「おいやんのブラジル便り」真砂 睦さんの【黒潮タイムズ】掲載ブラジル便り(5)
|
|
一次帰国休暇?等が入り暫らくお休みしていた「おいやんのブラジル便り」がまた始まったようです。その30以後を掲載させて頂きます。それにしても色々な話題を旨くぴたりとページに収める技術は、大したもので舌を巻きます。
先日早稲田大学の海外移住研究会のOB連中一行九名が来伯、サンパウロでの歓迎夕食会に参加しました。早稲田の海外移住研究会は、日本学生海外移住連盟の中心的メンバーとして富田博トミ(サンパウロ在住)、武藤喬(パラグアイのアスンシオン在住)、真砂睦(サンパウロ勤務中)の三代続けて連盟の委員長を勤めた連盟、早稲田の黄金時代の3人が一同に会しての歓迎会は、壮観で学生時代の懐かしい話が飛び交い皆で肩を組み高唱した【都の西北】は何時歌っても気持を高揚して呉れる歌です。そのうちに機会を見つけておいやんにブラジルに掛けた若き日の思いを語って貰いたいですね。
写真は、歓迎会夕食会で歓迎の挨拶をしているブラジル稲門会の相田祐弘会長の写真をお借りしました。
|
|
おいやんのブラジル便り」(その30) 2004年8月1日
リオデジャネイロには古書店が多い。セントロと呼ばれる旧市街には、19世紀ネオ・クラシック風の建物があちこちに残っているが、そんな石造りの風情のあるビルの片隅に、由緒ありげな錆色をした分厚い古書が、長細い書店の奥まで並べられていたりする。薄暗い書棚に積み上げられた飴色の厚い書籍から、19世紀ポルトガルの香りがほのかに漂ってくる。アフリカから「輸入」した黒人や原住民インジオを奴隷にして、大規模な砂糖プランテーションや金の採掘に血眼になるという、索漠とした植民地社会が3世紀近く続いていたブラジルに、ナポレオンに刃を突きつけられたポルトガル王室が、1万5千人もの貴族や官僚を伴ってリオに逃げてきた。36隻のポルトガル船を、「送り狼」イギリスの戦艦4隻が護衛していた。1807年のことであった。王室はリオをポルトガルの首都と定め、大陸反攻の機をうかがうことになる。イギリスはこの時の護衛の代償として、ブラジルの開港を脅し取り、ヨーロッパとの貿易を独占、ブラジルをイギリス資本の草刈場に変えてしまった。イギリスは先の18世紀に「メシュエン条約」で、本国ポルトガルからブラジル産の金をそっくり召し上げる仕組みを作っていたが、今度は植民地ブラジルの港の扉を強引にこじ開け、じかに土足でブラジル市場に入り込んで来た。イギリス製品がブラジルを席巻した。当時、奴隷までもイギリス製のズボンを着用していたと記録されている。こうしてイギリスはブラジルの富をそっくり強奪したが、しかし英連邦の自国の定住植民地と違って、ここでは文化的には多くを残さなかった。やはりこの国の基層文化を作ったのは宗主国ポルトガルである。王室がリオにとどまったのは20年に満たない間であったが、ヨーロッパの空気をじかに吸ったリオは大きく変わった。広大な未開のブラジルに初めてヨーロッパ風の町が生まれた。リオの旧市街には当時王室が設計した骨格と街並みが今に残されている。その規模こそはるかに小さいが、王宮のあった広場(プラサ・キンゼ)はリスボンのコメルシオ広場を模したものだし、リオの旧市街を望むサンタテレザの丘を歩くと、バイホ・アルトと呼ばれるリスボンの高台と錯覚する。小さな白と黒の石が敷き詰められたモザイクの歩道、白壁に赤い屋根、アラビア伝来の飾り窓が並ぶ建物は、イベリア半島西端の古い街並みと寸分違わない。ポルトガル人の食生活に無くてはならないタラ料理のレストランも店を開け、はるかヨーロッパから英国の商船が干タラとオリーブ油を運んできた。懐かしい故郷を偲び、ポルトガル人達は亜熱帯のリオにリスボンを再現しようとしたのである。そして何よりもこの国の基層をなす、肌の色の違いや異なった文化に対して寛容な性格は、ポルトガルから受け継いだ精神文化であって、アングロ・サクソン文化とは異質のものである。リオの書店に積み上げられた古書には、かつて東洋の香辛料取引を独占し巨利を持ち帰った若くて元気だった頃のポルトガルの歴史書が多い。国を捨てて植民地に逃げだすという危急存亡の時にも、下心のある英国に助けを求めるしか手立てがなかったポルトガル王室の哀しみを語る古書は多くないが、王室が残したリオの街の薄暗い古書店には、たそがれを迎えたポルトガルのかすかな残り香がただよっている。
