消えた移住地を求めて 小笠原公衛 『人文研研究叢書』第3号
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サンパウロ人文化学研究所では、ブラジル日本移民百周年記念『人文研研究叢書』を出版しており今回掲題の【消えた移住地を求めて】が出版された。8月出聖時に人文研の年次会費だけでも支払って置きたいと思い顔を出したところこの研究叢書第3号と巡り会えた。本山省三理事長の創刊の言葉の中に【この連載ルポを一書にまとめておきたいという希望を早くより当所はもっていたが、出版費の捻出など思いかなわぬままにいたところ、この度同じ思いをもっておられたという園田昭憲氏から、経費負担なりがたい申し出があったところから、移民百周年記念叢書の一環として、これを上梓することになったものである】とあり同船者の園田昭憲さんのコロニアへの思い入れが嬉しい。尚、今回のワードへの転換は松田憲彦さんから提供頂いたソフトで自動転換した第一号です。
写真は、同書の表紙です。
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序論
『消えた移駐地を求めて』は、総合農業雑誌『アグロナッセンテ』(隔月誌)に、一九八二年一・二月号(創刊号)から一九八五年十一・十二月号まで、シリーズとして十九回にわたって連載されたものeある。(第八回農大村は、国立国会図書館の仕事で南米五カ国を史料収集にでかけたため、友人高山直己氏に執筆を依頼。また『番外編・マチユピチユの邦人』は、史料収集の成果のひとつとして旅行後にまとめた)
同シリーズは「雑誌」という性格上、「論文」より「娯楽性」を帯びた「読物風」であることけ否めない。しかしながら、読物といっても創作であってはならず、表現は強調しても誇張に走らないようつとに戒めた。また、対象とした移住地は、成立と消滅の形態においてなんらかの仮説ないしは推論を立て、それに沿って地域的あるいは類型的に選択、ないしはサンプリングとして抽出したものではない。
では、「消えた移住地」はどのようにして「求めた」か。二つの方法をとった。「聞き取り」と「文献」である。コロニア(日系社会)に精通した長老のアドバイスと、既存の出版物を史料として、その中から「これといったもの」を選び出した。言ってみればアトランダムではあるが、この作業においても大まかな視点を置いた。現地を確認できること、関係者に接触できること、の二点である。現在となんらかの接点があることによって、より詳しい内容を掘り起こし、新しい事実を探り当てる可能性があると考えたからである。さらに、興亡の過程で面白いエピソードなどがあれば尚よし、とした。いずれにしろ、編集者(雑誌社) の慧向に沿った、すなわち読者を意識したものであることに変わりはない。
さて、この場合の 「移住地」 の定義である。通常は「営農集団地」、すなわち「日本人(日系人)が農業に従事しながら年活を営んでいる集団地」(独立農、借地農を問わず)を指すが、農業に限定しないで枠を広げ、「日本人(日系人) の集団地」とした。鉱山移民の「モーロ・ヴエーリヨ金山」が入っているのはそのためである。
「移住地」の名称も気になるところである。「消えた移住地」とはいいながらタイトルのみで、ここでは「移住地」の名を冠した移住地はひとつもない。マチユピチユと金山を除いた全十七ヶ所の中で、「植民地」十ヶ所、「耕地」四ヶ所、「農場」「園」「村」がそれぞれ一ヶ所の計五通りの呼び方がある。おのおのポルトガル語のファゼンダ(耕地、農場)、コロニア(植民地)、シーチオ・シヤーカラ(園)、ヴイーラ(村)に対応させたものであろうが、厳密に日本語訳にしたがっているようには思えない。むしろ規模や内容に拘泥せず、邦人の集団地であれげ、耕地でも農場でも「植民地」で代表させているようにみえる。極端に言えば、ほとんどを同義語ととって、あとは口調や語呂、慣例など関係者の好みで命名してしまったのではないかとの印象すらある。
たとえば「農大」のつぎには、農場でも耕地でも植民地でもよさそうであるが、「村」が付いている。たしかにこの方が、「おさまり」がいい。また、「ゴム」のあとには、おなじように「園」が他のことばより語呂的にしっくりする。
「移住地」と「植民地」は、意味の上でちがいを明らかにするのは困難である。イコールといってよい。では、なぜ区別されているのか。戦前創設の集団地は「植民地」、戦後のそれが 「移住地」という一般的な傾向がうかがわれる。もうひとつの傾向として、移民自体によって開設されたものが「植民地」、政府(日本)系ともいうべき公的機関の民間の資金を集めて創設したものが「移住地」を用いている。
