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6人のおまけ旅(サンチャゴ(チリ)の巻) 黒瀬さんのHP 早稲田海外移住研OB会のページ、南米訪問団記録より。
既にブラジル稲門会関係の欄で紹介している早稲田大学海外移住研究会OBの南米訪問団一行に付いては既報の通りですが、今回6人のおまけ旅(サンチャゴ(チリ)の巻)が黒瀬 宏洋さんのHP 早稲田海外移住研OBのページ、南米訪問団記録に掲載されております。『私たちの40年!!』HPでもこれをお借りして寄稿集に紹介して置きます。
一昨年、休暇旅行で同じチリを女房と二人で訪問しておりその感想文を寄稿集にも掲載しておりますが、黒瀬さんの詳細記述には到底及ばないもので単に新しい町、新しい土地として訪問するだけでなく事前調査、実地検分とその後の記録と言った所謂書いて残す旅行記(訪問団記録)は、見事なものと感心すると共に一緒に旅行を楽しんだ皆さんの旅の記録としても沢山の写真と共に貴重な記録として残る事でしょう。黒瀬さん有難う御座います。
写真は、矢張り訪問団おまけ旅の6人とサンチャゴにお住みの山本さんご夫妻を入れた記念写真を使用させて頂きました。


6人のおまけ旅(サンチャゴ(チリ)の巻)
               Reported by 黒瀬 宏洋
               Photos by Okabe & Kurose
10/16(土)
サンパウロを飛び立ったVARIG機は、約4時間後、雲の多いアンデス山脈を越えるとすぐサンチャゴ空港への着陸体勢に入る。空港では山本が我々を出迎えてくれた。手配通り、専用バスでホテル・ニッポンに直行する。ホテルで一休み後、山本が地下鉄で中心部を案内してくれる。最寄駅
「Baquedano」(携帯電話の形をしたビルに近い)で各自320ペソ支払い切符を買う。全線一律とかで改札機に切符を投入したら切符は戻らない。駅構内、地下鉄車内とも至極清潔。四つ目の「Moneda」駅で下車。チリ独立の英雄オヒギンスの名前を冠した大通り裏の広場に出る。広場に面して大統領が執務する「Palacio de la Moneda」(モネダ宮殿。当初造幣局として建設されモネダ(=かね)の名前がつくらしい)がある。普段、モネダ宮殿の中央通路(前記大通りに通じている)は通行自由なのだが、その日はあいにく通行禁止であった。1973年、社会主義政権のアジェンデ大統領(当時)が、ピノチェット将軍のクーデターで、あえなくこの官邸で命を落としたことは記憶に新しい。ところで、帰国後の11月、APEC開催期間中、TVニュースでこのモネダ宮殿がしばしば画面に現れた。
帰りは一駅区間歩くことにした。途中、諸官庁ビル、銀行ビルの前を通過し、賑やかな歩行者天国に出た。大道芸人がパフォーマンスを演じて人だかりが出来ていた。通りのカフェでしばしトイレ休憩。「Univ de Chile」駅から地下鉄で出発駅に引き返す。
夕食は、ホテル斜向かいの日本料理屋でとる。山本も夕食に付き合ってくれた。
サンチャゴで驚いたことは、路線バス同志が先を争ってバス停の客を奪い合っている様子である。バス運行は公営ではなく、民間に運営を任せている。運営会社は、歩合制、つまり運転手の手当てを運賃の揚がりに比例する方式としている。それが、この自動車レースもどきの客争奪競争の原因になっているとか。一般車や歩行者も危険に巻き込まれ苦情が多いという。さすがに市当局も是正策を検討しているという。
10/17(日)
AM9時、ホテル出発。先ず、マポチョ川岸にある中央市場に行く。魚コーナーには、ウニ、日本の浅利に較べてずっと大型の大浅利などが並んでいた。市場内のシーフードレストランも店を開いていた。市場のすぐ西方には旧マポチョ駅の駅舎が残っていた(サンチャゴから北に向かう鉄道は廃線)。また、マポチョ川は、渇水期のため、アンデスの泥水が僅かに流れるだけであった。
