船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して【第五部】
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あるぜんちな丸第12次航の二等航海士をしておられた吉川誠治さんの寄稿文第五部です。今回は、大型化と専用船化の最後 *7.ガス専用船と次の項目C.船内外の変わり様*1.日本人離れが進んでいる外航船です。写真は、LNG船 【AL JASRA】111,168 G/T 13万5千立米積みの液化天然ガス積載船です。船名は、アラビア語ですが日本で日本の海運会社、三井商船、日本郵船、川崎汽船等数社の共有船です。
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LPG船は比較的早く40年前の当時から存在しており小規模なものでした。 私も20年前に”泉山丸”と言うLPG船に1年近く乗船していました。 この船は3万トン程度の積載量がありましたが、積荷はもっぱらオーストラリア大陸とタスマニア島との間のバス海峡の海底から産出されたLPGで、メルボルン近郊のウエスターン・ポートと云うところに集積されたものを、日本に運搬するための船でした。 勿論この船も冷却式のLPG船です。 プロパン・ガスと言っても−42°にも冷却した液体ですから、普通のタンカーのように直接船体に設けられたタンクに積めば船体を構成する鋼鉄が低温破壊をおこし強度が著しく低下します。
そこで低温に耐える特殊鋼で出来たタンクを船体の内部に設置し、船体とLPGタンクの間には空積を設け不活性ガスの窒素を充填して安全を保っているのです。 丁度魔法瓶のように二重構造になっているわけですが、自然に温度が上がれば輸送中も液化ガスは気化します。 その気化したガスを再度液化してタンクに戻す再液化装置が設けられています。 簡単に云えばLPG船はこのような船です。 30年近く前から日本の主要海運会社はそれぞれ数隻のLPG船を運行していましたが、LPGは日本のエネルギー源として飛躍的な需要の拡大は望めず、当時始まったばかりのLNG輸送に関心が向けられていました。
LNGの沸点(液化温度)は一段と低温です。−161.5°Cですから、まず生産地に気体から超低温の液体にする大がかりな冷却液化プラントが必要です。 船にもこれだけの超低温に耐えるタンクが必要です、航海中に蒸発気化するガスをLPG船のように再液化する装置を持つのが理想的ですが、大掛かりな装置を各々のLNG船に積載すると返って経済性を損ねます。 そこで蒸発するガスをボイラーで燃焼させて蒸気を発生させ、それでタービンを駆動し船の推進力として利用します。 それでも消化できず余って気化するガスは大気中に放出することになっています。 先に原油タンカーに限ってタービン推進船もある程度存在価値があると書きましたが、これも昔話で現在では石油タンカーは二重船穀(ダブル・ハル)(註16)化が進み、専用のバラスト(脚荷水)タンクが設けられており、毎航海タンクを洗浄する必要がなくなったので、巨大タンカーも全てディーゼル推進船になっています。 しかし、LNG船だけは、蒸発する積み荷のLNGエネルギーを燃料として消費し船を走らせる関係上、全てタービン船です。
LNGを積載するタンクは極低温にも耐えるアルミ合金で出来ています。 直径40メートル近くの球形のタンク4個〜5個をラクダの瘤のような格好で船体に載せ、甲板状に突き出た部分をカバーで覆った形のLNG船を球形タンク型(別名=Moss Rosen Berg 型)と言います。今はこのタイプのLNG船が主流ですが、船体の甲板下に箱形の内面に特殊皮膜を施したタンクを持つ、一見LPG船と同じような形をしたメンブレン(Membrane)型のLNG船も開発されており,今後このタイプのLNG船も増えることでしょう。
