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【蒼氓の92年】 ブラジル移民の記録 内山勝男(サンパウロ新聞編集主幹)著 東京新聞出版局 2001年1月初版発行
【作家・石川達三と共にブラジルに渡ったジャーナリストの書き下し 日本人のこころをさがし求めた移民社会(コロニア)の幾千夜】との説明書きがある。現在もサンパウロ新聞の『社説』を書き続けておられるコロニアに於ける最古、最長老の内山さんが書かれた蒼氓の92年 日本移民の“流れの譜”は、今やブラジル移民を語る古典の域に入っている。『私たちの40年!!』でも故斎藤広志先生、宮田先生の著作を紹介しておりますが、今回やっとこの【蒼氓の92年】を紹介する事が出来ました。第一部の第一章に当る下記の文書をブラジル滞在中の阪口多加代に叩いて貰いました。
写真は、【蒼氓の92年】の表紙です。


   七百八十一人の先駆者 夢を抱いてブラジルへ 
「ボオーッ」と腹にしみ通るような哀調をこめた汽笛とともに、ブラジルに初めて行く農業契約移民七百八十一人(百六十五家族七百三十三人、独身者四十八人=皇国殖民社会=水野竜社長引率)、そのほか自由渡航者十二人を乗せた笠戸丸(六〇〇〇トン)は神戸桟橋を静かに離れた。
見送りのハシケから景気良く花火が上がる。日傘をさした島田まげに結った紙人形がフワリフワリと中空に舞っていた・・・・
 いまから九十二年前の明治四十一年(1908)四月二十八日午後五時五十五分。ブラジル移民の開けた歴史的な日であった。
笠戸丸が出港する三時間前、前部甲板に移民たちを集めて見送りの移民会社代表の土井権太代議士は、「外国に行っては、諸君のひとり一人が日本国を背負っていると思え。諸君のひとり一人が日本人の体面を汚すべからず。成功せずんば、死すとも帰らずの覚悟で行くべし」との訓辞を行った。
移民たちの気持ちはどうだったのだろうか。
「この柳行李いっぱいに円紙幣を詰めて帰るつもりで出かけましたバイ」とは、熊本の大工さんの希望だった。
「三年間みっちり働いて、生活費を切りつめて一万円ためたら、それで故郷に帰って、おふくろを京都の本願寺へ連れていってお参りしたい」とは、ある若夫婦の願いだった。
いずれも大同小異。四,五年もしたら小金を貯めて、日本へ帰りたいというのが、その希望だった。
当時のコーヒー一俵の採取賃は五百レース。一日一人で四俵は収穫できるので、二ミルレースになるので、一日一円二十銭になるとソロバンをはじいていた。
 そのころ、日本では大工職人は一日手弁当で四十銭。農家の日雇いが飯つきで二十銭。
小学校の女教員の月給が八円、巡査が十円そこそこであったという。
ブラジルではコーヒー四俵を採取して一日一円二十銭。月に三十五、六円になる。すると家族みんなで働けば、これはきっと儲かるぞ!とたいしたハリキリぶりだった。
皇国移民社会の書記として第一回移民船笠戸丸に乗って、移民と同航した香山六郎(こうやまろくろう)は、当時の模様をそう語っている。
香山は熊本県出身。一九二一年九月七日、邦字新聞「聖州新報」を発刊。新聞人としての生涯を送った。一九七六年死去、九〇歳。
第一回移民を乗せた笠戸丸の神戸出港模様を、明治四十一年4月二十九日付の大阪毎日新聞と大阪朝日新聞は次のように報じている。(移民数等、原文のママ)
<大阪毎日新聞>第一回伯刺西繭移民を搭載せる東洋汽船の笠戸丸は、二十八日午後二時半伯国サントス港に向け神戸港を出帆したり。渡航移民は七百八十三名にして、其の内訳は左の如し。
 熊本県五八人、鹿児島県百七十二人、沖縄県三百二十七人、山口県三十人、高知県十四人、愛媛県二十一人、広島県四十二人、福岡県(ママ)七十八人、宮崎県(ママ)十人、新潟県九人、その他三人。
尚今後皇国殖民会社の手によりて九千人を渡航せしむる予定にて、今回は移民監督保護のため法学士上塚周平氏一行中に加わり居れり。また横浜駐在西繭国代理領事サントス・シルバ氏も横浜より来たり種々幹旋したり。
<大阪朝日新聞>北米移民の頓挫が端なくも此處に好機を興へ皇国移民会社の手によりて募集せられたる第一回巴西移民七百八十三名は二十八日午後二時神戸港東洋汽船会社の笠戸丸に塔じて一万八千里外なる南米巴西に輸送せられたり。今回の移民は、さきに同国政府に於いて移民法改正の結果特殊の待遇を興へられ移民者は必ず一家族の者に限られたる代り一名に対しては航海費用百六十五円の内一百円の補充金を興へられ(内四十円は償却の義務あるをもって結局六十円の補助)六箇月間同国政府命令の下にサンパウロ州に於て、労働したる後同州鉄道沿線に於て一家族に十町歩の土地を興へられ此處に一の殖民地を作る事を得るの組織なり。応募者の国別は沖縄三百二十七名を最として鹿児島の百七十八名、熊本七十八名、福島七十七名、広島四十二名、山口三十名、愛媛二十一名、高知十四名、宮城十名、新潟九名、東京三名なりと何分一家挙げて移住するもの多き事なれば服装の如き男女とも大部分洋装し其の携帯品の如きも好く整頓して従来移民の比にあらず。惟ふに彼地に到着の上は此の種の労働者としては十分なる好評を博し得べけんか。同船の航海日数は五十三日にて途中新嘉坡及び喜望峰に寄港し炭水を補充する外何處にも立ち寄りらず目的地に直航すべしとなり。神戸出港の際は神戸及び横浜駐在の同国領事来船して此を視察し大いに満足の意を表し居れり。
第一回移民の輸送条件として,皇国殖民会社は各移民との間に、左のような契約を取り結んだ。
 契約の要点@労働の種類=珈琲採取(外に石工、大工、鍛冶あり)A契約年限=第一回の珈琲採取期(約半カ年)、B労働時間=時間の制限は伯国の法律習慣により就業前に協定する。C賃金=日給の場合二ミルレース(一円二十銭)ないし二ミル五百レース(一円五十銭)、請負の場合=珈琲一袋(およそ二斗八升入り)につき四百五十レースないし五百レース(三十銭)、D衣食住および医療=上陸のその日より六日間は居屋および食物無代、病気のため六日内に就業地に出発できない時は、その間の食物・医薬無代、E旅費=往復共に自弁。ただし往航船賃の中、一定額(年齢によって差あり)をサンパウロ州政府が補助す。補助金の十分の四は雇主に対し償還。



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