次に、車は、サンチャゴ市発祥の地である中央広場に行く。広場の南東部に面して荘厳な大聖堂(Catedral Metropolitana)が建っている。広々とした内部である。広場の周りには美術館、旧国会議事堂(今、本体はValparaisoに移転済み)などの建物が立ち並んでいる。また、広場の南西の一角に、ペドロ・デ・バルディビア(1541年サンチャゴ市を建設し、初代総督になった人物)の像があった。これらは全てサンチャゴ・セントロ(旧市街)と呼ばれる三角地帯 〜 西のノルテ・スール通りが底辺に当たり、二辺が、北のマポチョ川と南のオヒギンス将軍大通り(下を地下鉄が通っている)、三角形頂点が東のBAQUEDANO広場 〜 の中に納まり、スペイン人が先住民に対する要塞を築いたサンタルシアの丘(630m)、昨日訪れたモネダ宮殿も含まれている。また、投宿したホテルも意外とセントロに近い場所にあった。
セントロを離れて、バスはサン・クリストバルの丘(863m)の展望台を目指す。日曜のせいで丘の頂上への道は歩行者たちで賑わっていた。ケーブルカーを利用する市民もいた。展望台から、今訪ねたセントロはすぐ眼下にあった。広い展望台を移動して、四方を見渡す。東にはアンデス山脈にかけてスモッグに覆われた市街地が広がっている。近代的ビルが林立する一角も見える。新市街で日本企業の出先も多いと聞いた。西にも山並みが続いている。明日訪ねるバルパライソの方角だ。この丘から眺めるとサンチャゴ(海抜 500m、人口 2002年 466万)は山に囲まれた盆地状の土地とわかる。サンチャゴ市は、チリ人口(2002年 1,550万)の約3割が集中する大都会で、排気ガスの量も多い。当然、スモッグが立ち込めることになる。このスモッグが無ければ、一層素晴らしい街となるだろうに。ところで、日本人駐在員にアンケートした住み易い世界三都市に、サンフランシスコ、シドニーと並んでこのサンチャゴが選ばれているという。3Sの一つというわけだ。
ホテルで少し休憩した後、レイナ地区にある山本邸に全員で向かった。大きな公園に近い、なかなか立派な住宅地である。敷地総面積500坪、プール付きの広い庭を持つ瀟洒な住宅である。庭の草花はアリシア夫人が主に世話している様子。地価の高い東京及びその近郊で、このような住宅を持つなど夢のまた夢。本人は謙遜するが、素晴らしい住環境で家族中心の生活を楽しんでおり、喜ばしい。孫の大夢クンはスペイン語・日本語を不自由なく話し、活発な子供に育っていた。一同、プール端のテーブルにつき、バーベキュー料理をご馳走になった。中央市場で買った大浅利も食卓に現れた。また、我々の嗜好を考え、お握り、緑茶も用意してくれた。飲み物は、Pisco Sour(ぶどう蒸留酒にレモン汁と卵白を混ぜた飲み物)、 CRYSTAL印のビールなど。学生時代や新婚時のアルバムを拝見しながら、話題は昔から今へ、チリと日本の夫婦比較などに及んだ。チリの妻が、夫の長期出張にノーを唱え、ましてや単身赴任など問題外。夫も妻が女友達と外出・旅行するのにさえ拒絶反応を示す。夫婦互いにとても焼餅焼きらしい。そして、チリ人は一般的に見栄っ張りだとか(この点日本人も変わらないのでは)。ところで、快く山本一人を我々のサンチャゴ周辺、チリ南部旅行に同行させてくれるアリシア夫人のチリ人離れ振りに、我々は大いに感謝しなければなるまい。
このようにして、たちまちサンチャゴの午後は過ぎていった。普通の観光旅行では到底味わえない、素晴らしい家庭の雰囲気を楽しませて戴いた。一同感謝・感激。
夕食は、ホテル近くのBar-Restauranteで、おぼつかないスペイン語でピザを注文し、皆で分け合った。
10/18(月)
AM9時ホテル出発。バルパライソ(サンチャゴ西方約100km)、ビーニャ・デル・マール(バルパライソ北東10km)へ山本ガイドによる日帰りツアーに出掛ける。
