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六十一歳四カ月の願望冒険旅行ブラジル(1) 阪口多加代さんの寄稿
私は、男3人女1人の4人兄弟の次男坊ですが、大阪に住み93歳の父を傍で見て呉れている妹、阪口多加代が7月18日から9月12日まで約二ヶ月間ブラジルを訪問していました。何時も訪日時には大阪の茨木に押し掛けて大変お世話になっており定年後の時間的余裕と気力、体力のあるうちに一度ブラジルに来て貰いたいとの家族全員の願いがかなった次第です。父、兄、甥っ子、姪っ子は既にブラジルに来た事もあり若くして逝った母の分も含めて今回は皆でアテンドしようと話し合い手分けしてそれぞれの得意部門で日常生活を通じてブラジルを見聞して貰う事に勤めました。帰国後少しは落着いて来たとの事でブラジル滞在中の体験記を記憶の薄れる前に書き留めて置きたいとの事で書き始めて呉れているようです。半強制的?な寄稿ですが【群盲象を撫ぜる】ブラジルの一部を彼女なりに書き送って呉れるとの事で掲載して置きます。最後まで続くでしょうか?
写真は、本人が選んだものです。


序編
私は念願のブラジルへ行く決心をする。父、主人、娘、病弱の義妹をほっぽり出して、一人旅をする事にする。今ブラジルに行かなければ、機会を逃してしまうと思った。
一人で長時間、飛行機に乗った事が無ければ、外国語を身に付けている訳でも無い、二・三時間もすれば煙切れとなるのに本当に、地球の裏側迄行けるのかと不安を覚えるが、持ち前の度胸とノンキな性格、なんとかなる! なんとでもしなければ・・・  もしもの事を考えて亡き母の墓前にブラジルに行く事を報告する。無事帰れる様にお願いと、母と共に兄貴の生きざまを見てくる事を・・・・
七月十八日伊丹より飛行機に乗り込み、成田で乗り換えブラジルへと出発、空の人となる。暫くすると食事がでる。すかさずビールを頼んだが、煙草が吸えない事を思い出し、とまどったがビールを飲んで寝る事にした。夜明けにトイレに行きたくなるが、窓側に座っていたので、横の人が寝ているので我慢する。心の中でこれでは膀胱炎になりかねないと思って一人で苦笑する。退屈だナ・・・飛行機の中は真っ暗で周りを見ても静まり返って、旅なれない私は早まったかナと思いつつどうする事も出来ずに時間だけが過ぎていった。ヤッとニユーヨークに着く。一旦入国手続きがあったが、心配する事無くスムーズに行った。まず、煙草の吸える場所を探す。十四時間余りも辛抱していた事になるが意外と苦痛にも思わなかったが、さすがに美味しかった。いよいよサンパウロに定時刻着くが、なんと入国手続きに一時間以上かかり、なんとのんびりした国だナと第一印象である。通関も事無く無事に済み、姪っ子の弥生さんと兄貴のお友達の滝谷様が出迎えて呉れていた。生憎の雨である。少し寒さも感じた。車でホテルに行くが、その途中ジヤカランダの大樹木を発見してブラジルに来たんだナーと感無量になる。