「おいやんのブラジル便り」(その31) 2004年10月10日
今年5月、ルーラ大統領は主要閣僚7名、州知事5名、有力企業340社の代表者、随員を含めると総勢600名にも及ぶ大ミッションを引き連れて中国を訪問した。狙いは勿論「アジアの巨竜」との取引の拡大である。石油開発・燃料用アルコール・製鉄・航空機・大型バス等の生産部門での投資・合弁企業設立にとどまらず、銀行取引・航空路線の設定等サービス分野に至る大型協力協定を締結した。1970年代のブラジルの戦略パートナーであった日本には立ち寄らず、一直線に北京に飛んだ。アジアの最重要パートナーの地位が、中国にとって変わられた。30数年前のあの熱気にみちた日本とブラジルの出会いに身を置いた、かっての企業戦士には、日本が遠い国になってしまったような疎外感で寂しい思いであった。あの時代、石油と食糧で揺さぶりをかけられた日本が、資源大国ブラジルと手を結んだのは当然の帰結であったが、しかし当時原油の自給率が65パーセントであったブラジルも無傷ではすまなかった。数度にわたる原油価格の大幅値上げで、原油輸入国の対外債務が激増、世界的な金融危機がやってきた。60年代後半から「ブラジルの奇跡」とうたわれ、好調だったブラジル経済も、70年代も後半になると原油の値上がりがこたえて、借金がかさみ身動きができなくなった。1982年にメキシコがモラトリアム(債務不履行)を宣言、世界の金融市場は完全な停止状態となった。ブラジルも借金返済がいき詰まり、中銀が為替操作を集中管理せざるを得ないところまで追い詰められ、事実上「債務不履行」状態になっていった。1985年に20年以上続いた軍事政権が終わり、さしたる混乱もなく民政移管が行われたが、対外借金に加えて、インフレという難病がブラジル経済を襲った。物価や為替を凍結するという強権発動もインフレ対策の効果がなく、対外利払いの引き延ばしも焼け石に水で、1987年ブラジルはついに「モラトリアム宣言」に追い込まれた。ブラジルに大金を貸し込んでいた銀行は勿論だが、長期の事業に投資をしていた企業は大打撃を被った。投資金の回収が出来ないばかりか、インフレに伴う為替切り下げのせいで、円で投資勘定に残されている資産が大幅に目減りする。本国の親会社は目減り分を経理上損失処理をせねばならず、頭を抱えた。80年代の10年間程の間に、インフレに追いつく為のデノミによって、ブラジル通貨からゼロが6つ無くなった。深手を負った多くの日本企業が、潮が引くようにブラジルから引揚げていった。企業が引揚げた「夢の後」をさして、日伯の「空白の80年代」と呼ばれた。90年代の日本のバブル崩壊の影響もあって、自動車等限られた分野を除いて、今日に至るまで日本からの企業の進出は途絶えている。ブラジル贔屓の日本の派遣社員達は、難局を切り抜けようと頑張った。苦労の末、ブラジルから帰国した社員達の多くは、本社の窓際に追いやられ、静かに激しかった80年代の戦いに思いを馳せている。東京を飛び越して北京に飛んだブラジルの指導者達は、熱い心をもったかっての日本の戦友達の行く末を知るよしもない。昨年のブラジルと中国との貿易額が67億ドル、日本の44億ドルを大きく上回った。10億の民の食糧資源の確保が中国の究極の狙い。日本と真っ向から競合する。厄介な相手が現れた。
「おいやんのブラジル便り」(その32) 2004年10月17日
