船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して【第十部】
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あるぜんちな丸第12次航の二等航海士を勤められた吉川誠治さんの寄稿文第十部最終編です。5.がんばれ神戸港 では震災後地盤沈下が激しい神戸の港の繁栄が過去のものとなることを一番悲しんでおられるとの事で古い世代の船乗りの多くは神戸港を心の故郷として歩んでこられたとの事で現在も神戸に住んでおられる吉川さんの切実な「頑張れ神戸港!」が耳に届いて来そうです。我々も日本最後の地神戸はそれだけに忘れ難い土地であり私も神戸に生まれ神戸に育った者の一人して吉川さんに唱和して神戸頑張れ!を叫びたい気持です。写真は、移住Sセンターの裏山にある諏訪山公園から見た古い港の部分です。中央の高いビルはメリケン・パークにあるホテル・オークラ、その左上が神戸港第2航路入口(大関門)で、前方に大阪湾が拡がっています。貴重な写真と渾身を込めて書いて頂いた寄稿文本当に有難う御座いました。 |
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5.がんばれ神戸港
以上の如く、震災により壊滅的被害を受けた港湾施設は、今や完全に復旧して装いを新たにしていますが、フル稼働されている施設はほんの少しばかりです。 大半の港湾施設は着岸する船も少なく見るからに寂れた印象を受けます。 若かりし頃の私たちの時代、日本の高度成長期の神戸港はおそらく横浜港と並び世界で5指に入るぐらいの港でした。
コンテナー時代に入り神戸港では合計24バースのコンテナー・ターミナルが造られましたが、現在細々と使われている2バースを含め稼働中のものは半数近くの13バースに止まります。 あとは他の用途に転用されたもの、空き家同然にコンテナー・ガントリー・クレーンが撤去され放置状態にあるもの、どちらも船が着岸している姿を見ることは殆どありません。 私が航海士として乗船していた頃は定期船によるバラ積み雑貨輸送の全盛期で、港の繁栄はこれらの船で運ぶ雑貨の取扱トン数で図りました。 コンテナー時代の今はコンテナー取扱い数で決まります。 その総コンテナー取扱数で神戸港は世界の主要港の下位に低迷しています。
日本の貿易構造が変わり、昔のような重厚長大の輸出品は影を潜めました。 今や電子部品等の小型のValuable Goods が輸出の花形で、これらは航空機により海外に運ばれます。 しかしまだまだ船による輸送が大方を占めているのです。 例えば名古屋港からは自動車部品等或る程度重さのあるものが多く輸出されます。 また横浜市は今や大阪市を遙かに越える人口を有し東京を併せて大消費地なのです。 日本は食料の大量輸入国で、最近では生鮮食料品も輸送技術が進歩し、厳重な管理がなされ遠距離から輸入されることが多くなりました。
関西圏のGDPは、カナダ一国を凌ぎイギリスに次ぐ世界第5位の実力があるのです。 そこで関西各地がエゴイズムを出すことなく大阪を中心にして各地の役割をわきまえた体制が出来れば、まだまだ発展の余地があるのです。 空港問題でも触れましたが、神戸は大阪に対抗することばかり考えず、港は神戸にまかせてくれ、その代わりに別の問題で大阪に譲歩して、お互いに協力する姿勢が必要です。 そうすることが少なくなった船を呼び戻せる唯一の方法ではないかと思うのです。 港が神戸の生命線です、港の繁栄なくして神戸の活性化はありません。 今のところ神戸港は日本国内でも横浜港に比べ一段と低い位置に甘んじています。 手元に資料がありませんが、コンテナー取扱量では東京港にも引けを取っているはずで、おそらく上記のランキングでは20位〜30位の範囲内にあるのではないかと思われます。
外国人船員と偶に話をした時に『お前のマザー・ポートは何処の港か?』と聞かれることがよくありました。 そんな時日本人船員の大半は迷わず『神戸の港だ』と答えたものです。 特に古い世代の船乗りOBである我々は出身船社を問わず、船乗り人生を神戸港を心の故郷として歩んできました。 今、神戸の港の繁栄が過去のものとなることを一番悲しんでいるのです。 頑張れ神戸港!
