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6人のおまけ旅(プエルト・モン(チリ)の巻)及び(バリローチェ(アルゼンチン)の巻)を一挙公開です。
黒瀬さんが記録しておられる早稲田海外移住研究会のOB6人のおまけ旅チリのプエルト・モンとアルゼンチンのバリローチェの2編を一挙に掲載します。チリ富士と言われるオソルノを見るためにプエルト・モンに飛びパンアメリカンハイウエイが終了するチロエ島のアンクーにお足を伸ばしておられサント・アントニオ要塞等懐かしい場所が出てくる。私達も2002年にサンチャゴで車を借り同じ場所まで南下した事があり、非常に懐かしい旅です。残念ながらアルゼンチン側のバリローチェまでは出かける機会がありませんでしたが同じ道を三菱のパジェロを駆って現在ブラジリアの河野さんが登っており、現地の様子が送られて来ております。末娘が修学旅行でポルトアレグレからのバス旅行で出かけた町、一度は行って見たいと願ってます。
写真は、チリ富士と言われるオソルノの容姿をお借りしましたが50幾つもある富士山型の火山が点在しており目を楽しませてくれます。1月にコンセプシオンまで出かける予定でまたチジャンのチリ富士が見られればと期待しています。


6人のおまけ旅(プエルト・モン(チリ)の巻)
                  Reported by 黒瀬 宏洋
                               
10/20(水)
 サンチャゴ空港AM10時発ランチリ機でプエルト・モンに向かう。プエルト・モン周辺には一面厚い雲がかかっていた。幾つか雲の上に白い頂上を現わしている山々があった。その中で一番南に、円錐形の尖端が丸くすり潰れ、神が造った白い造形物とでも表現したい格好のよい突起が雲から覗いていた。それがオソルノ山の雪を冠った頂上に違いあるまい。まもなく、飛行機はプエルト・モン空港に着陸した。1便遅れの山本を待ち合わせ、アンヘルモ(Angelmo)の食事処へ。道路脇に黄色い花が咲き乱れている。ガイドに何の花か尋ねると、“チャカイ”という花でヨーロッパから導入したそうだ。しかし、繁殖し過ぎて今ではいささか厄介な存在になっているようだ。花の色といい何か日本での“セイタカアワダチソウ”の扱われ方と似通っていると感じた。プエルト・モンと隣り合わせのアンヘルモは魚市場を中心にレストラン、民芸品市場が集まっていた。我々が入った食堂は観光客や地元客で賑やかであった。海鮮料理を得意としており、クラントと呼ぶ郷土料理(ムール貝、大浅利、ソーセージ、スペアリブなどを鍋で一緒に煮込みどさっと大皿に盛ったもの)や海鮮スープなどを注文した。クラントは、色々の食材をごちゃ混ぜに煮ているため、個別の食材の本来の味が他の味とミックスして、なにか味に特徴を欠いていると、私は感じた。なお、クラントについて山本から次のコメントをもらっている。「本物のクラントは、土に穴を掘り、底に石を敷き詰めてから様々な具を入れ、大きな葉っぱと土で塞いで、その上で焚き火をして料理するものです(南太平洋の島々で行っているのと同じ)。」 食事後、民芸品市場で展示品を眺め、車でプエルト・モン(人口 2002年 15万強)に移動し、しばし中心街を歩き、最後に車で市街地背後にある展望台(Mirador)に出掛けた。そこから街を一望し、海岸美も楽しむことができた。このように、やや慌しく、プエルト・モンを見物し、本日の宿泊地プエルト・バーラス(人口 約1万6千、プエルト・モンの北17km)に向かった。