春を迎えたブラジルで今、ジャカランダが満開である。カラッとした気候を好むジャカランダは、標高800メートルの高原都市サンパウロでは街のあちこちで大木となり、せわしげな人々の日常に癒しを与えている。明暗のグラデーションが柔らかな曇り日に、下からみあげると、透き通るような薄紫の花はえもいわれぬ風情があり、心にしみとおる。以前、オーストラリアに行った時、かの地のクイーンズランド州が「ジャカランダ・カントリー」と言われていると聞いた。あちらでもジャカランダが満開になるらしい。しかし、このジャカランダはブラジルが原産である。どういう経緯かは知らないが、ブラジルからオーストラリアに流れた。ブラジルからオーストラリアに渡った植物はまだある。牧草である。しかしこの牧草は流れたのではなく、盗まれた。ブラジル東北の内陸部はカラカラの乾燥地帯である。緑滴るブラジルもこの地方だけは水がない。水は乏しいがこの地にも牛や山羊の餌となる乾燥に強い牧草があった。1970年代の後半であったと思うが、「水に乏しいオーストラリアが牛や羊を育て、輸出までしているが、それはブラジル東北地方から盗み出した牧草のおかげである。しかもその牧草自体も輸出しており、こともあろうに豪州産の牧草とうたってブラジルまで売り込みに来た」という東北地方の農学者達の談話がリオの有力紙に載せられ、その道の有識者の神経を逆なでしたことがある。イギリスは200年以上も前に「植物は武器である」と喝破し、ロンドンのキュー植物園を扇の要として、大英帝国の所領にくまなく植物園ネットワークを張り巡らし、植物の専門家をスパイもどきに世界の隅々まで送り込み、盗み取った植物をそれらの植物園で品種改良をやらせていた。他国に先駆けて経済植物を育て、世界を牛耳るためである。こんな連中にかかったら、ろくに字も読めない田舎者が多い東北伯から牧草を失敬することなど、赤子の手をひねるようなものであったろう。大英帝国の大領地であったオーストラリアには、勿論シドニー・メルボルン、ブリスベーンの3大都市に戦略植物園が整っていた。ブラジルの乾燥地帯から盗み取った牧草がこれらの植物園で改良され、乾燥大陸オーストラリアは畜産大国となった。ブラジル原産の牧草のおかげで、長年にわたり牛肉や羊肉の世界最大の輸出国となっていた。ブラジルは鈍牛である。競争相手から、盗み取られた商品を逆に売り込みをかけられても、悔しがりはしても反撃の手立てがとれない。緑の黄金となる筈の貴重な牧草を生んだ東北伯の内陸部の住民は、水気のない大地になす術を知らず、相変わらず極貧の生活から抜け出せない。ブラジルのかつての宗主国ポルトガルも、イギリスには散々してやられたが、その昔占拠していたゴアを経由して、インドのコブ牛を亜熱帯のブラジルに持ち込んだ。牧草の改良では後手をふんだが、そのかわりポルトガル人がこの地の気候に適した牛を持ち込んだ。コブ牛の子孫は繁栄した。牛の数がブラジルの人口1億2千万を越した。食糧不足で牛の値段が上るなら、水に不自由のないブラジルは、まだいくらでも牛の数を増やせる余力を持っている。昨年、ブラジルの牛肉の輸出量がオーストラリアを抜いて世界一になった。鈍牛が一歩前に抜け出した。ブラジルは鈍牛だが打たれ強い。
「おいやんのブラジル便り」(その33) 2004年10月25日
以前、当時の通産省傘下のある公団のブラジル駐在員から衝撃的な体験談を聞いたことがある。親元通産省の高官が公団がらみの業務の交渉で、ブラジルに来るという連絡を受け取った駐在員は緊張した。早速ブラジリアの相方となる大臣とのアポイントを取り付けた。会談がスムースに行われるよう、事前に日本側の意図するところを細かく聞き出し、大臣に報告を怠らなかった。高官の日本出発の日が近ずいた。手堅い仕事師である彼は、最後の日程の確認を秘書に命じた。秘書はブラジリアの役所とひとしきり早口で話し合っていたが、電話を切ると「セニヨール。補佐官と話しましたが、大臣が急に休暇に入ったので、今度の会談には出られないそうです。かわりに補佐官がお相手するそうです」とさらりと言ってのけた。「子供の学校の都合で、休暇を早めたと言っています」。土壇場になって、肝心要のお相手が休みを取ったらしいと分るまで暫く時間がかかった。当時まだ登り調子であった日本政府の高官が、日の丸を背負って地球の反対側までやって来る。