第11回バーチャル座談会 【アテネ・オリンピックに付いて語る!!】前編
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前回の第10回バーチャル座談会【ポルトアレグレ総領事館存続問題に付いて語る!!】は、話題が話題だっただけに参加者が少なく『次回は、世界の祭典、アテネ・オリンピックをテーマに色々楽しい語らいが出来ればと願っております』と閉めたのですが、本日から愈々オリンピックが開催されました。これまでに発言頂いた皆さんの声をまとめて前哨戦として40年前の東京オリンピックの思い出等を中心に纏めてみました。これから熱い2週間強どのような発言、コメント、感想が寄せられるか楽しみです。出来れば前編、中編、後編の3回程度を期待しておりますがそんなに続くでしょうか?皆さん是非ご参加下さい。
写真は、東京オリンピックのポスタターをお借りしました。
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和田:先ず皆さんからのご発言を頂く前に『私たちの40年!!』HPに掲載しているオリンピック関係の話題を拾ってみます。
寄稿集第348番目に掲載している早稲田の柔道部でその猛者振りを発揮していた石井千秋さん(ブラジル相撲界でも何度か横綱を張り、移住国ブラジルに30歳の時に帰化ミューヘンオリンピックで見事銅メダルを獲得)のご令嬢VANIAさんが63キロ級で女子柔道ブラジル代表として参加する事を紹介しております。「自分は三十歳で帰化したので世界選手権には二回しか出ていない。彼女は十五年も世界の一線で戦っている。完全に超えられたよ」と目を細めている千秋さんの笑顔が目に浮かびます。
同じ348番目にポルトアレグレ出身の女子体操代表としてアテネでメダルを期待されているダイアーネさんもオリンピック関係の話題として掲載しております。
寄稿集410番目にはアテネ五輪関係ニュースとしてブラジルオリンピック史上最年少選手として卓球ダブルスに参加する野中マユミ・マリアーニさん16歳を紹介しております。どのような活躍をするか是非皆で応援したいですね。
アテネ五輪ブラジル選手団最年少は日系少女――。八月に近代五輪発祥の地ギリシア・アテネで行われる夏季五輪に、弱冠十六歳で出場権を得た日系人がいる。卓球女子ダブルスに出場するマリアーニ・マユミ・ノナカだ。今年二月にチリであった南米予選で見事、出場権を獲得したマリアーニ。十六歳での出場は今大会だけでなく、ブラジルの五輪史上でも最年少となる。日本では十五歳で五輪に出場する福原愛が、「天才少女」と注目を集めるが、ブラジルも負けてはいない。(下薗昌記記者)
『私たちの40年!!』HPでは、バーチャル座談会という意見交換の場を設けておりますが、今回は、『オリンピックに付いて語る!!』を取上げ8月14日の開会式から29日のマラソンまでの2週間の熱戦を中心にオリンピックにまつわる皆さんの思いを纏めて見たいと思います。話題はオリンピック関係であれば何でも結構ですが、私の東京オリンピック当時の思い出を呼び水として述べて見ます。
日本の東京オリンピックの1964年は、私に取っても日本最後の年として想い出の年ですがオリンピックは余り良い思い出として残っておりません。
1962年にあるぜんちな丸で渡航、1964年に2年以上休学が認められなとの事で帰国、早稲田に復学最終学年を終えるに当り神戸の帰国時の船上からの挨拶が『ブラジルに戻る準備の為に帰国しました!!』だったもので家からは勘当され?仕送りをSTOP、駄目なら諦めるから入社試験だけでも受けて欲しいとの母の願いを退け池袋から出る東上線の大山駅近くにある毎日新聞の集配所に住み込みで入り毎朝朝刊の配達をして住処と暖かい味噌汁に有り付ける生活をしており(勉強があるとの理由で夕刊配達は免除)、夏のオリンピックの期間中は、特別の折込やオリンピック特集で何時もの倍近い枚数でその重さが肩に食い込み投げ捨てたい思いをして朝刊を配っていたのを思いだします。従い東京オリンピックを境に日本が大きく経済発展を継げ所得倍増、バブル経済へと移行して行ったのですが、そのスタートラインでの想い出が重い増刷新聞配達と言う皮肉なものでマラソンを裸足で走ったザトペック程度しか思い出さない反オリンピックのブラジルに思いを掛ける苦学生?でした。
皆さんの東京オリンピックは、どのようなものだったのでしょうか。知りたいですね。
香西:全く私的なことですが、オリンピックと聞いて最初に頭に浮かぶのは、愚息のことです。愚息が誕生した年に東京オリンピックが開催され、記念銀貨が発行されました。