 Hotel Cabanas del Lagoは、ジャンキウエ湖面を見下ろす高台にあった。晴れていれば、オソルノ火山(2652m)が湖の向こう岸に見える筈という。夕食は町で全員一緒に摂ることになった。途中、ホテルに近い住宅〜多分ドイツ系住民の家々であろう〜の庭に咲き乱れる春の花を愛でながら歩いた。4,5月ごろ日本で楽しんだ同じような花々に、地球裏側で10月またお目にかかれて、なにか得した気分になった。坂道を下ると、湖畔沿いの道路にでた。水辺のちょっと先にある地中海料理店に入り、薄暗い店内の幻想的雰囲気で食事を楽しんだ。帰りは、タクシー利用の岡部夫妻を除き、閉店した店舗が多い商店街の中で、辛うじてまだ営業していたスーパーに寄るなどし、夜の町の情緒を味わった。
10/21(木 ときどき小雨)
 AM8時半、ホテル発、専用車でチロエ島(注1)に向かう。女性ガイドのフランカが案内役。山本が通訳してくれる。第一候補のサンラファエル氷河ツアーを残念ながら日程が合わず諦め、次善策として選んだチロエ島ツアー。チロエ島行きのフェリーが出るパルグア(‘満月’)に直行。フェリーに乗ること約30分でチロエ島北端に位置するチャカオ(‘大浅利’)に着く。壁に小さな板を鱗状に張り合わせ、屋根も木葺きの民家が並ぶ。雨の多いチロエ島で雨水が家に入り込まないための伝統的工夫だという。一年のうち260日は雨が降るという土地柄、今日が雨天なのも仕方なさそうだ。夏には晴れる日も多くなるという。1960年のチリ地震は大変だったようで歴史的な要塞が崩れたり、小さな川が海峡に変わったりしたという。そんな海峡に架かる橋を過ぎ、島(南北180km、東西50km)のほぼ中央に位置するカストロ市(注2)を目指す。パンアメリカン・ハイウェイの一部をなす一本道をひたすら南に進む。道の両側には農地、牧草地が広がり、道路端には例の黄色い花をつけたチャカイが茂っていた。進行方向右手(西方)の海岸線には山が連なり、左手(東方)には小さい島が多く、鮭養殖が盛んであるという。カストロでは、先ず、街の中央広場に面し、世界遺産登録済みのサン・フランシスコ教会(元の建物が焼失したため、1910〜1912年再建された。島産の木材だけを使って建造)を訪れる。木を見事に組み合わせて造った教会の内部は広い。ついでに教会のトイレも皆で拝借した。
 次に、湾岸に建っている水上の家々(Los palafitos)を見学した。丸太の脚組みの上にカラフルな小屋が載っており、結構絵になっていた。その景色を見ていると丹後半島・伊根の船屋の風景をふと思い出した。
 最後に立寄った民芸品市場では、接木細工の木製品、アルパカのマフラーなどの毛織物が並んでいた。
 来た道を引き返し、アンクー市(人口 2002年 2万7千)に戻った。海の見えるレストランで昼食を摂った後、先住民の昔の生活振りを示す収集物や神話・民話の資料などを展示した博物館を見学し、すぐ海側にあるサン・アントニオ要塞の方に回った。1960年大地震による被害から復旧した要塞の広場には、1826年2月18日 王党軍(代表 キンタニージャ)がチリ共和国軍(代表 ラモンフェレ)に降伏した旨を記す碑が立っていた。スペイン王室に忠誠を誓い、チリ共和国側に最後まで抵抗したチロエ島も、以後チリ共和国に併合されることになった。かくして、チリ史上、重要な意味がある要塞の一角に立つ機会を得た。
 帰りのフェリーがチャカオ港を出港した直後、港から少し離れた海面に数羽の黒首白鳥(首の部分だけが黒い)が浮いているのに気付いた。島訪問の楽しみの一つにしていた黒首白鳥にも最後に出会うことができた。