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5.終わりに
「あるぜんちな丸」に乗船していたのは、大阪商船に入社して6年後のことでした。 それまでは若さに任せてがむしゃらに働いたのか働かされたのか解りませんが、古き良き時代で苦労を感じたことはありませんでした。 しかし「あるぜんちな丸」を下船し、会社が合併し大阪商船三井船舶となって間もなく、初めて経験するタンカーに乗船しました。 その船はもともと三井船舶の船であったので、乗組員は合併前三井船舶に所属する人達で占められており、初めて大阪商船側からきた一等航海士である私を快く思わなかったのでしょう。 乗船後、三井船舶のボス的存在であったキャプテンに挨拶に行くと『お前はタンカーの経験があるのか?俺はタンカー経験豊富な○○君がよいと会社に云っていたんだが、まあ仕方がない』と云われ、見知らぬ仲間たちのなかで初めて経験する船に、少し不安を抱きながら乗船した私は歓迎されざる者である自分の存在を知り大いに不快感を持ちました。 結局次のキャプテンとも旨くいかず、懲罰覚悟で半年も乗船しない内に特別に休暇を申請し下船してしまいました。
移住者としてブラジルその他の新天地に馴染まず、苦労された方はこれに似たような思いをされたことでしょう。 勿論私の場合は船という小さな組織の中での出来事ですが、国という大きな単位の中で、人種が違い、言語・生活習慣が全く異なる社会の中で過ごされた苦労と比較の対象にはなりませんが、中には私のように不利を覚悟で帰国された方も居られましょう。 現地で思わぬ歓迎を受け順調に新しい国での生活にとけ込まれた方も、「あるぜんちな丸」に乗船当時に頭に描いて居られたような生活は決して待っていてくれたはずはありません。
今、日本では大企業に入り一生をその中で安心して送ることが出来ると考えていた人が、半強制的に退職を迫られ途方にくれているという例が多く見られます。 南米の地に自分の人生を賭け、自分一人を頼りに結果はともかく40年過ごされた皆さんは途方にくれる余裕などなかったはずです。 おそらく苦労と絶望と喜びの40年であっと思います。 しかし、今は成功された方も、期待通りの成果が得られなかった方も、多分、自分の実力と運の結果だと決して後悔はされていないはずで、今では皆さんも喜びを噛みしめ感じて居られる方が多いのではないかと思うのです。
「あるぜんちな丸」第12次航でブラジル始め南米各地へ移住された方々とは、約40日間同じ釜の飯を食った関係にあります。しかし、その中のどなたとも顔を見知ることはありませんでした。 しかし、「私たちの40年」という記念誌を通じてお互いの人生のほんの一部を知る関係が出来るでしょう。
私も船乗りになり、その国が旅行者には見て貰いたくない港周辺の街や村を見ることが出来ましたので、生まれ故郷の日本では想像もつかない環境で永年生活されてきた皆さんのご苦労も少しは解っているつもりです。
今、私は大阪湾水先人として第二の人生を歩んでいます。 船乗りになって数年後、商船学校で仲の良かった友人の1人が日本航空の航空士になり、その後パイロット・機長に転じました。 飛行機乗りと船乗りに対する会社の待遇には大きな差があります。 それを横目に見て何度もこんな忍耐を強いられる馬鹿らしい職業を辞めて、もっと良い仕事を見つけられないかと思ったことも何度かありました。 南米を夢見たこともありました。 しかし、その勇気がなかったのが幸いしたのでしょう、結局船乗りを天職と心得、今日まで一応順調な人生を歩んできました。
私には終戦の年に入学した中学校以来、全く同じ道を歩んできた友人がいます。 私より一年遅れて神戸商船大学に入学したので、船乗り教育の場だけが異なるのですが、その後また大阪商船、大阪湾水先人と全く同じ組織の中で今日まで過ごしてきました。 その友人とお酒を飲んだ席で『俺たちは中学・高校時代勉強もせず、成績も悪かったが、船乗りになったお陰で、結構良い人生を過ごしてきたな! 万一間違って旧帝大に入学していたとしても、俺たちの実力では多寡が知れているからなあ!』と話し合ったことがあります。
悪い病気になって4年以上経過した私ですが、近頃は苦しいときも、嫌なときも何かそれに反発する勇気がでてきて、上記のように自分の人生も満更悪くなかったな、それどころか本当に良かったなと思えるようになってきました。 殆どの人はその最期に当たり『良かったな!』と感じて終わるそうですが、その『良かったな!』と感じる時期が運の良い人は早く、悪い人は遅いというだけの違いではないでしょうか。 結局人間は同じ最後を迎えるのですから! 私は10年ほど前から『良かったな!』と感じるようになったので、早いほうでしょうか、遅いほうでしょうか?
『船、あるぜんちな丸第12次航から40年を経過して』と題した長い拙文の終わりに、本題とは全く違ったようなことを書いてしまいましたが、最後に私の船乗り人生の総集編のような文章を書く機会を与えて頂いた「あるぜんちな丸」船内新聞編集長「和田好司」さんに感謝し終わりとさせていただきます。
(よしかわ・せいじ)
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