今回のアテネオリンピックに参加する日本選手の数は、東京オリンピックに次ぐ大選手団になるそうです。これも平和の賜物ですね。
しかし、テロから自国の選手を護るため警備隊を派遣する国もあるそうですが、平和の祭典にテロを警戒しなければならないとは皮肉です。
オリンピックは「参加することに意義がある」筈なのに、国の威信を背負わされたり、商用に利用されることが多くなり残念です。
でも、スポーツの最大の祭典に変わりはなく、青春の全てをオリンピックに向けて頑張ってきた人達の競技を見ていると自然に熱中してしまいます。
今回の日本選手団は、男子より女子選手団の方が好成績をおさめそうで、楽しみにしています。
和田:発言第一号は、香西さんですか。嬉しいですね。40年前に御子息が誕生、神戸の三菱造船所であるぜんちな丸の建造にも携わられたとお聞きしますが、今回のアテネ・オリンピックにはどのような想い出が残るのでしょうか。又聞かせて下さい。
丸木:東京オリンピックには、苦い想い出とブラジル移住へのスタートの年として良く覚えている。東京オリンピックから1年半後、私はブラジル丸の船上にいた。横浜港を出航した船内のテレビでは、東京オリンピックで自己最高記録を出しながらメダルを逸した田中聡子婚約発表が放映されていた。 学習院出身で八幡製鉄バスケット部の選手との職場結婚という。
ローマオリンピックで高校生の田中嬢が、好成績で凱旋帰国した同じ年に、東芝メデイカルに勤めていた私は北九州の小倉に転勤した。 同じ北九州にある八幡製鉄所に田中嬢が翌年入社し同社水泳部の黒佐監督の家に寄宿した。 私は福岡水連の理事として、九州各地で開催される競技会の役員や、オリンピック強化合宿を視察したりするうち、もくもくと練習に励む彼女と目が合うようになり、つきあうようになった。
別府温泉プールの合宿では和田彦旅館に同宿しても、記者の目につかなくするのに苦労した。汽車には乗らず私が田舎道を運転し、幹線を避け遠回りまでした。 八幡ではスプローザ(密会)というバーで密会していたが、黒佐氏から「大事をひかえ御放念ください」と云われオリンピックまで密会は、おあずけとなった。
東京オリンピックが終わり、仙台で開催された健康保険水泳大会に、私も彼女と共に福岡県代表選手として出場した。 競技前日までの練習後は七夕祭りの美しい街を散策し、アイスクリームを舐めながら唇を舐め合ったが、肝心の人生設計が一致しなかった。 仙台の宿舎で私と同室になった黒佐監督の弟さんが、私が”聡子”の寝言を言ったと兄さんに告げたそうで、監督の仲介で帰郷後も再会し、熊本の健軍空港の近くにある彼女の実家に両親を訪ねた。金メダルを取れば記者が押しかけると予測したらしく、農家の玄関口が新しく改装されていたのがいじらしい。私は、なんとしても彼女を幸せにしたいと心に誓ったが、セールスの出張勝ちで多忙な私は、灯台下暗し彼女と同じ職場に居た鳶に油下さらわれてしまった。
私は失恋の無念を胸に離日を決意し、大和撫子をあきらめ脱サラし祖国すら捨ててブラジルに移住した。東京オリンピックから丁度40年経った。
私は、来年の世界マスターズ水泳大会に、70歳〜74歳のブラケットに出場するので、彼女との再会が楽しみ。彼女はマスターズ全ブラケットの世界記録保持者と伝え聞く。(丸木英朗)
和田:小説になりそうなお話をブラジル移住のきっかけとして淡々として語られる数奇の人生を過してこられた現在トロントに御住いの丸木さんのお話は、実在の有名人、日本を代表する水泳選手との実話ですが、40年後の世界マスターズ水泳大会での再会を楽しみにしておられると言う若々しさに驚嘆します。今年の年末には、オランダ系のブラジル人の奥さんとご一緒にポルトアレグレにも立ち寄られるとの計画で世界を舞台に活躍する丸木さんに乾杯したいと思います。
栗本:東京オリンピックから40年、年月の流れの早さに驚いています。
私が大阪商船の船員だった、昭和30年代の日本は、戦後復興に一生懸命でした。貧しい時代でしたが、将来への夢があり希望があり、日本は元気でした。日本海運は七つの海に航路を広げ、南米航路の移民船は5隻で年12航海、南米に向け日本を出港していました。
昭和39年に東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通、高速道路の建設ラッシュ、そして、昭和40年代の高度成長が続きました。
東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)、私は日本で初めてマグネット付きクレーンを装備して新造された大型スクラップ専用船、あしびい丸に乗船していました。日本は金へん景気に沸いていました。