注1 インディオのアラウカ族に圧されてスペイン植民者たちがビオビオ川(コンセプシオンのすぐ北方を流れる)以南をいったんアラウカ族に明け渡した際も、温和な先住インディオが住むチロエ島では、スペイン植民者は引き続き島に留まることができた。これら平和的インディオを教化するため、キリスト教宣教師が島の各所に木造の教会を建てた。そうした教会群がいま世界遺産に登録されている。その後、時代が下がって、チリのスペインからの独立戦争の際、王党軍が最後まで抵抗した拠点もチロエ島だった。また、島に残る伝説に、トラウコ(El Trauco)という小人が森に住みいろいろ悪さをするという話がある。カレウチェという‘幽霊船’の話もある。島の厳しい自然が人々の心に様々な幻想を抱かせた結果、いろいろな神話・伝説が生れたという。ところで、島の主たる産業は、農業、漁業、林業であり、殊に“木の文化”が建物を始めいろいろ生活面で根付いている。
注2 サンチャゴ、ラセレナに次ぎ1567年に建設されたチリで3番目に古い町。 19世紀の大地震でカストロは壊滅的被害を受け、一時チロエ島の首都をアンクーに譲ったことがあるが、その後首都に復している。人口 2002年 2万9千。
10/22(金 小雨模様)
 AM8時半、乗り合いバスでホテル出発。ジャンキウエ湖南側沿いの道をペトロウエ滝に向かう。トドス・ロス・サントス湖から流れ下るペトロウエ川の川床が「ペトロウエ滝」の場所でやや複雑に割れ込んで、落差は小さいが川の水が迸りながら勢いよく流れ落ちていく。滝の上に渡されていた遊歩道から覗き込むと迫力満点であった。さしずめ。群馬県沼田市郊外「引割の滝」の大型版といったところ。天気が良ければ、富士山に似たオソルノ火山をバックにして景色は抜群だったろう。待ち合わせ時刻(10:30)を過ぎても、バスが来ないというハプニング発生。40分遅れでバスに乗り込み、トドス・ロス・サントス湖の船着場に向かう。左手にオソルノ山の裾野、右手にペトロウエ川の流れを見る。“こんな川でカヌーに興ずるのも悪くはないなー”と思う間もなくバスが急に止まった。先行の大型バスも止まっていた。国立公園内のため無舗装道路なので、ぬかるみ部分を大型バスは通れないということだった。乗客はバスを降り、手荷物を持って、カバーを敷いたぬかるみの上を歩き、反対側で待つ別のバスに乗り換えた。これでバスを待たされた事情は判ったが、一時は今日中にバリロッチェに着けるのだろうかとの不安が頭の中を横切った。
 待っていた遊覧船は、我々を乗せると、まもなくトドス・ロス・サントス湖を東に進んでいく。船尾からオソルノ火山の5、6合目以上を雲に隠した姿が目に入る。飛行機の窓から眺めて記憶していた頂上付近の形を繋ぎ合わせ、華麗なオソルノ山の全容を想像してみた。湖畔には、陸路がないため、船着場を持った別荘が点在していた。雨雲が低く垂れ込めた中での湖上の旅もまた結構趣があった。2時間程でトドス・ロス・サントス湖東端のペウジャに着き、山本とペウジャ・ホテルの食堂で昼食を共にした。わざわざここまで一緒に来てくれた山本の親切に一同感謝の気持ちで一杯である。
 ペトロウエ方面に引き返す便が早く出発、一同ホテル玄関で山本を見送った。国境に向かう我々のバスはPM4時発であった。ホテルを出てまもなくチリ側の出国審査を受ける。アルゼンチン側のプエルト・フリアスとの間には峠(標高976m)が控えている。舗装の無い悪路である。木々の枝や葉に雪が積もっている。雪が激しく降り始めた。すると乗り合いバス後部席から一斉に歓声が上がる。車体をドラム代わりに叩くものも出る。雪を初めて見るブラジルの一行であった。前部席のコロンビアの夫婦達もそれに呼応した。バスは、峠手前で車輪にチェーンを巻くため一時停車した。車を降りた一団は、雪を手にしてまた子供のようにはしゃいだ。
以上 「プエルト・モン(チリ)の巻」 終り

6人のおまけ旅(バリローチェ(アルゼンチン)の巻)
                                    Reported by 黒瀬 宏洋
                                    Photos by 岡部、その他
10/22(金)
