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日本ブラジル交流協会 第二三期ブラジル留学研修報告書を送って頂きました。
日伯交流協会の第二三期研修生35名の研修報告書をポルトアレグレで研修しておられた檀野 令子さんから送って頂きました。通常帰国年内にはこの種報告書は挙がって来ず?翌年になったりするケースが多かったなかインタネットの普及、メール交信が進行している性か、しつかりした編集長の努力か写真も多い68ページの報告書は、読み応えもあります。私の管轄?南部2州での研修生3名の報告書を大阪から遊びに来ている妹、阪口多加代にタイプアップして貰い掲載する事にしました。来年は、研修制度開始の年から数えて25年目に入る四半世紀に当ることから現在過去最高の57名の研修候補生が日本で事前研修しているとの事ですが戦後移住が絶えて久しいブラジルへの新しい血としての日伯交流協会の研修生派遣制度は、多くの若者に1年間働きながら各自の研修テーマを持たせブラジルとの生の付き合いをする機会を与え将来の日伯架け橋的人材養成制度として大いに期待出来る。
写真は、研修報告書の表紙です。


葦名真平 
研修地 サンタカタリーナ州ジョインビレ 
研修先 SATAKE AMERICA LATINA

「ブラジルを振り返り」
また一段と日本が好きになった。オリンピックセンターに向うリムジンバスの外を眺めていると改めてTOKYOの迫力に驚いた。新宿の摩天楼ビル、横を走っているピカピカに光った新車の数々・・・ブラジル・サンパウロよりも数段生活水準の高い,我が故郷にやっと戻ってきた。
帰国報告会で同期の仲間が日本人の閉鎖性、また先生方が日本の景気、学力低下など数々指摘した。どれも暗い話題ばかりだ。どうしたら日本を変えることができるのか、これからは私たちの世代が日本を変えていくのだという。しかし、果たして改革が必要なのだろうか。私はまったくそう思わない。
 渡伯理由は自己の可能性を広げるためである。中学,高校を豪州で過ごし、大学に入ってからは2ヶ月間欧州を旅した。進学先を上智大学ポルトガル語学科に選んだ理由もコミュニケーションの道具である外国語をひとつでも多く習得する為である。価値観の違う外国人とコミュニケーションすることに私は快感を覚える。ひとつでも多くの出会い、風景を見ることで自分の心の扉を開くような気がする。大学進学と同時に、2年間で基礎を身に着け、3年で留学するという計画をたてた。留学場所は英語圏でもヨーロッパでもなく、自分の常識の通じない国、それがブラジルであった。自分の可能性、生活スタイル、職種を模索する為だ。そして自分の知らない自分に出会うために。そして2回生が終わり、日本ブラジル交流協会を通し、私はブラジルに渡った。
 ブラジルは私の期待を裏切らなかった。ブラジル研修でもっとも重要な出会いである1年間の研修先は広島に本社を持つ『サタケ』という精米機の会社。この業界では世界シェアーナンバーワンの大企業である。サタケと出会えたことに交流協会に感謝しなければならない。生涯忘れられない出会いとなった。ここでは語学はもちろんのこと、人間として成長させてくれたのだ。主な仕事は翻訳、通訳、ホームステイをして少しずつ話せるようになると、副社長の佐々木さんの通訳として外注先やお客様のところのも連れて行ってもらった。副社長は私が残業のある日は、必ず食事に誘ってくれ、そこで、様々なお話もして下さった。生れて初めての上司、佐々木さんには心より感謝している。また片言のポルトガル語にもかかわらず、私に文句ひとつ言わずに耳を傾けてくれたブラジルの同僚たちにも感謝したい。正直、辛い事のほうが多かった。しかし、仕事を成し遂げたときの満足感や同僚とシュハスコパーティーを行ったときの幸せを思い出せば、すべていい思い出になってしまう。このサタケでの1年はかけがえのない財産になることは間違いないだろう、また社長の会議は私が帰る3月まで6ヶ月間続けられた。仕事の基本から会社運営のノウハウまで、通訳はもちろんのこと私の知識として大変勉強になった。
私はサタケのおかげで『1年で5年分の成長した』と自負できる。ブラジルとサタケは未知なる自分の可能性を大きく引き出してくれた。これからは自己成長と同時に大好きな日本の可能性を模索する為に海外と日本の架け橋となる仕事をしたい。