南米航路の移民船は太平洋を横断して最初の港はロスアンゼルスでしたが、その少し南にロングビーチがあります。山と積まれたボンコツには見えない高級車が見るまに鉄の固まりに圧縮され、ロングビーチ港に集められます。
このスクラップを資源の少ない日本に運ぶため、ロングビーチと大阪を結ぶ航海です。
時あたかも東京オリンピック直前とあって、処女航海の新造船あしびい丸はロサンゼルスの新聞テレビに大きく取り上げられ全米に向かって放送されまし。
東京オリンピックは通信衛星シンコム3号で日本から全世界に初めて中継さましたが、ロングビーチ港で鮮明に映った船内テレビで、開会式を見ることが出来て感激しました。
40年の歳月が流れましたが、ロングビーチの美しいサンセットが今でも目に浮かびます。(栗本克彦)
和田:栗本さんは、北朝鮮から死線を越えて帰還された経験をお持ちの船乗さんで移民船の通信員をしておられた事があるとのことで栗本さんのHPにある南米航路等多数『私たちの40年!!』HPでも紹介させて頂いております。日本の多くの皆さんとのHP、メールを通じての交流第一号で大変お世話になって来ました。昨年9月には大分でお会いして昭和の町豊後高田市を案内して頂き、別府でオフ会もして下さいました。現在癌が再発治療を続けておられるとのことですが、旅を愛し、サッカーを楽しみ、富士山に登り癌との共存をしておられます。何時までのお元気にオリンピックをお楽しみ下さい。
鈴木:1964年ですね。オリンピックが東京でありました。コンパニオンという不可思議な役を持つ奉仕者が世話をしてくれたので長島監督は夫人と会合ができたのです。ロングビーチはロスから30分も南にある都市で港町毎年ミスウニバースコンテストの会場で夕方の太陽が沈む時の美しさは今でも日本観光者が見に来ます。四日市市と姉妹都市を組み、白人で名誉市民も『四日市の』出るほど緊密ナプログラムが続きました。初期の日系婦人佐藤女子が市長になりあの石油産出の町で当時は財政も素晴らしく、涼しい日系人も昔から沢山住みました。シグナルヒルという丘地には石油の井戸が乱立して大きな石油会社シグナルヒルが操業しました。此処の会長サムモジャーさんが私のスポンサーでした。CA.一か二の財産家でした。当時は白黒のT.V.でしたが日系人は特に固唾を飲んでオリンピックをみたものです。古橋、橋爪『?』さんの水泳王国がすぎてハワイから二世の紺野、アーストラリアからマーシャルなどの水泳選手を覚えます。日本は着々と経済大国になろうとしていました。
経済は大国になる土台をつくりましたが精神大国にはほど遠い国でした。環境問題がそろそろ起きてきて社会も喧しくなり前途多難の兆しでした。それでも日本列島改造論が出てくる直前でした。
経済を追っかけた挙句に中国に遠慮する国になりました。世界は中国がアジアの指導者と見ている現代なのです。日本が追っかけたものは何だったのでしょうか。当時は無かった790号線高速道路(ロス東側とロングビーチ間)を走るにつけて往時の車混雑を思いだしますよ。(鈴木 武)
和田:鈴木さんご発言有難う御座います。鈴木さんは、現在カリフォルニア州の南パッサデーナと言うジャカランダの花が咲き乱れる町に住んでおられるとのことでこのポルトアレグレにも咲き誇るジャカランダの花が取り持つ縁でお知り合いになりました。エンジニアとしてブラジルにも何度か来ておられるとの事で現在は、日台米の姉妹都市提携の架け橋として活躍されておられるとの事で台北の小学校を卒業、日本で勉強、アメリカで活躍と国際人の代表的な方です。
荒木:私は競技には参加しませんでしたが、下働きに参加(?)しましたので報告します。私の東京オリンピックに付いてですが、私のブラジル移住は1963年で、実際に競技が始まった頃は、ゴヤス州奥地の密林の中で、新しい道路の測量仕事に明け暮れた、オリンピックも忘れた毎日でした。が、62年に調布市に工事が始まった「オリンピック村」に同期の青年隊員と一緒に数ヶ月働いた事がありましたので苦い思い出ですが書いて見ます。
調布市のオリンピック村敷地は、第二次大戦後のアメリカ駐留軍に新鮮な野菜を供給する為の「水耕栽培」を行った跡だそうで、広い敷地は小さな水路が縦横に掘ってありました。測量班が杭を打って区画をマークした後を、ブルトーザとモータースクレーパーで均して、道の両側に側溝のコンクリートブロックを据え付ける仕事でした。
勿論ダンプカーもあって、たまたま大型免許を持っていた私がダンプカーの運転手に決まり、材料の運搬、毎朝夕の宿舎までの人運びなどをして、免許証のお陰げで積み下ろしの等の力仕事、土方仕事を免れ、内心しめしめとほくそえんでいました。
