妹、多加代無事帰国。
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7月19日(月)にサンパウロに到着約2ヶ月間ブラジルに滞在した大阪に住む妹が昨夜帰国しました。NYK発が3年前の同時多発テロの起きた9月11日にあたりまた事故が起きるのではないかと心配していましたが現在の所、特別の臨時ニュースも飛び込んで来ず無事帰国するのではないかと思います。
東北伯のレシフェー、北伯のサンルイス等も含めリオ、サンパウロ、南伯ポルトアレグレを中心にパラグアイ、アルゼンチンの同船者のいる移住地を訪ねながらのイグアスの滝見学の3085kmの車の旅、娘達とヨガの教室の体験入学、岩登り、キャンプ生活等々結構日本で体験できない事を楽しんで行ったようです。本人の体験談等も楽しみにしています。帰国前日に残して行ったNIKON COOLPIX300に付いていた私への手紙と女房宛ての手紙を披露して置きます。
写真は、飛行場で撮った左から弥生、多加代、けい子、小百合の女性軍です。
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兄貴へ
色々と大変、お世話に成りまして有難うございます。
大変な出費で申し訳無く思っていますが、私にとって一生の思い出となり大変うれしく思っています。
きっと母もブラジルに来たかった事でしょうが、私が来た事で、母も一緒に色々な所を見て歩いた気分になりました。兄貴の生活ぶりを眼のあたりにして安心して母の墓前に報告が出来ます。
私達の40年への意気込み、力の入れている事が解った気がします。これからも出来る限り続けて兄貴の生き様を歴史に残してほしいと思います。日本に帰っても私に出来る事は応援したく思いますのでなんなりと云って下さいネ。
ブラジルに来て本当に良かったです。呼んで下さって感謝しています。
また、日本に帰って来て下さいネ。会える日を楽しみにお待ちしています。
お元気で身体を大切になさって下さいませ。
多加代
【追伸】感想文は、かならず送りますので少しの間、御待ちくださいませ。
お姉様へ
長い間、大変お世話になりまして有りがとうございました。
朝早くから、私の為に朝食を作って下さって日本食を美味しく頂きました。家に居る時よりもごちそうでうれしく思っています。
又、色々な所へつれて行って下さって、運転ばかりして頂きまして有りがとうございます。運転が上手で安心してグッスリと寝てばかりで、ごめんなさいネ。
おかげ様で楽しい日々、良き思い出を多数作る事が出来、一生の出来事を心に深く残っています。本当に有りがとうございました。感謝の念で一杯です。
父の事には色々とお心使いを頂いておりますが、あまりご心配はしないで下さいませ。
早くに我家を出て独立しているのだから、親の事に対しては、責任とか義務とかは無いと云われればそれ迄なのにチャント、相談に乗ってもらえてうれしく思っています。又、私自身の支えにもなっております。
兄貴よりの送金にて充分です。私に出来る事は責任を持って私がします。本当は兄貴の送金も心苦しく思っていますが何分にも年金生活に入ってしまい、どうする事も出来ずに援助をして頂いておりますのでこれ以上の事を云うとバチがあたります。遠く離れていても心配して下さって、心強く思います。本当に有りがとうございます。
機会を作って又、日本へ遊びに来て下さいませ。お待ちしております。お会い出来る日を楽しみに待っています。
お元気で御身体を大切になさって下さいませ。
多加代
以上原文のまま書き写しましたが、僚友の谷 広海君から『お前の事が余り書かれていないな!!』とのコメントを受けましたので少しばかり家族の事を紹介して置きたいと思います。