サンパウロ編
さすが異国ブラジル大都会のサンパウロである。建物の違いはあるが、大阪、東京となんら変わらない様に思った。 がやはり良く見ると違っていた。狭い日本と広々とした異国ブラジルである。スケールの大きさが目を見張る。昼の食事にしても、日本で2〜3人前がこちらの1人前である。食べ切れるはずが無く残すがこの状況を見ていたなら、亡き母は何と思うだろうと想った。昔「残さずに食べなければ、眼が潰れるヨ」「作った人達の気持ちに感謝しなさい」と言われていた言葉を思い出して、やはり兄が日本を飛び出しブラジルへ移住した地、兄の愛した国ブラジルを自身で見たかったのだナ・・・と想った。
ホテル パロン・ルを予約してくれていていたので一服をしてから、街に出る事になる。
東洋人街のリベルダーデの界隈に在り賑やかである。
夕食を食べに出るが、ここサンパウロでは持って来たドルが使えず、お金はあれど文無しで弥生さんに頼る。日本食何でもござる、と云った所に驚く。まるで北新地を歩いてる様な錯覚を起こすが、看板を見るとサンパウロだ。
 朝起きて約束の時間迄充分有り、持て余しそうなので一人で昨夜行った所をブラブラとカメラだけを持って出掛けた。店も開いていたのでどんなのがあるのか覗いた。お土産屋さん、日本食料品屋さん、宝石屋さん、色んな物があった。食べ物は飛び切り安いが、日本食料品は日本と比べて割高の様に成っている。黙々と見て歩いた。約束の時間に帰れてホッと心をなぜ降ろす。弥生さんと一緒に地下鉄に乗り美術館に行く。ホームの広さに戸惑う、車内もゆったりとして椅子の配置も日本とは別で変わっていた。なぜだろうと思って見ていると、立っている人が優先の様に配置されているのだと、納得をする。
地下鉄を出て少し歩くと、「この辺は注意してと」弥生さんに云われて、辺りを見渡すと日本で言う浮浪者風の人々や子供がウロウロしているのが目に付き気を引き締める。美術館は吹き抜きの建物で立派なもんだ。中の展示物にも目を見張る。その中で感心したのは何年もかけて作った織物絵である。所狭しと言う感じで、何十枚もの織物が展示してあり根気の要る仕事に風土、民族を感じた。ブラジル日本移民資料館ではパネルや模型、ビデオなどを使って日本人移民の軌跡が紹介されていた。移民の人々が苦労と工夫を重ねて生み出した生活用具などが、興味深く展示されていた。兄も始めはこの様な苦労をしたのであろうと思う。
サンパウロを歩いて感じた事は、私が歩いていてもそ知らぬ顔、外人としては見て貰えないでサンパウロの日本人で通用出来ると思った。

 レシフエ/オリンダ編
サンパウロを後に飛行機に乗り込む。マイレージを使用するため普通切符が取れなかったとかで初めてのビジネスクラスでの移動でラクチンかつ快適な出だしにワクワクする。レシフエに付き、昼からツワーを組み迎えの車に乗りビーチへくりだす。
そこでバタコーに乗り河に着く。その途中の景色の美しさに眼がはなせ無くて、降りる頃には首が可笑しくなりそうだった。船頭さんが漕ぐ舟で河めぐり、河と言っても、またまたスケールの大きいまるで海のようだが、やはり河なので穏やかな流れで舟に乗っていて心地よい気分で景色を満喫出来た。島に上がれば、かにを手に乗せてくれる。又タツノオトシゴがコーヒーの瓶に入れてあるのを見せてくれた。この河で獲れた物らしい。
ポルト・デ・ガリーニャスではヨツトで珊瑚礁のプールまで行き、魚の群れを覗く。
ここで何十年振りかで海に入る。初めは気恥ずかしくて、おどおどしてたが、せつかくの
海なのにと、大胆になる。もう気恥ずかしさは吹っ飛んで、弥生さんよりハシャギだす自分で驚いたがとっても楽しく遊べた。
海岸ではサメに注意との看板が在り、この辺は本当にサメが出るのかしら?と疑問を持った。看板を後に記念写真をサメザメと取る。
夜にはホテルの前が夜店の露店が出ていて見て歩く。弥生さんが買い物をする時必ずと言って良い程に値切る交渉をしているのに感心する。さすが日本で生活をした事が在るだけにと・・・・ 思った。翌朝は市街観光バスに乗りオリンダの町並みを案内して貰う。教会があちこちに在ったり、坂道を登ったり、下ったりで結構しんどかったが、丘の上からの景色にウットリする。ココのジュースに喉をうるおしながら、時間を忘れそうになる。