事の重要性から、ブラジル側の相方もその方面に権限を持った大臣をご指名し、いわばトップ会談であった筈。その相手が土壇場で居なくなった!!このままでは、会談の意味がなくなる。ひとつ間違えば日伯の摩擦の種にもなりかねない。なんとか日本側にブレーキをかけなければ!!仕事師にとって不運だったのは、12時間の時差で、東京は既に高官が空港に向かう日の朝を迎えていたことだった。見切り発車以外方策がない!!目の前が真っ暗になるという事が本当にあるらしい。地球の反対側からやって来る友好国の政府高官との重要会談を投げ出し、一国の大臣がなんと休暇に入るとは!!しかも相手はその事に対して何の罪悪感も持っていないようだ。ブラジル人とは一体何者なんだ!!仕事師は補佐官相手の電話にしがみついた。「日本の高官に会ったら、とにかく先ず謝ってくれ。急病でも怪我でもいい、緊急事態発生の理由をつけて大臣が急に会談に出られなくなったと説明し、丁重に謝って欲しい。口がさけても休暇に入ったなどと口ばしらないでくれ!!」と繰り返し叫んだという。ひと騒動が去って数ヶ月も過ぎた頃であったろうか、仕事師は遠い昔を思い出すような目をして呟いた。「人生における休暇の重みが違うんだよなあ、ブラジル人と日本人では。休暇が国際会議の約束より優先するなど我々には理解し難いが、彼らには休暇は国際会議より大事らしいな。休暇を裏返せば家族との私生活ということだろうか。人生で一番大事なのは個人の生活であって、仕事ではないということかな。つまり、仕事は人生を楽しむ為の手段であって、目的ではないということか。仕事だ約束だと詰め寄っても、それより大事な私生活のためなら、さっさと切り捨てる。目的と手段が逆になるような人生は真っ平御免ということだろうな。はっきりしていて羨ましいなあ」勝手の違う異国で、目の前が真っ暗になった出来事をやり過ごした仕事師の横顔は、心なしか風格を漂わせていた。日本仕込みの価値観がひっくり返されるような人生哲学を飲み込んだせいであろうか、落ち着きを取り戻した仕事師の目は柔和であった。個人中心、人間優先のブラジル社会は効率が良いとは言い難い。しかし、だからこそブラジルは住むには心地が良い。
「おいやんのブラジル便り」(その34) 2004年10月31日
ブラジルは土地が不足している。日本の23倍の国土があり、しかもその大部分が農地や牧場に利用可能な比較的平坦な地形のブラジルで、農地が不足している。土地がないからではない。土地は有り余っている。しかし無数の土地無し農民が居る。みんなにまわってこないのは、大地主達が広大な土地を押えているからである。和歌山県程度の面積の土地持ちはざらで、なかには九州ほどの所領を持つ大地主も居るそうな。1980年のセンサスによれば、1万ヘクタール以上の農地を持っている大地主は農家数の0.9%にも満たないが、この0.9%が農地総面積の実に44%を占有しているというのである。さすがのビッグ・カントリーもこれだけ大きく手をつけられると多くは残らない。うんざりするほど広いブラジルだが、土地が「社会的に」不足しているのである。今日でも一千万人を越す土地無し農民が、食わんがために農奴のような辛い労働を強いられているという。こうした社会情勢を利用して、土地無し農民と称する連中が大農場に侵入し、掘っ立て小屋を建てて占拠する行動に出る。「土地よこせ運動」とでも言おうか、新聞紙上を賑わすことがあるが、これらの動きは左翼の政治的煽動である事が多い。占拠している連中の身元を洗うと、企業の下級勤め人であったり、小さな簡易食堂の親父であったりする。占拠した土地をてこにして、政府に農地改革を訴えているのだが、はたしてどこまで真面目な運動をしているのか疑問が残る。しかし新聞種にはならないが、この国の農村部ではもっと切羽詰った個人レベルの土地争いが繰り返されている。ブラジル民法に従えば、5年間住んで税金も納めれば、住んでいる土地が自分の物になる。ここから軋轢が発生する。