何しろ、積み荷は極超低温の液体ガスです、万が一この液化ガスが外部に漏れると大変なことになります。 例えば1リットルのLNGが揚げ荷最中に船側のパイプと陸側のパイプのジョイント部分から漏れ、甲板上に直接流れ落ちたとしたら、瞬時に蒸発してしまうでしょう。しかし、流れ落ちた船体部分の鋼板は瓦煎餅のように強度が劣化し金槌で叩いたら簡単に穴が空くのではないかと思います。 そのため荷役開始前に圧縮空気を通し圧力をかけてLNGがジョイントから漏れる事がないかどうか確認し、更にこのジョイント部分の下に特殊鋼で出来た受け皿を置き万一に備えます。もちろんこんな事故が起きれば火災の危険もあり、絶対におきてはならない事故です。 積み荷が直接外部に漏れ出すと云うことは大事故以上の巨大事故につながるからです。
幸運にも火災が発生することがなかったとしても、鋼板の強度が落ちた損傷部分を修理するには、現場で火気の使用は絶対に出来ません。 ドックに行って修理する以前に、積み荷であるLNGを完全に陸揚げし、船倉部分からガスを完全に除去するガス・スリーの作業が必要です。 修理後も今度は再びタンクを冷却するため、少量のLNGを積み戻さなければならないのです。 このため直接の修理費用の他、間接的に莫大な費用が必要となるのです。
そんなわけで積み荷と常時直接接触するタンクには最大限、可能な限りの安全策が施されています。 球形タンク型を採用すると積載量の割に船体が大きくなると云うデメリットがあるのですが、−161°Cもの超低温と常温との温度差によりタンクが大きく膨張・収縮します。 このためタンクの形状の歪みを最小限に押さえ、亀裂が発生しないようにするためには球形が一番良いからです。 このような理由でタンクは常時一定の温度−161°Cに保っておく必要があり、揚げ荷の際もタンクを完全に空にするのではなく、クーラントと称して少し積み荷をタンク内に残し、それによりタンクを冷却した状態のまま、積み地に向かうのです。 先に述べたように超低温と常温との温度差が発生するのは、新造直後或いは修理のためドック入りした直前直後に、積み地に向かう前に時間をかけて行うプレ・クールやドック入りする際に行うガス・フリーの時に起こることなのです。
これに反して箱形のタンクは膨張、収縮による形状の変化を避けることが難しく、これによっておきる歪みによるタンクの亀裂発生のリスクが大きいので、タンクの内面に特別な皮膜を施す等の特殊な安全策が採られています。 そんな関係で今のところ建造されるLNG船は球形タイプが圧倒的に多いのです。 実際13/4万立方メートルの積載量をもつLNG船に搭載されるタンクの直径は約38/9メートルもありますが、LNG積載時と空船時の直径の差は30センチにもなると云われています。
13/4万立方メートルのLNGが一気に蒸発し気化した場合、600倍の約8千万立方メートルものガスに爆発的に膨張します。万が一東京湾や大阪湾で、このようなLNG船が衝突事故を起こし、タンクが破られるという事故が起これば、湾内全体が火の海となる危険性があると言われています。
それ故大阪湾の場合、船舶航行が混雑する湾口から水先人が2名乗船し、前方に2隻の警戒船と先導船をつけ、大名行列並にそこのけそこのけと言うような格好で、細心の注意を払って12ノットの安全速力で入港させます。
上記のようにLNG船の大半は大型です。 14万立方メートルのLNG船の主要目を例示すれば、長さ283メートル、船幅約46メートル、深さ25.5メートル、満載喫水11メートルにもなり、特殊鋼を多く使い安全上からも特別な設備装置が必要になりますので、建造船価が非常に高価になります。 先に書きました超大型タンカーや6千個積み程度の大型コンテナー船の船価は大凡100億円以下ですが、これぐらいのLNG船の場合は大凡250億円にもなります。 これはボーイング747−400型最新のジャンボ旅客機や、カリブ海クルーズの大型客船の価格に匹敵します。 従って日本の海運会社は海難発生時の経済的リスクを分散する為、殆どのLNG船は数社で持ち分を分け合い共同で保有するのが普通です。