檀野 令奈
研修地 リオグランデドスール州ポルトアレグレ
研修先 メタルテクニカ

「日伯との出会い」
もう10年以上も愛しているthe boomの宮沢和史さん。好きな人を理解するためには,その人の好きなものも理解しなくちゃってブラジルについて調べてたらたまたま日伯のホームページを見つけてしまった。わっお〜ブラジル!行っちゃおっかなーっ!もっといろんな所見てみたいしーっ!あ・・・でももう募集終ってるやー、よし来年・・・って応募してみた。こんな偶然から日伯との出会い、23期と出会い、そしてブラジルと出会った。
「偶然は必然」                                         
私は運命があると信じている。人と人とを結ぶ見えない糸。今もそして過去にも出会った人たちは偶然じゃなくて、出会うべくして出会った人たち。それは人に関してのことだけじゃなくて全てのことにおいて言えると思う。例えば、ほんのささいなことだけど落ち込んでる友達がいて、その時たまたま電話して会うことになって悩みを聞いてちょつと元気がでたよって言われたら、それは偶然じゃない。本当に必要なときは向こうから来るもの。本当はサンパウロ希望だったけど、たまたまポルト・アレグレになってたまたま研修先がメタル・テクニカになった。『偶然は必然』って最近作った言葉だけどすごく気に入っている。
「幸せ探し」
日本に帰ったら洗面台が低くて、あ、背伸びたかなって勘違いしてしまった。オレンジジュースも通じない国で11ヶ月。私は何を学んだだろう。何をしに、何のためにブラジルに来たんだろうって悩んだ日もあった。日本について考えたり、日本語の素晴らしさを実感したり、死について考えたり、色んなことを感じてたくさん笑ってたくさん泣いた。たくさんの人に出会っていっぱい幸せをもらっていっぱいお世話になった。それだけで充分。
『家族』
久しぶりに会う家族も、友達も、みんな何も変わってなくて相変わらず優しくて一緒にいると楽しくて本当に1年たったのかなぁ・・・すっごくなが〜〜い夢を見てたような、のび太のような気持ちになる。でも、日本からずっとずっと遠い地球の裏側に家族ができた。国境をいくつも越えて遠い遠い国で生きている人たちがいる。当たり前のことだけど、すごいことだなぁ。
「ありがとう」
中原さん一家、和田さん、協会関係者の皆様、22期の方々、23期のみんな!
Erika,Viviane,Marcelo,Andrea,Fabricio,Silvia,Rosiane,Taeko,Dona Sirlei、Ryoko、Lucia、Emili,Kelvis,Manoel,Roberto Carlos,Rodorigo,Familia da Rosi、Familia da Vivi、Familia do Marcelo、Todos na metal tecnica、その他お世話になった方々全てに。
伝えきれない程の感謝をこめて….幸せであるように。 MUITO OBRIGADA !!!!


成毛 麻実
研修地 サンタカタリーナ州ラージェス
研修先 ヤクルト商工

「夢の国 ブラジル」
私は本当にブラジルに行ったのだろうか。一年間も日本の反対側の国に住んでいたのだろうか。帰国して何事もなかったように日本の生活に馴染んだ私は、ブラジルで過した日々が夢のように思えてならない。Lagesのジェットコースターのような坂道、友達の笑顔、帰国する時の悲しさは記憶に残っている。ただそれが長い夢だったのかもしれないと今でも思う。
日本を発つとき、あれほど泣いてブラジルに行きたくなかった。それが一年後にはブラジルを離れたくなくて泣いていた。一年ずつと一緒にいてくれた友達も、最後の二、三週間くらいしか話せなかった人も、みんなが泣いてくれた。ブラジルに着いてからずっと日本に帰りたいと思っていた私は、自分がこんなにLagesにいたいと思うとは考えていなかった。完璧に言葉が通じてなくても、短い間でも、私はたくさんの友達を得ることができた。私のために何度も同じことを繰り返して言ってくれた。“Com eh que vou te dizer ?” と言っては、私にわかりやすい言葉を選んでくれた。辛かった日の方がだんぜん多い。でもそれをも忘れてしまうほど、良い思い出がたくさんある。
 辛くて、楽しくて、寂しくて、嬉しくて、いろんなことがありすぎて、だから夢のようなのかもしれない。日本にいたら経験しないことだらけだからよけいにそう感じる。でも夢ではなかったのだ。体には日焼けの後が残っている。写真には友達がたくさんいる。電話をすれば私の声を覚えていてくれる人がいるのだ。ブラジルには私の帰る場所がある。帰国の日が近づいた頃、友達が言った忘れられない一言がある。“Voce sabe a onde voce vai?”と、私は当たり前のように日本だと思った。でも、そのこは自分の胸を指差し、“Aqui!”    
と言った。“voce vai ficar aqui no meu coracao”すごく嬉しかった。こんなことがさらりと言えてしまうブラジル人をとても素敵だと思う。そして、私の中にもしっかりとブラジルで過した日々が刻まれている。人生の何十年分の一年だとしても決して忘れることはできない。“Nao me esqueca”って忘れられるわけないじゃん!!!みんなは私の中で生き続けます。夢のような素敵な日々をありがとう。
 最後にYakultのみんなが私に送ってくれた言葉を紹介します。
“As coisas mais belas da vida nao se podem ver nem tocar, elas devem ser sentidas no coracao.” (Charles Chapplin)
Muito obrigada por seus apoios e sua amizades. Estou sempre com saudade des voces.
Voces estao aqui no meu coracao.
Beijao MAMI Japao 2004          




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