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「おいやんのブラジル便り」真砂 睦さんの【黒潮タイムズ】掲載ブラジル便り(6)
真砂 睦さんの「おいやんのブラジル便り」第37回に突入です。今回は2度に渡る地球規模の淡水資源から解き起こしその資源の枯渇とそれを救う南米特にブラジルの特異性と世界の食糧基地としての重要性を説きいち早くその重要性を悟り将来への布石を打っている隣国の大男中国の先見の明と気付かぬまでももたもたしている日本を対比、警鐘を叩く。何事にも真剣に取り組み問題を提起それを掘り下げ解決への道を示す真砂さんのブラジル便りは、シニアーボランチアとしてブラジル滞在中に書き残す記念碑として益々力が入って来ているようでこの寄稿集での楽しみの一つに育って来ております。
今後の真砂さんの健筆は、何所に切り込んで行くのか注目して行きたいと思います。読後感として荒木昭次郎さんからは、『今日の真砂睦さんの「おいやんのブラジル便り」37と38を大変興味深く拝読しました。以前新聞などの報道では、彼の大男はブラジル国内の鉄道敷設の援助も垂オ出たとの事で、真意を解しかけていました。近い将来真砂さんが書かれたようになると私も思います。』とのコメントが届いています。
写真は、早稲田の仲間とのカイピリニアの杯を交わし酩酊気味の一枚です。


「おいやんのブラジル便り」(その37)        2004年12月6日
国土交通省の統計によれば、地球上の水の97.5%が海水、残りの2.5%が淡水だが、そのうち1.76%が氷河で、淡水資源として使えるのはわずか0.74%にすぎないという。その淡水資源の0.73%が地下水、河川などの地浮フ淡水は0.01%だということである。一方淡水の需要面で見れば、農業用水が62%を占める。農業は大量の水を吸い上げるのである。だから増え続ける人間の食糧を生産するには、地浮流れる水だけでは足りない。地下水を汲み上げることでやっと食いぶちを作り出している。その命の綱である淡水源が枯渇しはじめた。中国第2の大河「黄河」が干上がった。中国北部の農業地帯が砂漠化の危機を迎えている。地下水の過剰汲み上げが主因である。食糧の大半を海外に依存する日本にとって深刻なのは、「世界のパン籠」アメリカ中西部のグレート・プレーンズの地下水が激減していることである。ロッキー山脈東部に広がる広大な地下水脈、「オガララ滞水層」。ここから汲み上げる大量の水のおかげで、中西部はトウモロコシ・小麦・大豆・落花生・綿花、それに畜肉の世界最大の供給基地となっている。その地下水が枯れはじめた。地下水の過剰汲み上げによって地下水位が下がり、深い井戸を掘るコストに耐え切れず、農業を放棄する農民が増えているという。ここの地下水が枯渇すると、もともと雨の少ない中西部なので、農業が立ち消えてしまう。一方、砂漠化が目につきはじめた華北を抱える中国は、豊かになった結果として高蛋白食品への需要傾斜が急で、穀物・畜肉の巨大な輸入国になろうとしている。「世界のパン籠」アメリカ中西部の地下水が枯れ、アメリカの食糧供給力が萎えてしまうと、一体誰が中国という大男の胃袋を満たすことができるのか。勿論、穀物や畜肉の需給が緊張し、値段が上がると生産が刺激され、確かに一定の供給量も増えるであろう。オーストラリア・カナダ・ニュージーランドのアングロサクャ嶋皷ニは、食糧供給元として頼もしい助っ人である。しかし、もともとが乾燥大陸である豪州や寒冷地帯が大半のカナダでは、生産を増やすにも限度があろう。増え続ける食糧需要をまえにして、グレート・プレーンズの食糧生産の衰退を全て補うことはできまい。日本は他でもないこの「オガララ滞水層」から汲み上げた地下水で生産された食糧に、命を預けているのである。この水で育てられたトウモロコシから作られた飼料、大豆油とその絞り粕を原料とする飼料、それらの飼料で育てられた牛や豚、米に次ぐ主要穀物である小麦。全てはここの地下水が育てた。日本がアメリカに依存しているのはコンピューターのャtトだけではない。グレート・プレーンズの地下水が枯れると、日本の人間も牛や鶏も養殖魚も、餓死の危機に陥る。日本はこれまで札束を切って大量の食糧を買いあさってきた。しかし穀倉地帯の地下水は金では買えない。困ったことになった。しかもすぐ背後で、激しい息使いで追い上げてくる大男の気配がする。中国だ。すぐ隣に住むこの大男は喉が渇き、腹をすかし始めた。ごく近い将来に日本は大男と食糧の取り合いをしなければならなくなる。一体どこに充分な食糧があるというのだ。食糧を増産できる水がどこにあるのだ。しかしこの大男、どうやら水のありかを嗅ぎつけているらしい。(次号に続く)

