活躍しておられます。今回『私たちの40年!!』に日本の戦後40年の造船業界、海運業界、乗組員の動き等を取り纏めて寄稿して呉れました。小さな字に44ページにぎっしりと書かれた力作で頭が下がる思いがします。HPへの掲載は、1件1万語との制約があり10数部に分けての掲載と成ります。私たちが乗って来たあるぜんちな丸に付いての詳しい情報、小史、その最後等は、是非知って置きたいですね。読んで見て下さい。写真は最近の吉川さんの勇姿です。 |
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2001.12.15船、あるぜんちな丸 第12次航から40年を経過して 大阪湾水先会 水先人 吉川誠治
目 次
1. はじめに
2. 「あるぜんちな丸」のことなど
A. 「あるぜんちな丸」の主要目
B. 「あるぜんちな丸」小史
C. 姉妹船「あるぜんちな丸」と「ぶらじる丸」
D. 戦後の南米航路と移民輸送
E. 二世「あるぜんちな丸」の誕生
3. 「船」40年前と現在
A. 海運会社の集約合併
B. 大型化と専用船化
*1. 1万トンは小型船
*2. 巨大船による長距離輸送
*3. パナマックス
*4. コンテナー船
*5. 船の多様化
*6. 自動車船
*7. ガス専用船
C. 船内外の変わり様
*1. 日本人離れが進んでいる外航船
*2. 船内設備も様変わり
*3.「丸シップ」のことなど
4. 神戸港の今
*1. 古い港の部分
*2. 神戸空港
*3. 明石海峡大橋
*4. 新しい港の部分
*5. がんばれ神戸港
5. 終わりに
1.はじめに
1955年(昭和30年)9月東京商船大学を卒業後、10月1日に当時の(株)大阪
商船に入社し、1986年(昭和61年)1月31日(株)大阪商船三井船舶を退社するまで、30年4ヶ月、その間、船に乗っていた期間を詳細に累計して見ましたところ、13年2ヶ月と19日となりました。 30年以上勤務した割には乗船していた期間が短いのは陸上で働いていた期間が長かったからです。
この間乗った船の数は僅か数日間で乗下船した船を含め22隻ですが、二等航海士時代に乗船した「あるぜんちな丸」には、1961年(昭和36年)7月17日に乗船し、翌年の11月15日に下船するまで、東航南米航路を4航海しました。 この間約1年4ヶ月、生涯一番長く乗っていた船でありました。 当時を思い返すと時代は日本が高度成長を始める直前で、未だ戦後の苦難の時代が引き続いている状態でした。皆さんが船客として過ごされた船内生活も、乗組員として働いていた私たちの環境も現代から見れば、それは過酷なものでした。 それらを若さと漠然とした希望に満ちあふれて頑張り、且つ克服したのは船客であった皆様と乗組員であった私どもも何ら変わりがありません。 それだけに船乗りとして最初に次席三等航海士として乗船した「すえず丸」、及び昭和32年初代三等航海士として乗船した大阪商船では初めての12,000馬力高出力ディーゼル・エンジンを搭載したニューヨーク航路用高速貨物船「はばな丸」と共に最も思いでの深い船の一つでありました。
1952年(昭和37年)の4月2日に神戸を出港したVoyage No.12は私の「あるぜんちな丸」での3航海目に当たります。 あれから40年が経過した今、4航海を過ごした当時の思い出の中から特定の航海だけのことを思い起こすのは、毎航海同じようなことを繰り返していた我々乗組員には一寸難しいことでありますので、当時と今を船を中心にして、皆さんには余り興味がない話かも知れませんが、徒然に書いてみました。
2.「あるぜんちな丸」のことなど
A.「あるぜんちな丸」の主要目
総トン数 ; 10,864 トン
全長 ; 156.5 メートル
幅 ; 20.4 メートル
満載喫水 ; 8.7 メートル
主機 ; 蒸気タービン 1基1軸
出力 ; 9,000 馬力
最高速力 ; 19.8 ノット
航海速力 ; 16.4 ノット
燃料消費量; 1日 55 キロトン
清水保有量; 1.540 キロトン
船客定員 ; 1,052 人 (1等12人、2等82人、3等960人)
乗組員 ; 121 人
B.「あるぜんちな丸」小史
1958年4月30日 新三菱重工神戸造船所にて完工。
5月10日 皇太子殿下(現天皇)を招き東京港にてレセプション。
6月2日 横浜から処女航海に出帆。
1962年4月2日 第12次航神戸を出帆、この年から移住者激減。
1963年2月28日 日本移住船会社(株)が設立され、同社に「あるぜんちな丸」 「ぶらじる丸」「さんとす丸」「あめりか丸」及び「あふりか丸」 の5隻が売却され、大阪商船(株)がチャータし運航を続行。
1964年4月1日 大阪商船(株)と三井船舶(株)が合併、大阪商船三井船舶株式会社 として発足。
1965年 夏 船内を大改装、三等船室を廃止し、1〜8名定員のツーリスト・ クラスの小部屋を新設。
1965年10月30日 改装後初めて南米定期旅客船航路に就航。