 峠越えは凡そ2時間の行程であった。アルゼンチン側のプエルト・フリアスでは傘不要。入国審査の順番は我々最終列組になかなか回ってこなかった。やっとPM7時頃、まだ明るさの残る中、待っている船に乗り込めた。20分でプエルト・アレグレに着く。そこから、バスで15分揺られ、プエルト・ブレストに到着。P.ブレストで、また、船に乗り換え、1時間超の間、ナウエル・ウアピ湖を東方に進み、プエルト・パヌエロで下船、と極めて目まぐるしい行程であった。とっぷり日が暮れたプエルト・パヌエロでは、指定されたバスまで各自トランクを運んだ。こうして、バリローチェ(人口 2001 8.9万)の中心街にある当夜の宿泊先サンセット・ホテルに身を置いたのはPM10時を過ぎていた。夕食がまだだったので、食事のできる場所を求めて街にでた。さすがに大きな観光地だけあり、遅い時刻にもかかわらず、繁華街ミトレ通りのレストランはまだ開いている店も多く、軽食で腹を落ち着かせることができた。
 ご参考までに、私のゼミ同期でアルゼンチンをこよなく愛する元商社マンYは、「・・・南極にむかつて最後で、最大のリゾート地がバリローチェです。・・・・第一次世界大戦で畑が戦場となってしまったヨーロツパの国々は食糧を南米に依存するほかなく、その時稼いだ外貨で建てたスイス風の町です。驚くべくことに、第一次世界大戦前まではアルゼンチンはワイン輸入国でした。もっぱらイタリアとかドイツから樽で輸入されていました。1914年から18年まで続いた戦争は、南米へのワインの輸出を困難にして、それゆえに南米の背骨とも言うべきアンデス山脈のアルゼンチン側の南斜面である麓の町メンドーサに広がる広大な地域で葡萄の栽培がはじまり、今では世界でも有数のワイン輸出国になっています」と、知らせてくれた。
10/23(土 晴れ)
 8時ホテル出発。6人を乗せ、車は、ナウエル・ウアピ湖沿いに舗装道路R237を北東に進む。学生時代に歴史を専攻したというカルロスが英語でガイドしてくれる。山と湖に囲まれたバリローチェは“南米のスイス”と呼ばれ、アルゼンチン随一の四季を通ずるリゾート地である。卒業旅行のメッカでもあるそうだ。そういえば、今朝明け方までホテルの窓辺で若者(多分卒業旅行の学生達であろう)が騒いでいた。ブエノスアイレスから1700km、汽車で30時間、車で丸一日、飛行機なら2時間の距離とのこと。道路を進むと、右手に砂漠状の荒涼とした土地が広がってきた。パタゴニアがこの辺りから始まることを知る。更に直進すると、ナウエル・ウアピ湖から流れだすリマイ川が、「エンカンタード谷」の渓谷の中に取り込まれていく。事実、名前の通り、見る者をencantar(「うっとりさせる」の意)させる景色である。赤茶けた山肌に大きな岩が幾つか置物のように乗っている様子も驚きである。
 先に進むと、左手にガソリンスタンドが見える。この休憩所でコーヒーを飲む。一休みした後、車は西方のトラフル湖へ向かう無舗装道路に入る。道路はトラフル川に沿っている。道路両側の山々にところどころ洞窟があり、インディアンが描いた壁画も残っているという。また、国立公園内ながら政府の特別許可を得て民間人が松を植林している森林が眼に入る。トラフル村に入り、車を止め、湖の岸辺から湖面に張り出して設けられた木造りの展望台から辺りを眺める。湖はエメラルド色をしていた。湖畔に生えている木を指して、ガイドが「これがコイウエ(water treeの意 岸辺の展望台はこの木を使って作っている)、あれがアラウカリア・アラウカナ(ナッツが採れる)」と、この地方特有の樹木の説明をしてくれた。
 湖の南岸に沿い車は進み、シエテ・ラゴス(七湖)ルートを通って、ナウエル・ウアピ湖北岸にあるラ・アンゴストゥーラ村に着く。ちょうどランチタイム。この村の家庭的雰囲気のレストランで昼食をとる。ビフテキ、パンがとても美味しかった。