「おいやんのブラジル便り」(その38)        2004年12月10日
(前号から続く)
南米大陸はアンデス山脈の東側、ブラジルの中西部と南部、パラグアイ全土、アルゼンチン北部、それにウルグアイにかけて広大な地下水脈が横たわっている。ここに貯められている淡水の量は文句無く世界最大、とてつもない規模の滞水層である。ポルトガル人とスペイン人が侵入するまで、この地に住んでいた原住民インヂィオの主要部族の名をとって、「グアラ二」地下水脈と呼ばれる。この水脈のほぼ60%はブラジル領にある。「グアラ二水脈」に重なる地浮ノは、大豆・小麦・トウモロコシ・砂糖きび・綿花といった作物が延々と栽培されている。広大な牧場もある。つい40年程前まではうっそうとした原生林で覆われていた地域が多くを占めており、まだ若い穀倉地帯である。そしてこの地下水はまだ殆ど手付かずの状態にあり、巨大な水がめにはあふれるほどの水がたたえられている。ラプラタ河に至る多くの支流が豊かな水量を保っているうえに降雨量も多いので、これまで作物を作るのに地下水を汲み上げる必要がなかったからである。世界の穀倉地帯のあちこちで地下水の枯渇が進んでいる中で、「グアラニ水脈」の豊かさがひときわ目立つ。ここには食糧増産のために、必要とあらばいつでも汲み上げることができる膨大な量の水が溜められている。その水の臭いを嗅ぎつけた穀物メジャーが、密かに南の国のプランテーションに手を伸ばしてきた。穀物の種と肥料と作付け資金をセットで供給し、見返りに生産された穀物を受け取る。生産物を貯蔵するためのサイロも提供する。農業生産者抱え込みのための伝統的な攻め方である。圧倒的な資金力と販売力をもつメジャーの攻撃に今、ブラジル中西部の中小の農業組合が苦戦を強いられている。かつて南米最大を誇った日系のコチア産業組合が倒産した後に残されたサイロを借用し、生産者のメジャーへの寝返りを阻止しようと奮闘している日系の農協もある。日系農民は優秀な生産者である。その日系農民の多くを抱える日系の農協には生き残ってもらいたい。しかし生き残りをかけたメジャーとの戦いは嵐fをゆるさない。そんな時も時、アジアから来た大男がのっそりとブラジルの穀倉地帯に現れた。大男も水の臭いをかぎつけてやって来た。中国人である。中国の北半分で水が枯れ、農業生産が壊滅する恐れがでてきたうえに、多すぎる国民の食生活の向上で、ごく近い将来に恐ろしい程の量の穀物や肉類をかき集めて母国に持ち帰らなければならなくなる事を、大男は良く知っている。持前の鋭い商売感覚で、もうすぐ食糧戦争の主戦場になるであろう南米の心臓部で生産者と流通業者の勢力関係がどうなっているのか、大量の穀物をいかに安く買い叩けるか、そのためのつけいるべき弱味がどこにあるのか、はるか地球の反対側まで運ぶための輸送コストの削減はできるのか、そんなことを胸に秘めて大男は精力的に動き始めたように見える。既に大豆の初輸入も行った。そしてお隣の日本。食糧自給率40%。これは世界でもずば抜けて低い。にもかかわらず日本はまだ「グアラ二水脈」の本当の意味を理解していない。ブラジルやパラグアイには、日系人が農業の中枢に根をはっている。日本とは気心が通じ合える仲の筈。それでも日本は動かない。今もテレビでは脳天気なグルメ番組が全盛である。戦争がすでに始まっているというのに。

「おいやんのブラジル便り」(その39)          2005年1月2日
昨年末に、ブラジルを離れて10日間程国外旅行をしてきた。一週間もしないうちに食事で困った。3日目から野菜不足が気になりだし、5日目からパンが喉を通らなくなった。野菜や果物がないのは我慢するとして、米がないのがこたえた。日本レストランもあったのだが、貧乏旅行者の身でとても暖簾をくぐる勇気がなかった。ブラジルに帰って米のご飯を食べたい、とばかり考えていた。瑞穂の国に育った私には、米がないとつらい。旅先であったが、「米さえあれば力がでる、美味しい日本米を食べたい」、そんな切羽つまった望みが戦前の初期移民を米作りにかりたてたに違いない、とはるか昔に思いを馳せた。