ある日突然見知らぬ連中が現れ、農地の一画を柵で囲み、中に掘っ立て小屋を建て、そこに住みつく。驚いた地主は立ち退きを迫るが、相手はピストルをちらつかせててこでも動かない。そのうちに土地は侵入者のものとなってしまう。こうした侵入者達に、日本の戦後移民が苦労させられた。地主がブラジル人だと話は早い。自分の領地が侵入されたと知ると、武装した殺し屋もどきの一群を雇い、直ちに追い出す。抵抗すれば無論遠慮なく射殺する。しかし日本人が地主だとこうはいかない。殺し屋を雇い、ピストルで追い散らすようなことがどうしてもできない。そこを日本人は甘いと相手に見透かされてしまい、日本人の農地が狙い打ちされる。1960年代にサンパウロ州の奥地や、当時開発前線であったパラナ州北部に入植した日本からの戦後移民は、苦労の末やっと手に入れた農地に不法侵入者が絶えず、心もとないポルトガル語で荒くれ男達と対峙しなければならない、その苦しみに耐えられず、農業を諦めた人達が多いと聞く。それまでは大農園主と奴隷しか居なかったこの国の農業社会に、小さいながら独立自営農として新しい作物や農法を持ち込み、この国に豊かな食生活を根付かせた日本人は、その優しい性質がゆえに辛苦をなめた。土地無し農民や零細農民が、農奴のような辛い生活から抜け出すには、自分の土地を持つことしかない。だから不法に占拠してでも居座る。広大なブラジルの農村で、今も命がけの土地争いがある。「農業の魔術師」日本人移民も、表には出ない辛い過去を抱えている。
「おいやんのブラジル便り」(その35) 2004年11月7日
サンパウロは東洋人街にほど近い地下鉄の出口前の路上で、ある日突然小型のガスコンロを歩道に置き、大きな中華鍋をふりふり焼そばを作る、小柄な男が現れた。勤め帰りの人々や学生達の出入りであたりは賑わっていた。その歩道のど真ん中で、野菜やソバを入れた大きな中華鍋を派手に振り回し、ジュウジュウとあたりにいい臭いをまき散らすのだから人目をひいた。その人目に臆さない立居振舞いから、男は明らかに中国人と見受けられた。ポルトガル語が殆ど話せなかったところをみると、まだこちらに来て日が浅かったようだ。言葉のわからない異国に来て、いきなり繁華な街の、しかも路上で中華鍋ひとつで商売を始めるのである。その旺盛な生活力に軽いショックを受け、その場を離れた。それから3ヶ月程も経った頃だったろうか、所用でくだんの地下鉄の駅を出ると、あの男が居た。見ると、ガスコンロが一回り大きな真新しいものに変って、派手なパラソルも立てかけている。しばらく見ないうちに、ちょっとした屋台風の仕事場になっていた。この時も若いブラジル人が数人、焼きたてを立ち食いしていた。健闘しているな、と思いながらつい立ち止まって見ていた。それから更に半年ぐらい後のことだった。例の場所を通ったが、男が見当たらない。あたりを見回したが屋台はどこにもない。結局商売は諦めたのかなと、何故かがっかりしたような気分になり、もう一度後ろを振り返ると、まぎれもないあの男が居た。地下鉄出口の筋向いに、昔ながらの古い平屋を改造した小さな商店と並んで、間口がほんの一間程の粗末な簡易食堂があったが、男はその狭いカウンターの中で忙しげに動きまわっている。ほんの4〜5脚だが小さな椅子も並べてあった。カウンターの奥で、若い東洋系の女性が食器を洗っていた。あの男の奥さんであろうか。丁度学生風のブラジル人が男に挨拶をし食堂から出て来たので、「あの食堂はあの中国人の店なのか?中国料理を食べさせるのか?」ととっさに聞くと、「中国人は美味い焼ソバを出すよ」とうなずいた。どうやらあの中国人はしばらくお目にかからない間に、小さいながら食堂のオーナーになったらしい。ろくに言葉もできないのに、大都会サンパウロの路上で中華鍋ひとつで始めた焼ソバ商売を足場に、れっきとした大衆レストランを手に入れたということか。その間一年もたっていない。あっぱれである。時の権力者の懐に入り込み、巨額の支援金と引換えに、もっと巨額の権益を握り返して、一国の経済を影で牛耳っている東南アジアの古手の中国人とは違って、さすがの華僑も南米ブラジルでは今のところ国を動かすほどの政治力はない。