車は、サンチャゴ空港方面への道路を辿り、途中からR68を進む。R68はコンセッション方式で建設された高速道路であった。コンセッション方式とは、コンペで選んだ民間業者に道路を建設させ、建設費回収のためその業者に一定期間にわたって通行料金を徴収する特権を与える方式という。日本からもこの方式の研究に来たそうだ。高速道路では、銅インゴットを荷台に積み上げバルパライソ港に向かうトラックを2台ほど追い越した。標高1000m足らずの山並みが前方に横たわる。それを貫通する最初のトンネルを抜けると、がらりと様相が変わりブドウ畑など果樹園地帯が広がっている。クラカビ(Curacavi)のサービス施設でトイレ休憩。にこやかに笑いかけてくる旅行者がいた。サンパウロからサンチャゴまでの飛行機で席を隣り合わせたブラジル人夫婦であった。彼等もバルパライソへ行く途中であった。駐車場に近い草原ではリャマが数頭草を食んでいた。再び高速道路を進むと、前方にまた海岸山脈が待ち受けていた。サパタ・トンネルを抜けると、カサブランカ(Casablanca)の町。白ワインの産地として有名。ワイナリが丘の上に建っている。やがて沿道に教会が見えてくる。門前には巡礼者たちの姿がある。有名な教会で、なんでも12月8日には多くの巡礼者がサンチャゴから徒歩でお参りに来るという。
ユーカリの林が現れた。森林に囲まれたバルパライソの水源湖を過ぎた後、車はR68から分岐した左手の道に折れる。カーブした道を進むと太平洋が眼前に現れた。大きな施設があるが、刑務所とのこと。世界一景色がよい刑務所ではなかろうか。トタン葺き木造の粗末な建物の数が増えてくる。どうやらバルパライソ市街地背後の丘陵頂上近くには貧民街が張り付いているようだ。バルパライソ(人口 27万弱、2002年)の恥部とも言うべき貧民街を最初に見せつけられた格好だ。車はどんどん道を下っていく。下った先にアルティジェリア丘の展望台があった。市街地南部に位置するこの展望台からは、港、海岸線、歴史を感じる旧市街地、北から東にかけて広がる丘陵斜面に張り付く住宅地、さらに海岸線の先にあるビーニャ・デル・マーレまでもが一望できる。これぞ山本が我々に見せたかったバルパライソの風景なのだろう。展望台直ぐ横のケーブルカーで急勾配の坂を下に降りる。ケーブルカー(ここではアセンソールと呼ばれる)は、車軸に長短の脚をもつ台を取り付け、そこに木製の箱を載せた簡単なもので、市民、観光客の足として重宝されている。運賃は、下り100ペソ、上り120ペソ。下で待ち受けていた車で、店舗、銀行などが入った時代物のビルがひしめく繁華街を通る。ところどころで下町と丘を結ぶアセンソールが動いている。この辺りが世界遺産バルパライソの中心と思われる。やがて大通りに入り北に進むと、進行方向の右手に周囲と不釣合いな新しくて大きな建物が見えてきた。サンチャゴから1990年に移ってきた国会議事堂である。自宅をサンチャゴに構える多くの国会議員にすこぶる不評と聞く。国会審議を欠席する者も多いという。ところで、バルパライソは、米西部のゴールドラッシュ時代(1840年代後半〜1850年代前半)、夢を追う男たちを乗せた船が給水などで必ず立ち寄る港町(大西洋岸から太平洋岸に来る船舶は、まだパナマ運河(1914年開通)がなかったため、南米南端のホーン岬を通らざるを得なかった)として繁栄したという。今でもチリ第一の貿易港であることに変わりは無い。また、ブエノスアイレスに通ずる大陸横断道路の起点でもある。
ビーニャ・デル・マールに向かう町外れ高台に、有名なフェデリコ・サンタ・マリア大学(工科系)がある。花時計を過ぎるとビーニャ・デル・マール市(人口32万弱 バルパライソの人口を逆転している)である。硝石で巨万の富を築いた富豪たちが好んで住居や別荘を設けたといわれ、チリのみならず南米有数のリゾート地である。実際、沿道の豪華なコンドミニアム、別荘を見ると金持ちが住む街という感じを受ける。斜面を上手に活用して階段状にテラス式コンドミニアムを造っている。脇にはエレベータ代わりのアセンソールが設けられている。フンボルト海流が沖を流れる浜辺はなかなか変化に満ちていた。コンコンの方向に進むと、あるところはビーチあり、あるところには岩場でたむろするアザラシがいる、またあるところではペリカンが空を舞い、岩場で羽を休め、餌を探していた。