ブラジルへの日本人移住はサンパウロ州のコーヒー農場の契約労務者として、1908年(明治41年)「かさと丸」で始まった。しかし先のない過酷なコーヒー農場の労働に見切りをつけた移住者の多くは農場を抜け出し、政府系や民間の殖民会社が始めた集団植民地の未開の分譲地を買い求め、独立自作農を目指して原生林の開墾に挑んでいった。一人や二人では抱えきれない大木が林立する原始林の開墾である。それは緑の地獄であったに違いない。住居の設営はおろか、その日に食べる食糧や水も自力で確保せねばならない。「米さえあれば力がでる。先ずなんとしても主食の米を作らねば」。開拓者達の共通の思いであった。しかしブラジルにも陸稲はあった。粘り気がなくパサパサなのだが、初期移民には大きな救いであった。水田でなくとも米が実るので、当座の食いつなぎができた。それでも日本人である。やはり美味しい日本米が食べたい。米を作るための水を探さなければ。そんな切羽つまった思いで多くの開拓者達は水稲の栽培に適すると思われる湿地帯を目指して低地に入り込んでいった。しかし日本人達にはマラリアという伝染病の知識がなかった。淀んだ湿地帯はマラリアを媒介する蚊の巣窟である。原住民は近づかない。たちまちマラリアが日本人達を襲った。食うや食わずで栄養状態の悪かった開拓者達はひとたまりもなかった。「母国のふっくらとした米の飯を食べたい」。声にならない思いを抱いて、多くの開拓者達が死んでいった。民間人移民指導者、平野運平が開いた「平野植民地」では、入植一年後の1916年の一年間だけで80名近い入植者が死亡したという悲惨な記録が残されている。淀んだ湿地帯は危ない。数え切れない程の犠牲者と引き換えに、移住者達は開拓前線の厳しい自然の掟を学んでいった。やがてマラリア蚊が発生しない流水管理を会得した開拓者達は、あちらこちらに水田の適地を探し出し、水稲作りを広げていった。そして、原生林の開墾と格闘を始めた時代から、もう90年近くになる。今やサンパウロ州奥地はおろか、ブラジルの平坦地から原生林はすっかり消え、マラリアの発生源もあらかた無くなった。あの時代の初期開拓移民、その後に入植した日本人や、その子や孫達の努力でこの国に日本米が根付き、今では多くの銘柄がスーパーに並べられている。母国の品質に負けないコシヒカリを作る日本人も居る。美味しい日本米を作りたいと、湿地帯に入り込みマラリアの犠牲になった初期移民の果たせなかった夢が現実となった。今はない「平野植民地」に眠るマラリア犠牲者の霊は、浄土真宗の門徒によって守られているそうな。

「おいやんのブラジル便り」(その40)       2005年1月16日
ブラジル経済に活気がでてきた。ここ3年間1%前後の低い経済成長率であったが、昨2004年は5%を越す成長が確実と報じられている。農業と自動車が景気を引っ張った。その波及で製鉄がフル操業だし、鉱業分野も好調である。懸念されたインフレも目標の8%を下回る7.6%に押さえ込んだ。農産物・食糧・鉱産物・鉄鋼製品・飛行機・自動車等の輸出が好調で、貿易収支も大幅な黒字である。かつてこの国が苦しんだ1980年代末から90年代前半にかけての凄まじいインフレの惨状を思うと、別世界のような静かな年を迎えた。ブラジルは、第一次大戦後のドイツが被った破壊的なインフレに劣らない程の凄まじい経済混乱を体験している。1989年から1994年のあいだ、5年にもわたって年率1,100%を越すハイパー・インフレの嵐がふき荒れた。1993年にはなんと2,490%という未送Lの惨状を呈した。一度燃え上がったインフレを消し止めるのは容易なことではない。生半可な金融操作ではどうにもならず、果ては国が直接末端の商品価格を統制するという強権発動までやったが、末端の物価を統制するというのは、生産・流通に遡って物資やサービスの価格をすべからく統制しなければ成り立たないわけで、どだい無理な話である。この強権発動は長続きしなかった。相変わらずスーパーの日用品の値札が毎週どんどん書換えられるので、勤め人は月給では暮らしていけなかった。