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ガルアーぺ日本語学校のこと  木田祐子さんの【あゆみ】日本語教育実践記録より。
同船者でアルゼンチンのミッショネス州ガルアーペ移住地に入られた木田祐子(旧性三浦)さんは、ガルアーペ移住地当時から日本語の先生をしておられ現在もブエノスアイレスの北部地区にあるアカスース日本語学校で教えておられます。仕事でブエノスアイレスに行く機会があり42年振りにお会いする機会があり弟の三浦大祐さんとご一緒にスペイン料理の美味しい店で語り合う事ができましたが、その時にお預かりした祐子さんの日本語教師生活22年の節目に当る1996年に纏められた日本語教育実践記録【あゆみ】の一部『ガルアーペ日本学校のこと』をポルトアレグレ滞在中の大阪の妹にタイプアップして貰いました。やっと肩の荷が下りた気持がしますが、まだまだ寄稿集に残したい書きものがあります。祐子さんは亡くなられたお姉さんとご一緒に船内学校の幼稚園の先生をして頂いており当時の生徒さんがボリビアのサンファン移住地に沢山入られたとのことで今も懐かしがっておられました。何時の日か皆で集う機会が持てればと念願しておりますが45周年にあたる2007年にでもサンパウロでブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアの同船者の皆さんとお会い出来れば嬉しいですね。


1962年5月・・・・。太平洋と大西洋の波をこえ、40日の航海の旅を終えて、ブエノスアイレスに入港した。
 チャカリータの駅を蒸気機関車に乗ってエントレ リオス州やコリエンテス州のみかん畑の大草原を35時間もごとごと揺れながらポサーダスにやっと着いた。それからえんえんとバスで5時間くらいかかってガルアーペの移住地へ着いた。汽車は木製のいすだったので、足腰が痛くなり、夜は寒くて毛布にくるまって寝た。
 そして、ガルアーペまで大型バスは土ぼこりの国道を赤土の砂煙をあげながら走りまくった。現地に着くと組合の父母会の方々がおにぎりやおにしめを準備して歓迎してくれた。それから、間もなく役員の皆さんが日本語学校の維持会を組織し、ガルアーペ日本語学校が誕生した。
幸いに、移住地には現地のスペイン語学校があったので、そこを教室に使わせてもらう事になった。開校の日にちははっきりしないし、また何名生徒がいたかも・・・・
当時は約70家族がいたので、かなりの数であったと思う。それで、第一第二と分かれて授業をした。あれからもう28年の年月がたっているし、指導の内容等はあまり記憶にない。漢字の書き取り練習とか、読解指導が主であったと頭の中から思いでの糸をたぐりよせているが、きっと低高学年、二部授業の国語指導的なものが中心であったと思う。子供達は全員日本から来たばかりだし、全く日本語の環境の中で生活していたから日本の国語学習の延長のようなものだった。とにかく、学校に来て土曜日、仲間が集まってワイワイ楽しく遊びながら日本語の学習をするというようなものであった。今、思い起こしてもこの頃が私にとって最ものんびりした良き日本語教師の時代であったのかもしれない。外国語としての指導に苦しんだこともなく、父母会も先生のやる事には全面的に支持してくれたし、注文めいた事や批判がましい事も一切聞いたことがなかったからだ。
かすかに思い出すのは、田舎だったので休み時間には遊びまわって手足は土で真っ赤になるしノートも汚れるし洗面器を用意してもらい、がらがらとクサリのつるべを下ろして井戸から水を汲み手をあらわせて授業を始めた。一年の終りには、学芸会を父母会と合同で開いた。踊りを四曲ぐらい簡単に創作して教えた。子供達は久し振りの着物の晴れ着姿に喜び、振り付けもせりふもすぐ覚えてくれた。彼らのその姿が今、ぼおっと目の前の浮かんでくるようである。劇はいたづら小僧をテーマにした内容のものでわんぱく生徒が木に登っておとなしい子を待ち伏せるといった話だった。その役を演じた子はもう、立派に成長し40代になっていると思うが。
一年位して、ブエノスに住むようになり母の会で送別会を開いて下さった。懐かしい日本の歌を歌ったり、手作りのお寿司やお漬け物を御馳走になって別れた。別れるのが悲しく辛かった。中学部の生徒とは友達同士といった仲だったのでなおさらそう感じたので
だった。それが28年もたった今、何度も、6回ほど引っ越しをしたにもかかわらず私の思い出の箱の中にちゃんと入っていたのである。この事をもう5年位前になるだろうか、故石川先生にお話しすると「それはね、先生、宝物ですよ。」とおっしゃった。私は、ああそうかなといった感じであまり心にもとめなかったのであるが、なる程、恩師のおっしゃった通り、あの頃の彼らの心の中を知る唯一の資料であり記録でもある。時がたつ毎に大事さが重なっていくようである。




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