日本はエネルギー生産小国であると同時にエネルギー大消費国です。 従来日本のエネルギー供給の大半はペルシャ湾からの石油に依存していましたが、輸入エネルギ−資源の分散化が叫ばれ、石油以外のエネルギー資源へ転換する努力がなされてきました。 その一環として20数年前から世界各国に先駆けインドネシアから本格的な天然ガス輸入を始めました。 その結果、原子力、無公害石炭燃焼、天然ガス発電所等の増設も加わり、石油の占める割合は1973年に77.4%であったものが、98年には52.4%に減少させることに成功しました。
あまり知られていないことなのですが、LNG輸入プロジェクトが計画された頃、船の建造を日本の造船所に持ちかけたところ、世界に冠たる日本の造船所は技術上のリスクを心配し辞退したのです。 実は日本に本格的にLNGを輸送したのは、アメリカのジェネラル・ダイナミック社建造の8隻のUSA船だったのです。先日も当時から運行されている8隻のうちの1隻である”LNG TAURUS”という船に水先人として乗りましたが【LNG TAURUS ; GENERAL DYNAMIC QUINCY MASS. 1979 】という名盤が張ってあるのが目に付きました。
この輸入プロジェクトのビジネスにはアメリカは関与していなかったと記憶しているのですが、船がアメリカで建造されたという理由によるものか?USA船籍でした。 シップ・バイ・アメリカンのため、アメリカ船籍船はUSAの国籍を持つ乗組員により運行する必要があり、長い間アメリカ人のみにより運行されてきました。 しかし、最近やっとUSA国籍の乗組員経費を削減するため、船籍を「MARSHALL IS.」 に改められ、アメリカ国籍を持たない乗組員も乗船するようになりました。 こんなところでも日本はアメリカ人の雇用に貢献していたのです。
このことは如何に日本人が先進性に欠けているかを示している良い例ではないかと思います。アメリカは商船に関しては造船小国であったはずですが、そのリスクに挑戦し、日本が消費するエネルギー輸送に8隻もの日本向けの大型LNG船を日本の造船所に先駆けて建造したのです。 余計な事を書いたのは、戦後の荒廃のなか自分の人生を賭けてブラジル、始め南米諸国に渡られた皆さんの意気込みを日本に持ち帰っていただきたいと思うからですし、遅蒔きながら皆さんの勇気と挑戦に敬意を表したいからです。
日本では都市ガスやボンベで搬送されるLPGガスは全国の家庭にくまなく行き渡っており、欧米各国に比べてガスの輸入はダントツなのです。 又、工業用需要の増加こそ停滞していますが、一般家庭の電力による冷暖房は年々伸びており、電力エネルギー供給の拡大が急がれていますが、石炭はおろか石油発電所の新設も公害問題が原因でままなりません。もちろん原爆アレルギーで原子力発電所の増設も今では殆ど不可能な状態です。 そんな中大気汚染による公害がほとんど無い天然ガス発電所の新設によるエネルギー供給が頼りになっています。
現在、日本向けのLNGはインドネシアのボルネオ、スマトラ、それにボルネオのブルネイ、オーストラリア北西岸、ペルシャ湾のカタール等が主な供給地で、40隻以上の大型LNG船が運行されています。 又、近年、韓国、台湾等も本格的にLNG輸入を始めましたし、ヨーロッパ各国も最近LNG輸入に熱心に取り組みを初めました。この為日本、韓国の造船所では30隻近くの大型LNG船が建造中で、最近アメリカ、インドも商船三井が関与して建造中のLNG船による輸送契約が締結されたと報道されています。
もう一つ書いておきたいのは、戦後つねに日本郵船に後塵を拝している商船三井はLNGに関しては世界最大のキャリアであるということです。 退社して15年にもなりますが、やはり以前お世話になった会社の躍進は嬉しいものなのですね。
(註16):昔の石油タンカーは損傷を受けた場合、直ちに積み荷である原油の流出を招くような一重の船隊構造でしたが、度々の油流出事故の結果、国際海事機構の取り決めにより、船隊構造を20にしなければ、新しい石油タンカーの建造を認められなくなりました。
「あるぜんちな丸」を下船してから40年、私は商船三井の関係会社が事業化した埋立作業船としての大型土砂運搬船、押航土砂バージ、更に東京・北海道、大阪・北九州を結ぶカー・フェリーに関与した経験があり、それらの船について書けば興味を持って読んで貰えるかも知れませんが、船本体についての記述が長くなりましたので、この辺でこの40年間に起こった、船に纏わる変遷に話題を変えることに致します。