せめて週に一度は給与をもらわないと物価の上昇についていけないのである。給料を手にするとすぐさまスーパーに走り品物に換える、それでも給与の目減りを止められなかった。将来の生活設計など考える余裕がない。そのような刹那の生活が続くと、物への執着ばかりが強くなり、人間の心まで荒んでくる。インフレは人の精神も破壊するのである。ところが資産家にはインフレは悪くない。黙っていても資産の価値が増えるし、換金をしたいなら、べらぼうな値をつけても、先にはもっと値が上がるだろうと見込んで思惑買いを企む輩が横行し、資産は容易に買い手がつく。儲けた資金は得意の技で法律をかいくぐり、強いドルに換金してニューヨークやチューリッヒのドル口座に移せば良い。「持てる者」にとって、インフレは資産を増やす絶好の機会なのである。国の政治を司る大統領や連邦議員には、相当な資産家が多い。インフレで資産を増やしている人々である。だから本気でインフレ駆除に政治生命をかけようという指導者が現れない。インフレで泣くのはひとり「持たざる者」である。「持たざる人々」には国の政治を動かす力がない。そうした生活に窮した行き場のない人々が、町のスーパーや商店に押し入り、生活必需品を強奪するという事態があちこちで発生した。早く手をうたないと、より大規模な組織化された俣ョがいつ起っても不思議ではない状況まできていた。事態を収拾するには、インフレを叩くと同時に貧しい人々の実質所得を引き上げるという、二律背反の難しい舵取りが必要であった。それも素早く。そんな切羽詰った状況のなかで、1994年国際的に著名な社会学者であるカルドーゾ氏が、国の存亡をかけたインフレとの戦いを訴え、国民の直接投票で大統領に選ばれた。新大統領は私利も私欲もなかった。真っ向から病根に立ち向かっていった。(次号に続く)

「おいやんのブラジル便り」(その41)     2005年1月22日
(前号から続く)
カルドーゾ博士は、ブラジル史上初めて本気でインフレを押さえ込もうとした大統領である。インフレに水をかけるには、金融と財政の両面で徹底的に経済を締め上げなければならないので、議会はおろか、国民の猛反発が返ってくる。インフレを餌に一儲けを企むような私欲旺盛な政治屋にはできない仕事である。博士は孤独で危険な戦いにひるまなかった。議会での足場固めに保守系の政党と手を組み、一方では外債の取入れに融通をきかせてもらう含みで、国際的な資金供給の胴元であるIMF(国際通貨基金)の支援も取り付け、兵站部も味方に取り込んだ。なかなかの政治手腕である。私利も私欲もない大統領は、抵抗勢力の妨害をはねのけ、執拗に金融と財政を絞り込んでいった。1994年、大統領就任時の年間インフレ率1,173%が、一年後には23%と劇的に下がった。以後10%、5%と鎮静し、今日に至るまで10%を越した年はない。ブラジルは救われた。カルドーゾ博士は大統領を2期勤めあげ、再び静かな学究生活に戻られた。こうしてこの国は健康を取り戻したが、人々はインフレがもたらす物心両面の荒廃の恐ろしさを忘れることができない。ここで手を緩め、インフレがぶり返し、またあの狂乱の時代に逆戻りさせてはならない。そんな思いで大方の指導者達は物価の動向に神経をとがらせている。公定歩合にあたる基礎金利が年間17.5%と、おそろしく高く設定されているのは、あの悪夢のようなインフレの再発を蘭hするためである。当然金融コストがべらぼうに高くつく。超優良企業でも、年間18%もの金利を払わないと銀行の金を引き出せない。なみの企業では、年50%を越す金利を押し付けられるという。こんな高利の金を使って成り立つような事業をあみだすのはたやすくないので、企業は銀行から金を借りない。民間の借り手が居ないので、銀行はもっぱら政府への金貸しに徹している。18%もの金利が保証されているので、銀行は儲かる。その相方の政府といえば、かつての狂乱の時代からみれば改善したのだろうが、それでも国家落Zの30%以上が銀行への元本と金利の支払いに消えている。ちなみに日本は、国家落Zの40%以上も国債の償還と利払いに食われていると聞いたことがあるが、それが正しければ、日本にくらべればこちらはまだ健全財政と言えそうである。しかしブラジル政府は長期の国債を発行できない。ブラジル人は国を信用しないので、国債の買い手がつかないからである。