1970年10月5日 商船三井客船(株)発足。
1971年5月 神戸移住センターが5月一杯で閉鎖。
1971年10月29日 ブラジル移住者311名を乗せて横浜を出帆、最後の南米航路に就航 (第40次航)、 総計10,942 名の移住者を輸送。
1972年4月5日 小改装の後、南米移住船「あるぜんちな丸」がクルーズ客船 「にっぽん丸」と改名してデビュー、15日間の香港、マニラ、 クルーズへ。
1973年2月14日 横浜から日本客船として33年ぶりの世界一周航路へ。
1976年11月20日 「栃木県青年の船」として最後の航海のため東京を出帆(第72次航)
1976年12月10日 デッドシップとしてタグボートに曳かれ終焉の地、台湾高雄へ向け 最後の旅立ちに出る。
C.姉妹船「あるぜんちな丸」と「ぶらじる丸」
「あるぜんちな丸」と書けば、必ず「ぶらじる丸」の名がでてきます。 我々が乗船した二世「あるぜんちな丸」も戦後最初に本格的な移民船として1954年に建造された二世「ぶらじる丸」の準姉妹船として前記の小史の如く、その4年後に就航しました。
初代「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」」は1937年(昭和12年)の日華事変勃発を契機として、政府が「優秀船建造助成策」を発動して戦時体制に対応する高性能船の建造を促した結果、大阪商船が南米航路向けに建造した姉妹船でありました。 日本郵船も同時期この助成策により、NYKを冠する3隻の客船「新田丸」「八幡丸」「春日丸」を建造しましたが、一旦この補助を受けると船の性能や構造面で海軍の要請を受け入れることを義務づけられましたので、純粋な商業目的の船ではなくオーバー・スペックな船となりました。 建造当時既に戦時体制が強まり、資材の調達に困難をきたしていた時代ですが、その困難を克服し大阪商船屈指の豪華船として39年5月に完工しました。 参考までにこれらの姉妹船の主要目は総トン数12,755トン、全長166メートル、ディーゼル機関2基2軸;総出力16,634制動馬力、最高速力21ノット、船客定員800名で我々の二代目「あるぜんちな丸」の主要目と比較すると一回りも二回りもハイグレードな高性能船でした。
しかし、両船ともその活動は極めて短期間に終わってしまいました。 「あるぜんちな丸」は1年3か月で4航海、「ぶらじる丸」は11ヶ月で3航海南米船に就航した後、戦時色が一層強まるさなか、短期間大阪・大連線に転用されましたが、太平洋戦争開戦を待たず41年9月に揃って海軍に徴用され、兵員、戦時資材の輸送に従事していました。 しかし、開戦翌年のミッドウエー海戦で喪失した空母の補充とするため、両船に対して空母改装命令が下り、「ぶらじる丸」はトラック島から急遽内地へ急行する途中、42年8月5日同島北方海域でアメリカ潜水艦の雷撃を受け沈没しました。 私が大阪本社海務部に勤務していたころ、沈没後救命ボートで漂流25日後に救助された「ぶらじる丸」の一等航海士のお嬢さんが居られましたが、『父はボロボロになって家に帰ってきた』と話されていたのを記憶しています。
「あるぜんちな丸」は一応空母に改造され、43年11月特設空母として戦線に参加しましたが、空母として作戦に参加するには小型に過ぎ、華々しい交戦をすることもなく、もっぱら航空機輸送や船団護衛に従事していましたところ、終戦間近の45年7月24日別府湾で触雷したまま終戦を迎え、戦後に解体されました。 両船とも竣工時には日本の造船技術の粋を集めた優秀船で、外観上も優れたデザインをした貨客船でしたが、「佳人薄命」という言葉通り、「あるぜんちな丸」は商業期間1年10ヶ月、軍用期間1年8ヶ月の計3年6ヶ月、「ぶらじる丸」に至っては商業期間1年6ヶ月、軍用期間11ヶ月の計2年5ヶ月で船としての運命が終わりました。 二世「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」も、やはり本来の目的である移民船として機能を充分に発揮し、華々しく活躍した期間はそんなに長くはありませんでしたが、初代の2隻に比べれば、それなりの活躍をしたと評価しなければならないのかもしれません。
余談になりますが、私たちが「あるぜんちな丸」に乗船中、アメリカのモアー・マコーマック(MooreMcCormackLines)という船会社にARGENTINA,BRASIL]という2隻の2萬5千トンクラスの客船があり、アメリカ・南米間の航海の途中、数回南米の港で出会いました。 又、船名は違いますが、イギリスにもSOUTHERNCROSS,NORTHERN STARという2隻の2萬トンクラスの移民船があり、ヨーロッパから移民を満載してオーストラリア或いはニュージーランドへの航海の途中パナマ運河で出会ったことが記憶に残っています。
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