政府系というか、公的機関の海外興業株式会社(海興)ブラジル拓殖株式会社(ブラ拓)が創設したいわゆる五大移住地がある。イグアッペ、アリアンサ(はじめは長野・鳥取・富山各県の海外協会によって開設されたが、後にブラ拓に移管)、バストス、チエテ、トレス・パーラス(アサイ)は、イグアッペ「植民地」のほかは「移住地」である。戦後の事業団扱いも一貫して「移住地」でごく初期に創設された(一九一三年)イグアッペはむしろ例外に近い。また地域差もみられる。アマゾンは、戦前・戦後、政府系・民間を問わず、「移住地」で統一されている。その意味で、海興が戦前に開いたサンタロ−ザ「植民地」は珍しいと言わなければならない。
ことばの定義づけはこのくらいにして、番外編を除いた全十八例を一覧表にしてみた。各移住地の「成立一発展−消滅」を追ったものである。成立と消滅のうち、成立の形態については、アンドウ・ゼンパチと斉藤広志がそれぞれつぎのように分類している。
アンドウ・ゼンパチ
A政府関係の団体が建設
B移民のリー−ダーが理想植民地をめざして建設
C個人または土地会社が事業として売り出して建設
斉藤広志
A計画植民型
B任意集団型 (イ)郷土意識 (ロ)宗教 (ハ)共通体験(同航海、同一配耕地など) (ニ)縁故
C官公営移住地
ここでは先達の分類法を挙げるにとどめて、「消えた移住地」の「消えた」原因に焦点を定める。消滅の主な原因と思われるものは、次の通り。
1.外的要因
・第二次大戦−キロンボ、カカトウ、水野、バラ・マンサ、サンタ・ローザ
・耕地売却−内藤、サンタ・リッタ
・退去命令!ベルテーラ
・地権問題−セラード
・自然条件
気候不順!キロンボ
痩せ地−セラード
・交通不便−キロンボ、サント・アントニオ
・誇大広告−セラード
・作物価格暴落−サンタ・リッタ
2.内的要因
・地力低下−東京、文化
・リーダーの離反脱落一東京、文化、水野、協和
・経験未熟一山形、サント・アントニオ、モーロ・ヴエーリヨ
・資金不足−水野、山形、サント・アントニオ
・和の乱れ−文化、農大村、サンタ・リッタ
・不作、病気−農大村、バラ・マンサ
・地権問題(不在地主)一文化
外的要因としては、第二次大戦(太平洋戦争)がもっとも影響が大きい。移住地を丸呑みするほどの最大級の荒波だったことがわかる。だが、ブラジル人名義にすることでリキダソンを逃れた移住地もいくつかあるから、対処方法はあったのである。知恵と工夫、そして移住地を守ろうという意志と努力が必要だったのかもしれない。耕地の売却によって消滅した内藤耕地とサンタ・リッタ耕地は対照的である。自分たちのあずかり知らないところで取引された内藤に対し、サンタ・リッタは先行き不安とみた全員が、納得づくで売り払った。立地条件のちかいで泣かされたところもある。気候不順や痩せ地と知らされなかったりなどの自然的な要素と、誇大広告やあいまいな地権、交通不便など人為的な要素がさいごまで足を引っ張った。
これに対し内的要因は、対応いかんでは消滅の危機を克服した可能性がなきにしもあらずである。歴史に「もしも」は禁物であるが、それを承知で再検討してみたくなる。「消えていなかった」植民地と比較した場合、一層そのことが鮮明になる。リノーポリス植民地は耕作地としては恵まれなかったにもかかわらず、鉄道が近くを通過していたおかげで生産物を大消費地リオに輸送することができた。同時に、電話という通信手段があったことで市場を見定め、経済作物を確保しかつ多角農に取り組んだ結果、消滅とは縁がなかった。
また、半ば消えた状態が続いたあとで、かろうじて息を吹き返したのはリオ・フエーロ植民地である。当初の計画はことことく誤算だった。植民地内を通過する予定の国道は外れ、地味豊かと思った土地は強度の酸性土壌であった。雑作はおろか、主作物にもきわめて不適。本命のゴムだけはなんとか植えたが、これも採液に十年以上を要すると知って、不在地主のまま放置されて年月が経過した。それが十数年後、天然ゴムの需要が追い風となり脚光を浴びることになった。再生を可能にしたのは、開発から管理運営を手がけてきた土地会社の存在である。存続に意地と責任と夢をかけた、地道な経営者の努力の賜物であろう。
移住地は二千ヶ所はあったといわれる。ここに取り上げたのはわずか十八事例にすぎない。しかも、衰退の要因は錯綜してさまざまである。大方は一因のみで決定されるものではない。ましてこれをもって、他の多くの移住地の消滅原因のモデル(定型)となすには無理があろう。せめても旧時、南米ブラジルの地に離合集散した日本人(日系人)の足跡をなぞるよすがとなれば幸いである。
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