だからやむなく政府は銀行から超短期の借金をしながら食いつないでいる。基礎金利をべらぼうに高く設定しているというのも、インフレの蘭hという賦ナ板の裏に、高金利という餌で銀行の資金を取り込まないとまわっていかないお国の台所事情もあるようだ。とどのつまりこの国のお金は、銀行と政府の間をぐるぐるまわるだけで、さっぱり民間の企業や個人に還流されてこない。金融と、もう一方の財政の方もとても散在できる状態ではなく、国の金庫はなかなか開かない。そのようなわけで、目下のところこの国の経済を引っ張れるのは自前のお金を持っている企業と個人だけである。景気が上向いたといっても、これでは力のある成長はできまい。それでも金融も財政も簡単にネジを緩められないのがこの国の泣き所である。インフレの後遺症は長びく。

「おいやんのブラジル便り」(その42)       2005年1月30日
初期開拓移民の子としてブラジルの日本人植民地で生まれ、日本留学中に大戦が勃発した為、ブラジルへの帰国の途が絶たれ、日本兵として召集されたある2世の手記がある。彼は二重国籍が故に日本兵として太平洋戦線に投入された。15名余の同じ境遇の2世達が居た。明治の教育で育った親の薫陶を受け、植民地の日本人学校で教育勅語を叩き込まれた若者達である。父母の祖国日本に対して強い憧れと誇りをもっていた。彼らにとって日本は特別の国であった。しかし同時に、ブラジルは自分が生を受けた愛する祖国。戦争が始まり、消息が途絶えた親兄弟や友人達、幼年期を過した懐かしい植民地を思う時、2つの国に挟まれた2世達の心境は複雑であった。やがてその時が来た。日本生まれの出征兵士のように、郷土の親兄弟や友人達の打ち振る日の丸の旗も、万歳万歳の歓呼の声もなく、2世達の出征は静かであった。「必ず帰って来いよ」とひっそりと誓いあった若者達は、南洋へ、支那戦線へと散っていった。ブラジル東北部の港が、連合軍のアフリカ戦線への兵站基地として戦略的な重要性を持つことに目をつけていたアメリカの圧力に屈して、ブラジルはついに参戦を決意した。父母の祖国日本のために命をかけて戦っていたその2世達の祖国ブラジルが、日本の敵国になった。両親の祖国のために、自分の祖国に銃口を向けることになったのである。2世達が受けた衝撃は大きかった。やりきれない思いを胸にしまって、日本兵として必死で戦っている2世達の背後に、憲兵隊の冷たい目が追ってきた。「奴らは敵性国の国籍を持っている。注意せよ」。「何ということだ。俺達は日本を母国と思っているのだ、だから日本兵として命を賭して天皇陛下のために戦っているのだ、祖国ブラジルに銃を向けてまで!!」2世達は声にならない叫びをあげた。やがて戦いが終り、2世達は焼け野原の東京に戻ってきた。「必ず生きて帰ってこいよ」と誓い合った仲間のうち、7人が帰ってこなかった。7人は日本兵として、「母国」日本に命を捧げたのである。ほどなく、まだ戦後の混乱が続くなか、日本政府は全ての留学生の帰国を促す事を決め、帰国者には二重国籍の離脱を勧告した。戦争を挟んで激動の10数年を日本人として生きてきた2世達にも、ブラジルに帰る時がやってきた。しかしその前に日本の国籍を返上しなければならない。幼少の頃から植民地の日本人学校で日本人としての教育をうけ、自分は日本人だと信じて日本兵として命を賭して戦ってきた若者達。それは一体何のためであったのか。生まれ育った祖国ブラジルに背をむけてまで、日本兵として戦ってきた。それが、戦争が終るやいなや、胸がつぶれるような思いで銃口をむけたブラジルに早々に帰国せよ、更に帰国の前に日本の国籍を返上せよというのである。天皇陛下万歳!と叫んで死んでいった仲間の霊は、どこに帰ればいいのだろうか。若者達の祖国はどこにあるのだろうか。国交未回復のブラジルへの帰国手続きは、在京ポルトガル大使館を挟んで行われた。やがて出立の日がやってきた。2世達は正装して皇居前に集まった。「陛下、ただいま日本国籍を返上いたしました。しかし私達は日本人であります。これからも立派な日本人として生きていきます」と直立不動で報告した。昭和26年のことであったという。




 



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