白石健次 著 【グワタパラ移住事業】-農林・外務両省の確執- 1997年3月第1刷
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農業移住に賭けた男たち 昭和30年代、ブラジル・サンパウロ州の3大農場(ファゼンダ)のひとつと言われるグワタパラに、移住構想を描いた男たちの熱い夢と苦闘 日本図書発行会発行の掲題の図書が手元にあります。第一回笠戸丸移民が入植し更に戦後の計画移住地として私たちの同船者も入植、現在も小島さん、見尾さんが住んでおられ私たちと同じ42周年を迎えているグワタパラ移住地で第一戦で現地指導に携わった白石健次さん(当時日本海外移住振興会社員)が書かれたグワタパラ移住事業と言う本を紹介します。農務次官を辞められた平川守さんのグワタパラ移住事業との取り組みを語る序文 【はじめに】の部分を妹の多加代に叩かせました。
写真は、同著の表紙です。
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はじめに
昭和三十一年六月に農林次官を辞めた平川守さんは,河野一郎大臣の用意した、農林漁業金融公庫総裁の席を断り、全国拓殖農業協同組合連合会を設立して、かねてから信念としていた分村移住を計画した。
平川さんは、かねてから、我が国農業の根本的欠陥は、基盤である農地があまりにも狭小な点にあり、この根源に大きな手術を加えない限り、農業構造の改善も、農家所得の向上も期待出来ない。従って分村移住を行うべきであると言っていたのである。
昭和三二年、ブラジルコチア産組(日系農協)の創立三十周年記念式典に、日本農協の代表として出席平川さんは、コチア産組の創立者、下元健吉専務と会った。話し合ううちに意気投合、日伯農協と共同で、移住事業をやろうということを決めた。
平川さんは、移住予定地を探すことを下元さんに頼み、ブラジルを去った。
下元さんは、ファゼンダ・グワタパラに予定地を決め、平川さんに通知したが、その直後、脳溢血で死去した。然し、コチア産組の幹部が下元さんの遺志を継ぎ、平川さんに協力した。
全拓連は調査を行って、グワタパラ移住事業の計画・実行に移そうとしたが、外務省が、現地での事業実施は移住政治を二元化することであり、駄目だと反対した。
このため、全拓連は、外務省管轄下の日本海外移住振興株式会社に委託して、事業を行うこととなった。
然し、そこに至るまでの過程で、交渉に時間を空費し、移住地造成工事は、雨期に突入してから始めざるを得ないこととなった。
元来、全拓連は、調査開始からの事業資金を県信連からの借入金に依存していてので、金利の関係から、調査期間も実施期間も極力短縮し、一日も早く入植移住者の分譲金で回収してゆく方針としていたから、技術的検討が不足した。
特にグワタバラ事業は、市場条件を重視、都市近郊の使い古した荒廃地を、土地改良工事によって改善し、入植用地とすることを考えていたから、他の移住地に比し造成工事は極めて重要な意味をもっていた。
ところが、前述の技術的検討不足が禍いして、土地条件の判断とか、工事上の障害が出て、計画通り事が運ばなくなった。
一方、グワダパラに出資した山形、茨城、長野、岡山、島根、山口、佐賀の各県からの移住者送出も計画通り進まず、一時的に遊休地対策とした、現地入植の促進、全拓連による農場経営等の方針が採られた。
然しこれも、根本的解決にはならず、最終的に移住事業団(日本海外移住振興株式会社が改組されたもの)は全拓連に対し、一部は現金、一部は土地で、全拓連に支払うことによって、グワタパラ事業全体を、移住事業団のプロパー事業として吸収した。
夢破れた平川さんは、移住事業団から与えられた土地で農牧会社を経営しつつ再起を計った。昭和六十年代に入って、米価問題が出て、農村に不安が広がるのを契機に、再度分村移住の必要性を提唱したが、当局から全く相手にされず、失意のうちに癌で死去した。
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