仕事の行き帰りには何時も運転席に数人、それに後ろのダンプに十数人乗っていましたが、ある日、帰りに途中まで来て後の方で怒鳴る声が聞こえるので止まって見たら、ダンプが45度位持ち上がって、ほとんどの人が滑り落ち、数人が上と両側にすがり付いて悲鳴をあげているじゃありませんか。びっくりしてすぐレバーを操作してダンプを下げましたが、まだダンプは公道に出る前で落ちた人も怪我がなくやれやれとほっとしました。原因は運転席に入った誰かがダンプのレバーを足で踏んずけた事でことで起こったようでした。隊の指導員からは厳重注意を受け、次の日から早速土方班に戻されてしまいました。
その後1ヶ月程過ぎに下請け業者が入り、運転手が欲しいとの事で、また私が呼ばれまだ新しい小型車のキーを渡されました。やはり工事区域内の材料運搬で、これなら独りで持ち上がる事もないと安心していました。
広い材料置き場の間を前進後進で右往左往する毎日でした。ある日運転席の扉を開けたままバックでコンクリート製品の間に進入し、ガツーンの音で気が付いた時にはすでに遅く、扉は前方にひん曲がって落ちる寸前でした。次の日また古巣の土方班に戻され、免許証はあっても、注意力と経験が無ければ何事も通用しないと身を持って体験した苦く又良い経験でした。
和田:荒木昭次郎さんは、南米産業開発青年隊の一員で私のあるぜんちな丸第12次航より約一年早くブラジルに着いておられます。現在もミナス州でダム建設関係のお仕事をしておられるとのことです。メインスピーカの御一人沢田さんがオリンピック取材と一時帰国されるとの連絡を受けました。
沢田:里帰りと取材と営業と旅行を兼ねて、ヨーロッパ経由で日本に一時帰国します。8月16日の夜にサンパウロを発って8月いっぱいヨーロッパに滞在し、9月3日に成田に着いて9月28日まで日本に滞在する予定です。
和田:ブラジル在住のサッカー評論家沢田 啓明さんからご発言ですがヨーロッパ経由訪日との事、アテネ五輪のサッカーのコメントを現地から送って頂けそうで楽しみです。
開会式を前にサッカーは、一足先に始まっており、ブラジル女子選抜軍は、オーストラリア1-0で勝ち、日本も強豪スエーデンを1−0で破り幸先良いスタートをしておりますが、日本男子選抜軍は、ブラジルに替わって参加しているパラグアイに3−4で敗退し予選リーグ突破は、イタリアとの第2戦に掛かっています。愈々明日開会式です。皆さんの開会式の感想等が挙がって来ることを期待しております。
北川:ご無沙汰しております。只今アテネ五輪を見にギリシャに来ています。
沢田さんの書き込みを見てメールしています。
昨晩は日本vsパラグアイのゲームを見てきました。ミスばかりの酷いゲームでしたがイタリア戦に期待しましょう。五輪が終わるまでいます、面白い写真が撮れたら又メールします。(北川外志廣)
和田:矢張りギリシャに取材に出かけているのですね。取材記者の数が日本では制限されておりクレデンシアメントをブラジルかパラグアイで取得出来ないかとTRYしておられたのでどうなったのか気になっていましたが何とか潜り込めるようになったようで安心しました。是非熱いギリシャでの臨場感溢れる写真を一枚でも結構ですので送って下さい。バーチャル座談会に使用させて頂きたいと思います。
北川さんの写真に沢田さんのサッカーコメントを同時掲載できれば、最高ですね。楽しみにしておりますので宜しくお願いします。
北川:熱い写真をお送りしたいのですが?
実は潜り込めた訳でもなく、チケットとこちらでプレスパスを取れなかった人達の為のプレスセンターにしか入れなく、今もそのプレスセンターで開会式をテレビ観戦です。
でも観客席からでも何かを見ようと頑張っています。
しかし、今一つの盛り上りでしょうか?
又連絡します。(北川外志廣)
和田:北川さんは、スポーツ関係特にサッカーの写真を撮っておられトヨタカップに参加する南米のリベルタドール杯優勝のチームのカタログ作成用の選手写真を撮りに毎年南米に来ておられます。地元のGREMIOがトヨタ杯に参加した時にご一緒させて頂いたことから日韓合同のワールドカップの写真等幾つも送って頂いております。『私たちの40年!!』HP関係者の沢田さん、北川さんがギリシャに行っておられますので現地からのお便りも期待出来るのではないかと思います。
さあ、第11回バーチャル座談会の始まりです。皆さんの御発言を御待ちします。
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