C.船内外の変わり様
*1.日本人離れが進んでいる外航船
合併により日本の主要海運会社は半減し、一定の政府補助が再開されましたが、国際競争に曝されているという厳しい状況は何ら変わりません。そこで合併数年後より膨れ上がった従業員を合理化、今で云うところのリストラが始まりました。 特に我々海上従業員に支払う船員費は国際的に見て異常に高く、国際競争力を低下させる最大の要因であると見なされ、先ず一船あたりの定員を削減することから合理化が始まりました。
集約合併以前、即ち「あるぜんちな丸」第12次航当時の一般的な定期貨物船の乗り組み定員は、士官は船長以下航海士が次席三等航海士を含め4名、機関長以下機関士が次席3等機関士を含め4名、通信士3名、事務長、事務員、船医の計16名。部員は甲板部は甲板長以下、船匠、甲板庫手、操舵手4名、甲板員6〜8名、機関部は操機手、機関庫手、操機・操缶手5〜6名、機関員4〜5名、事務部は司厨長、司厨手・員5〜6名の計約30名、総乗組員数は45名を超える大所帯でした。あるぜんちな丸の場合、これらに加えて、船客のためのケータリング要員、看護婦が加わり、総勢100名を超す乗組員が乗っていたのです。
このような多人数による船の運航を出来るだけ人員を削減し、経費節減への道を開いたのは合併前の三井船舶でした。それは世界最初の自動化船「金華山丸」の就航によるものでした。本船は三井造船が建造したものですが、我々が「あるぜんちな丸」に乗船していた丁度61年末に竣工し、62年1月ニューヨークに到着しアメリカで高い評価を受けました。
今から考えれば当然のような自動化設備を装備しただけのものでしたが、これが乗組員削減の為の口火になりました。各社とも提携造船所とタイアップし、競って船内労働の機械化自動化に取り組みはじめ、船内設備の改善が図られると共に、船内での労働も再検討の上合理的な就労体制が取り入れられ、合併後6年経過した70年頃には、早くも船長以下18名定員船が出現しました。
更に運輸省主導で某大学教授を座長にした近代化船設計委員会が発足し、どのような装備でどの程度船舶運航要員を減員できるのか、段階的に実証船を建造し実際に運航して、見極める為のプロジェクトが始まりました。 このプロジェクトの最終的目標は10名程度の乗組員で大型外航船を運航できる体制が模索することにありました。機関室に配置されていた操縦、監視、制御機器を船橋操舵室内に設け、大洋航海中は機関室内は無人で、航海士及び航海士資格を持った機関士、通信士が船橋で航海当直のかたわらエンジンの運転状況を監視することにより、航海中の当直要員の減員を図りました。
勿論その他の乗組員の削減も図られ、調理は半完成品の冷凍食品が多用され、給食もセルフサービスで、ケータリングは司厨員1名、船内事務は船長、通信士が分担し、機関長も必要な場合、機関室で機関の保守、整備作業の現場に立つという徹底した合理化案が検討されました。日本国内の主要港停泊期間中は予備船員をポートヘルパーと称する補助要員として数名乗船させ、通常の乗組員だけでは処理できない修理業務、及び事務処理業務等を日本各港間を航海中又は停泊中に行うバックアップ組織も創りました。 しかし、段階的な実証船による減員も11名が限度だったようです。それは入出港の際の係留離岸作業には相当な機械化を導入してもある程度の要員が必要で、その時の必要乗組員数が人員削減の限度となりました。 具体的には船橋に船長を含め2名、機関室に機関長を含め2名、船首・船尾の係留作業にそれぞれ3名、計10名の他は司厨員1名が残ります。それも出入港時の雑用にかり出され、食事に滞りがでる場合も多々あったようです。