 サン・ルイス編
夜中に到着しホテルを探す。タクシーでホテルに行き、兎に角寝る事にする。
目が覚めて外へ出る。あちこちに階段が急坂になっているし、道路も石畳の所ばかりで、歩き慣れない感じがする。今後の予定にと旅行会社に入り小一時間しない間に雨である。
今は雨季の為に良く雨が降るとの事だが、直ぐに止むからと、カフェで食事をしている間に本当に止んだ。ここでは毎日一回は雨に降られるが十五分位で止む。
 街並みを歩いたり、買い物をしたり、教会がさまざまな特徴を持って建ち並んでいる。
又、博物館とかもあり、見て歩くのになんと三日がかりで、まだ周り足りないぐらいだった。
夜はカーニバルが二日も見る事が出来ラッキーだった。このカーニバルの最中に私はウトウトと居眠りが出来た。自分ですごい神経の持ち主だと再認識する。でも楽しい踊りで心がワクワクして一緒に踊りたい気もしたが、足が付いていきそうもないのでやめた。
レンソイス・マラニャンセ国立公園に一泊する。ここはバスで5時間以上掛かったと思う。着いて直ぐにジープに乗り、密林地帯よろしく走り回る。景色は最高に美しくて、スリルの在る道路が延々と続く、中でも水溜りや池の中をしぶきを上げながら走る。その度に喚声を上げはしゃいだ〜 ジープを降りると景色は一転砂丘である。どこまでいっても砂丘ばかりで雄大な眺めに思わず大声を発する。砂丘を裸足で歩く事一時間以上かかったが、そこは湖、またまた美しい景色にため息が出る。ここで泳ぐ事が出来たので、水につかり、水と戯れて遊んだ。夕暮れの砂丘に見惚れる。翌日はモーターボートに乗り川くだり(?)空と砂丘と水のマッチした景色を見ながら、心地よい風に吹かれて気持ちよく時間が過ぎる。島による。海と川に挟まれてどちらでも泳ぐ事が出来るとの事で、海側に歩いたが、波が高くて、怖かったのでやめて川で泳いだ。
アルカンターラに船で渡る。朝早く起きて7:30の船でいくべしでホテルを出るが、船は7:00に出港した後で9:30まで待つ事になった。その間に朝食を取り時間潰しをする。船の中は満員で船室に座れたが、揺れが酷くて隣の子供が船酔いをした。私もそれを見て気分が悪くなったが我慢できた。もう5分も乗っていると船酔いをしただろう。帰りは甲板で景色を見ながら、風に吹かれたいと思った。船を降りて船着場でココのジュースで一服して気分転換をしてから見学をする。この町はかっては、大邸宅が在ったらしいが、今は廃墟のままの姿を残している。無数のレンガ造りの所だけが今未だ立ち並ぶ。まるで関西地震の後の如くに思え身震いがした。壮絶にも感じた。博物館が在ったりで、色々見て歩いた。ホテルも在りそこには赤い鳥が来るとの事で食事をしに行く。赤い鳥はいますか? と聞くと「さっきまで居たが、飛んでいってしまって、いまは居ない。又、飛んでくる」との事本当に居たのか怪しく思ったが、万一飛んできたらと、期待をしながら食事をしていたが、帰るまで飛んでこずに、赤い鳥はまぼろしとなって、残念だ。ここではバイクタクシーなる代物が有ったので驚くが、乗ろうか、といっていたが結局は乗らずに歩いて船着場へ戻った。途中で船が着いたよと言う合図のポーポーポッーと言う音が聞こえて、兄貴がブラジルに発つ時を想い出して、其の時母の寝床からの別れの姿も浮かんで来た。今私が母と共にブラジルに居る事をここでも感じる事が出来て嬉しかった。帰路は甲板に陣取った。なんと波が高くて、甲板迄押し寄せて服は濡れるは靴は水浸しで、それも何回も波が来る。其の度にキャーキャーと大声を発して、面白かった。冷たかった。
違うホテルに移動する。ここはブールが在るとの事で泳ぎに行くと、な〜んとサウナが在り、ブラジルでサウナとは粋な事ではないか〜 と即サウナに入り疲れを癒した。夜に食事がてら外に出て歩く。湖が在り一周すると6kmとの事で挑戦するが、暗くて、物騒な所が在り、引き返した。食事をした所が喜太郎と云う日本名の店で今頃日本の皆はどうしているかな〜と頭をかすめたが、大好きなピンガが目の前に来たのでそんな思いも吹っ飛んだ。翌日海に行き、かにを食べる。なんとかにを叩いて食べるのである。叩き方が有るのか、上手く身が取れなくて四苦八苦一時間以上掛けてやっと食べ終わる。とっても美味しかった。海の夕焼けがとっても美しくて堪能する。昨夜挫折した湖を一周して歩く。計8kmは歩いた事になる。帰って又、サウナに入り感無量、なんと気持ちが良かった事か・・・  11日間の遊び疲れを癒してポルト・アレグレに向かう。
弥生さんは子供の頃から日本に何回か遊びに来ていて、気心がしれていて、一番日本語が上手くて、頼りになり今回の楽しい旅が出来た事に感謝の気持ちで一杯です。何をするのにも、おんぶにだっこで大変だったのに、イヤな顔もせずに付き合って下さって本当に有り難うございました。






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