昼食は、そんなペリカンを眺めながら、「ラーガテイチャ(子猫チャン)」の海鮮料理に舌鼓を打った。和食党もここの料理には満足気だった。帰途、入口にモアイ像が立つ考古学博物館はあいにく閉館だったが、ラピス・ラズリ(群青)の加工品を売る店に立寄るなどして、同じR68を通りサンチャゴに引き返した。遥かかなた、高速道路通行料を倹約し、サパタ(Zapata)峠旧道を通るトラックの姿が見えた。
10/19(火)
前日同様、AM9時出発。車は、山本同行、R57をロス・アンデスに向けて進む。サンチャゴからも見えるお椀を2つ伏せた形の山の東側を通り抜け、田園地帯の中を進む。
途中、ロス・アンデスの手前にあるチャカブコの古戦場(注1)に立寄った。剣を握る武将をかたどった大きな石像が立っている。1814年ランカグアで惨敗し、アルゼンチンのメンドーサに逃げていたオヒギンス率いる愛国軍が、サン・マルティンの指揮下に入り、アンデス越えを敢行した。1817年2月ここチャカブコの坂で連合軍は王党軍を破り、その勢いでサンチャゴをスペイン王党軍から解放した。つまり、ペルーに本拠がある王党派を相手とする独立戦争の流れを一変する歴史的事件がここで起こったわけだ。
ポルティージョ(Portillo)に通じるR60に入ってまもなく、朝食でリンゴを丸かじりしたのが悪かったのか、私は俄かに急激な腹痛に見舞われた。そこで通りがかったレストランEl Sauce(柳亭)で臨時にトイレ休憩をとってもらった。腹痛も落ち着き、レストラン入口の道路脇に生えている店名由来の柳に近付くと、道路の前方にアコンカガ山(アンデスの最高峰6960m)が覗いていた。しかし、6000m級の高山が左右前後に並んでいるせいか、アコンカガ山が際立つ存在とは感じなかった。R60は、ブエノスアイレス/メンドーサとサンチャゴ/バルパライソを結ぶ大陸横断道路(1968年完成)の一部をなす基幹道路で大型トラックの往来が激しい。国境に向かう上り勾配を喘ぎながら登るトラックをなかなか追い越すことができない。峡谷を通るとき、草木の生えない荒々しい岩山にサン・マルティンやオヒギンスがアンデス越えをしたと思しきルートが見える。彼らの苦労振りが偲ばれる。横断鉄道(注2)が通った跡も残っている。どうして廃止されたのであろうか?観光ルートとして復活したらどうだろう?道路両側の山々はアルプス、ロッキーの山々と較べて断然高さに勝り、赤茶けた岩肌がむき出しで、荒々しく男性的である。近くから眺めるせいか、こちらにのしかかってくるようで、圧倒される感じだ。
ヘアピンカーブの先に丸太組みのポルティージョ・ホテルが見えてきた。背後にリフト施設も見える。なんでも、1966年、世界アルペンスキー選手権大会が開かれた場所とのこと。雪の降らない南米各地からのスキー客で賑わうほか、北半球のスキーヤーにとっても、夏場にスキーを楽しめるスキーリゾートとして人気が高いという。ちょうど、昼食時間となったので、ホテル内のレストランでサーモンを戴いた。白ワインとともに皆に好評であった。レストランの窓からは、アンデスの岩山に三方を囲まれた、インカの伝説を秘める“Lake of the Incas”のエメラルド色に輝く湖面が見えた。食事後、湖に近付くと、カナディアン・ロッキーのレーク・ルイーズの風景によく似ているとの声があがった。記念に湖をバックに皆で写真に納まった。
サンチャゴ最後の夜は、山本夫妻を招待し、日本料理店で話に花を咲かせた。
(注1)チリの歴史(ハイメ・エイサギレ著、山本雅俊訳 新評論)P547参照。
(注2)アンデス横断鉄道(メンドーサとロス・アンデス間)は1910年に建設されたが、1984年以降動いていない。しかし、コンセッション方式での再建が検討されている。
                以上 「サンチャゴの巻」 終わり




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