以下は、11名の近代化実証船である自動車専用船に乗り組んだ船長のヨーロッパでの経験談です。『1週間〜10日と乗り続けるノースシー・パイロットのアテンドには困った。乗組員並では部屋の掃除は勿論、毎日のベッドメイクは出来ず、日曜日の昼食には船長である私自身がパイロットにインスタント冷凍食品を渡し、これで済ませてくれと頼まなければならないような始末で、乗船していたパイロットから苦情を言われた。 係船作業は時間を問題にせず、ゆっくり作業することが許されるのであれば、未だ減員の余地がある。 但し、長い航海唯一の楽しみである食事をおろそかにし、快適な船内生活を保障しないケータリング要員のむやみな減員には問題がある』と。
以上のような経過で、数年をかけた日本人のみによる少数精鋭主義の近代化船プロジェクトは、各社が自動化設備を施した実証船を造り、実際に乗組員を計画に基づき乗船させた大掛かりなものでしたが、10名近くにまで減員した日本人の給与の総額が、後述の20名規模の混乗船乗組員給与総額の2倍程度になってしまい、且つ近代化のための余分な設備投資と、日本停泊中の補完要員の派遣費用等も無視できず、近代化船プロジェクトの継続は立ち消え状態となりました。 その結果、船員費の合理化は後述の混乗船方式、更には全面的な外国人船員の雇用へと方向転換してしまったのです。
外国人船員への配乗転換は、先の日本人船員のみによる近代化船プロジェクトと平行して、合理化の一環として当初から実施されていました。それは主として部員を賃金の安い外国人船員に置き換え、日本人士官と共に乗船させる所謂混乗船方式によるものでした。最初の混乗船は部員として台湾船員を乗船させましたが、逐次5〜6名程度の日本人オフィサーの他はフィリッピン人船員を乗り組ませるものに発展し、最終的には日本人は船長、機関長の二人だけと言うのが多数を占めました。混乗が始まった当初は台湾人、韓国人が対象でありましたが、これらの国の所得水準が急速に上昇し、かつ国民感情もあるのでフィリッピン人乗り組みに急速に変わっていったのです。
フィリッピンはスペインに統治された過去もあり、戦前はアメリカの植民地でもあり、英語がまず通用します。又、ラテン系の混血も多く非常に陽気で国民感情を云々するようなこだわったプライドがありません。従って労働力として使う場合、非常に扱い易いと言われ、命じられた範囲においては忠実に働いてくれます。一方、フィリッピンの経済状態は現在も政情が安定せず、他の東南アジア諸国の経済が軒並み向上するにも拘わらす、取り残された感があり、未だに低水準にありますので、比較的低賃金で良質な人材を確保することが容易です。そんな関係で船の労働力として雇用する場合、最も適した混乗対象国民と言われています。今では日本の主要海運会社はマニラに船員訓練センターを設け、多数の優秀な乗組員の調達が出来るような仕組みも出来ています。
この傾向は、日本だけでなく、所得水準が飛躍的に伸びた台湾、韓国にも及び、世界各国の主要海運会社がフィリッピン人乗組員の雇用を競い始めた結果、戦後日本がフィリッピンからラワン材と称する南洋材を根こそぎ切って輸入し、フィリッピンの山々を丸裸にしたような現象が起こっています。ただカトリック教徒が殆どで多産国だけに、次から次へと新しい労働力が生み出されます。フィリッピン経済の一部はこれら出稼ぎ船員の送金によって支えられているのも事実で、混乗乗組員としてだけでなく、フィリッピン籍の船長以下乗り組み全員がフィリッピン人という船も確実に増えています。
又、ここ数年はフィリッピン船員だけでは充分な雇用の確保が出来ず、インド船員への転換が急速に拡大しています。しかし、インド人はプライドが高く、外国人の上司の下で働くのを潔しとしない傾向にあり、且つインド人独特の生活習慣があるので混乗方式とせず、船長以下全員をインド人とするようになっています。
混乗船に乗り組んでいる日本人の船長が同乗しているフィリッピン人のオフィサーについて『彼らは日本円で30万円以上の月給を貰っている。 これだけあれば、自国で豪邸に住み2,3人のメイドを雇って豪華な暮らしが出来る、日本人である我々上司は皆、家族が少しでも満足な生活が出来るように悪戦苦闘しているというのに』と嘆いているのを複雑な気持ちで聞いたことがあります。
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