神戸で生れ育った私には昭和12年生れの兄、年弘と今回来伯した妹多加代(昭和18年生まれ)と弟成弘(昭和20年生まれ)の3人の兄弟がおり次男坊の私は何時も兄に追い着くことを強いられ、妹、弟に負けられない?典型的な次男坊魂をバックボーンに働き者の母、久子と父、枡三に育てられました。経済的には、福井県の武生市の疎開から神戸に戻った小学校2年生頃から欲しいものが手に入らないと言った苦労も味合うこともなく山手小学校、生田中学、神戸高校、早稲田ゼミナール(予備校)、早稲田大学第一政経学部政治学科と進み3年終了の1962年の4月にあるぜんちな丸第12次航に乗船、東京都の農業移住者として10万2千円の渡航費の貸付を受けて移住しました。大学が2年以上の休学を認めないとの事で1964年3月に帰国、早稲田に復学し翌1965年卒業と同時に再度ブラジルに戻りました。ゴヤス州(現在のトカンチンス州)グルピーの町で牛飼いを始めましたが2年で挫折、リオに出て石川島播磨造船所勤務1年、1968年にポルトアレグレ総領事館の現地補助員として政治、経済、移住担当の現地補助員として勤務する傍らポルトアレグレカトリック大学法学部に学び1974年末に卒業、今年で大学卒業30周年を迎えます。大学最終学年の1974年1月に丸紅ブラジル会社ポルトアレグレ出張所開設と共に現地職員としてJOINして1995年の9月末迄21年間お世話になりました。丸紅では、1978年よりポルトアレグレ出張所長、1991年よりブラジル会社役員として丸紅の海外主管者最長の17年を記録しましたが1995年10月にさわやか商会を家族を出資者として設立今日に至っています。追々各時期の歴史を書いて行きたいと思いますが、妹の手紙に触発されて父母の事を記録して置きたいと思います。
父は、93歳になっていますが未だに元気で暢気な一人暮らしで大阪の茨木に住む妹の近くにアパートを借りています。兄弟4人で親父の年金で足りない部分を養育費として出し合っています。月額300ドル相当分を負担していますが、傍に居て面倒を看てくれている妹に比べると何も出来ない歯痒さも感じます。
母は若い頃の働き過ぎから(私の記憶にあるだけでも印刷屋、桜ゴム靴販売店、久乃屋旅館、ナンバワンと言うパチンコ店、ルビーと言うバー、飲み過ぎ?で肝臓を痛めてからはパーマネント屋等を切り盛りしていた)48歳でなくなりました。私が2度目に途伯した1965年の4月には、既に病床に着いており港にも見送りに出られず自宅を出る時にはこれが見納めかと思わず涙が出ましたが『元気になったらブラジルに呼んでやる。イグアスの雄大な滝を見せてやる』と果たせぬ約束をして後ろ髪引かれる思いでの出国でしたが、果たしてその年の12月21日に逝ってしまったと聞く。心配を掛けさせない為にと母の死を通知して呉れたのは翌年の1月中旬を過ぎてからでした。それから敷居が高く日本には帰る気がせず実に19年間日本に戻る事が有りませんでした。丸紅の海外店の主管者で唯一人本社を知らないと言う特殊な事情から1984年に始めて帰国することになったのですがそれ以後は、頻繁に帰国する機会に恵まれ10数回目の帰国を昨年女房と実施しました。
一つだけ母への思い遣りの不足を悔やむのは、早稲田を卒業する時に母は、日本での会社努めを望み兄が丸紅に勤めていた事から入社試験だけでも受けて欲しいと懇願するのを『サラリーマン等する積りは全くない。ブラジルで牛飼いをするのだ』と拒絶した所、『そんなにブラジルに行きたいのであれば行っても良いが私が死んでからにして欲しい』と哀願されたがこれも拒絶、意気揚揚と移民船に乗り込んだ次第ですが、それが皮肉にも母が死んでから間がない1966年にはリオに出て石川島播磨造船所に一年間勤務、その後もポルトアレグレ総領事館勤務、丸紅ブラジル会社勤務とサラリーマン生活を送る事になろうとは誰が想像しただろうか?現地採用の悲哀を味わい、こんち気性と次男坊気質をバネに我武者羅につ走って来たブラジル人生を振り返ると母の云うことを聞き入れてブラジルに関係のある会社にでも就職し母を看とってからブラジルを目指せば良かったのかなーと母の願いを断ち切った自分への悔恨の念がよぎりますが、自ら選んだ選択であり後ろを振り向かずにつ走って来た『我が人生悔いなし』の思いがせめてもの慰めとなりました。
今回、妹多加代が思いを果たせなかった若くして逝った母の分も一緒にイグアスを始めブラジルを見て周り私の現状を垣間見、感じて呉れた事が大変嬉しく神戸の垂水にある母の墓にも報告して呉れるとの事で大変嬉しく思いました。末娘の小百合がまだけい子のお腹にいた1981年に父をイグアスに案内した時には、感じなかった充実感を多加代とイグアス見物をしながら感じたのは、矢張り母にも一緒に見せてやりたかったと言う彼女の気持が伝わって来たのかも知れない。有り難う多加代、母への鎮魂の思いが込上げて来ます。
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