しかし大金を動かす大物も時にちらりと世間に顔を出すことがある。大抵は密輸で警察に挙げられてはじめて大物ぶりが表に出る。警察に目をつけられるほどの大物になるまでは、蟻のように働いて固く稼ぎ、一歩一歩より大きな商売に手を伸ばしていく。若い中華鍋の男は素手で勝負を挑み、短いあいだに食堂のあるじになった。来年あたりは東洋人街の一画で、税金の網をかいくぐって仕入れた中国製の安手の雑貨を売る店でも開いているかも知れない。ひとつやり遂げるとまたひとつと、次の金儲けに賭けていく華僑の人生哲学は、ここブラジルでもみじんも揺らいでいない。華僑は若くてたくましい。
「おいやんのブラジル便り」(その36) 2004年11月20日
「ブラジルは夜発展する。政治家が眠っている間に」という有名なことわざがある。東洋の島国でも政治家というのは必要悪であると思いたくなることがあるが、ブラジルに政治家が居なければ、この国はとっくの昔に合衆国と肩を並べる豊かな大国になっていたと言うのである。理由はある。政治家が公金を思いのままに食ってしまうからである。真面目な納税者から言えば、政治家は居ないほうが良い。ところが立場を変えれば、政治家ほどぼろい商売はないのである。この国の汚職は根が深い。汚職や収賄はあらゆる分野にはびこっている。みんなが賄賂を期待しているので、人々は汚職にしごく寛大である。汚職に対して罪の意識が低いどころか、むしろ社会生活上の潤滑油となっている側面もある。政治はその汚職の華やかな檜舞台である。政治家はあらゆる手をあみだして公金を盗む。自分の一族の名前を使い名義だけの会社を作り、ありもしない仕事の対価として契約金を払うというのは、ごく一般の民間商売でもよく使われる手だが、まぼろしの職員名簿をでっちあげ毎月多額の給与を振り込んだり、あらかじめ安い土地を買い占めておいて、そこに道路や公共施設を誘導して地価の値上がり益を頂戴したり、身内の人間に外国からの巨額な借款の取り纏め役をやらせ、10%ものコミッションを流したり、多彩な手口で公金を横領する。勿論、公金横領の一方で、下心のある事業家や商売人からの持ちかけで、さまざまな口利きに対するリベートをぶん取るのは洋の東西を問わない。このように政治家がいともやすやすと公金横領をやってのけられるのは、安定した官僚層が不在であることにも原因がある。州知事や市長が代わると、自分の息のかかった一族郎党を役所に引っ張り込み、スタッフをすべて入れ代えてしまうため、プロの官僚が育たない。要職に息のかかった取り巻きを配置するので、親分は思うままに役所を動かす事ができる。子分達は応分の分け前が与えられるので、公金をいかに上手にまきあげるかという一点で、心は一つにまとまるのである。加えて、裁判官や検事といった司法の上層部とも気心が通じているので、仕事が一層はかどる。最近では元サンパウロ州知事が現役時代に横領したとみられる4億ドルの灰色資金を、海外の秘密預金口座に流したとして検察に追っかけられているが、しかしこうした表に出るスキャンダルは氷山の一角である。よしんば表に出ても、ひとかどの大物なら、いよいよ追い詰められると司法の実力者に手をまわし「決定的な打撃とならない無難なところで折れ合う」という、ご当地流の平和的な解決が計られるのが通例である。こうして代々政治家とその一族達の蓄財の道具として利用されてきた国や州の財政は、身動きができない程の赤字を抱え込んでいる。政治家の人気取りのために、資金手当ての目途もなしに無理な事業を強行するのは日本も大差がないが、官僚層と司法がしっかりしている日本では、公金横領はこの国ほど簡単にはいかない。この国では億のつくような公金横領が日常的に繰り返されている一方で、一家族月当り1万円にも満たない最低給与で生きていかなければならない家族が30%は居る。ブラジルは羨ましいほど豊かな大国だが、哀しいほど貧しい国民が多い。それでもブラジル人は汚職に対して寛大である。
|
|