 本日のツアーの締めくくりは、ケトリウエ半島突端にあるアラジャネスの森への遊覧船クルーズであった。半島の上をつがいのコンドルが旋廻していた。羽を広げると3mの大きさで、メスは首に白い輪があるという。我々を乗せたアンゴストゥーラ港発の遊覧船とほぼ時を同じくして、バリローチェ発の遊覧船も大勢の客を運んで‘アラジャネスの森’埠頭に着いた。森の中には回遊できる歩道が設けられ、ところどころ木製のステップや足場がある。サルスベリの木によく似た赤い幹の20m近い大木が梢で天を覆った林が続く。一瞬、ディズニーの童話の世界に飛び込んだとの錯覚に陥る。後で、ディズニーが「バンビの森」を制作するにあたり、この森をイメージしたとの説明を聞き、なるほどと合点がいった。アラジャネスの木は潅木で普通背丈が低い。なんでも、300年の年月をかけて、平均18m、高いもので25mと大木に成長したのは、地球上でここの森だけらしい。船の出港までの余裕時間に、佐藤と二人で波止場に近い岩場に出掛けた。若いカップルの休む傍らを通り、足場の悪い石伝いに岩場に渡り一寸したスリルを味わった。湖面のすぐ先には特有な動物相を誇るビクトリア島が横たわっていた。
 夕食は、教えられたモレノ通りの中華料理店を全員で訪ねた。しかし、ヴァイキング式で、中国料理とは言えない有様。オーナー風の中国人に、「本格的中華料理を食べたいのだが」と伝えると、彼自身わざわざ近くの別の店まで案内してくれた。そこの経営者も兼ねていたのかも知れないが、思わぬ親切に恐縮した。料理の注文には佐藤の中国語が有効であった。料理も“好(ハオ)“で皆な満足した。勘定書のチェックは、いつもの通り、山之内の役目。
 ホテルへの帰途、ミトレ通りにある閉店寸前のチョコレート店”Nanuska”に立ち寄り、各自名物のチョコレートを土産に求めた。ところで、帰国後、チョコを口にした家族たちの評判は上々で求め甲斐があった。

10/24(日 )
 午前のバリローチェ滞在時間を活用して、専用車でカンパナリオの丘に向かう。二人掛けのリフトで頂上に。岡部は借りたジャンパーを着込む。展望台(1050m)からの360度の眺めは素晴らしい。眼下にナウエル・ウアピ湖、ラ・アンゴストゥーラ村、アラジャネスの森、ビクトリア島、リャオリャオ半島、チリ側からアンデス越えしたとき船で渡った湖などなど、西方に目を転ずると3000m級のトロナドル山などの山々が聳えている。一瞬息が止まるような感動を覚えた。世界有数の絶景ポイントの一つに挙げられるのも当然と思う。肌寒さを感じ、売店でコーヒーを飲んで暖をとった。絵葉書、革製品などを買い求める仲間もいた。下る途中、大勢の観光客がリフトで上って来た。擦れ違いざま目が合った人に声を掛けると、それに呼応してくれた。
車は、北上し、とある民家に立寄った。はびこって手を焼いている野ばら(ローザ・モスケタ Rosa Mosqueta)の有効利用のために、それから抽出した天然油やクリーム製品を家族で製造・販売していた。自然から与えられたものを何でも活用しようとする姿勢は見上げたものだ。
 次に立ち寄った小さなチャペル(St.Eduardo Chapel)の庭から、豪華リゾートホテル「Llao Llao」(ジャオジャオ、我々のガイドはリャオリャオと発音した。先住者マプーチ語で素晴らしいの意味という)が眺められた。今回の旅は、豪華ホテルはただ遠目に眺めるだけであった。バリローチェに戻る途中、車はチョコレートを製造実演・販売する店に立ち寄った。つい、追加のチョコを買う羽目になった。
 ホテルに預けて置いたトランクを積み込み、空港に向かう。バリローチェよ、サヨウナラ!
              以上 「バリローチェの巻」終り




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