六十一歳四カ月の願望冒険旅行ブラジル(終編) 阪口多加代さんの寄稿
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昨年、2ヶ月程ブラジルに来ていた妹、阪口多加代がブラジル滞在中の感想を4回に分けて書き残して呉れています。今回は、その最終回でポルトアレグレ編としてポルトアレグレで過した週末の小旅行等を含めたブラジルでの生活を報告しており普通ならそのまま本人の記憶の中に残り堆積して行く出来事を多分始めての書き物として残しておりこれも兄貴が管理運営している『私たちの40年!!』HPへの寄稿と言う機会がなければ残らなかったブラジル見聞記、人に読んで貰う目的より自分自身の経験として残して置ける記念誌的な力作でご苦労さんと言ってやりたいと思います。
既に書いたように妹、多加代の来伯は、1965年12月に亡くなった母を一緒に連れて来て呉れたとの気持を抱かせるに十分なもので『イグアスの滝を見せてやる』との母への果たし得なかった約束を多加代を通じて二人一緒に果たせたと感じる事ができたのが一番嬉しかった。
写真は、ブラジルのグランド・キャニオンと言われているイタインベジンニォーで喜びを満身に込めてのポーズです。
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ポルトアレグレ編
ポルトは港、アレグレは愉快なとか、楽しいとか、と言う意味だと兄貴に教わった。
なるほどと思う。名前の通りの町でした。ポルトアレグレに着いたその夜に井上祐見様のコンサートとの事で兄貴が走り廻っていた。夜、コンサートを見に出掛けた所が、カトリック大学日本文化研究所である。この大学は兄貴が卒業した大学と聞き、やはりここでも、母と一緒に来ている事を実感としてとった。見て置きたい所が自然と此方から要求する事無く、かかわってくる。しかも着いたその日である。とっても嬉しかった。井上祐見様なる歌手は私が日本で居る時には聴いた事がなかったがブラジル公演六回目と言うのに驚く。ブラジルで育った歌手なのかもしれない。地球の裏側ブラジル訪問を六年も続けると言う事は並大抵の事では出来ないと思う。やはりブラジルに魅せられた歌人であろう。持ち歌の“あなたにであえて良かった”を手作りのオルゴールで歌う。立派なものだ。これを日本で奏でる事は不可能だと思う。ブラジルだからこそ出来る事を良く研究している。楽しい一夜にであった。もっと大きく育って欲しい。ブラジルだけで無く、日本での活躍を期待する。
姉の妹、リリア様のお産。生まれると聞き病院に駆けつけるが、未だの様で、待合室?で待っている。この待合室は一角がガラス張りで生まれて直ぐのベビーちゃんをここでご対面ができる。ベビーベットに生まれたてのベビーちゃんを連れて来た。如何するのかと、固唾を呑んで見ていて、ビックリした。裸のままで、まず体温、脈を何回も測り、うつぶせにしたり、横にしたりして二時間程様子を見てから、手形、足型を取り、沐浴である。日本では見る事が出来ない様子を公開している。又終わるなりベビー服を着せた。このベビー服は外へ連れて出る服で自分が持って来た服である。まるで退院する格好だ。翌日も病院に行くとベビー服は着替えさせているが、やはり外出着を着せていて不思議な感じであった。翌日もリリア様の所へ行くと言って夜七時過ぎに出かけたが、病院では無くて自宅だった。ここでもビックリ、二泊三日で退院とは、産後の血が騒ぐ”と言って一週間は入院するのが常識だと、思っていた。なんと現実主義の国だ。と一瞬頭をよぎったが、考え様によっては、入院費が少なくて済む分負担が軽くて、金儲け主義の日本とは違って産婦にとっては安心してお産が出来るのかもしれない。リリア様のお蔭でブラジルの裏面に遭遇出来、勉強になりました。幸雄ちゃん誕生おめでとうございます。元気で明るく、育ってくれる事を祈っています。
弥生さんが通っているインドヨガに五回連れて行って貰った。火曜日、木曜日の週2回在り、送り迎えをして貰いながらも楽しく身体を動かせることが出来た。壱拾七年も前に大阪のドウ・スポーツクラブに五ヶ月程通ってたのを思い出したがインドヨガは初めての事。心躍らせて通った。六十一歳の私にも出来る事が在るのだと発見して、まだまだ捨てたものでもない、と日本に帰っても続けたいと思った。
学校が始まって皆が留守になると、私は一人で退屈になる。そこで姉が本でも読む〜と日本の本を二十冊余り、貸してくれた。又、兄貴は暇なら、パソコンでも叩いたら~と原稿をくれる。兄貴のパソコンはノートパソコンで、マウスも無く、叩きづらくて時間がかかるがなんとか、暇つぶしにはなった。昼には皆が帰って来て一緒に昼食をとる。一時半過ぎには出掛けて、家が静かになる。私は二時頃から散歩がてら、雨が降らない限り、毎日一人で町をさまよい歩く。スーパーで買い物をしたり、ショッピングをしたり、公園のはしごをしたりで、楽しんだ。初めの内は道が分らなくなると困るので、一直線上に歩き、突き当たったら同じ道の反対側を歩いていたが、慣れてくると、所かまわずに歩いた。道が分からなくなったナ〜と思うが、四角形を想い浮かべながら歩くと元の道に帰ってくる事がわかった。一人でハンドバックを買った。おいくらですか?と聞くと、R$68,92との事、電卓に示してくれた。私はその電卓を取り、金額をR$60と打ち直して、店員さんに示すと店員さんは再び電卓を叩きR$61,50とした。そこで手を打ち買う事にした。ブラジルに来て迄値切る事が出来、内心やった〜 バンザイ〜と大阪根性をまるだしに出来た。スーパーの横の果物屋さんがあり、私の顔を覚えてくれていて、買い物行くと必ず端数をマケテくれた。スーパーのレジーに行くと私の顔を見て、何も言わずとも同じ銘柄のタバコを毎回三個出してくれる様にまで成っていた。又一人で歩いていても、誰も干渉する事無く歩く事が出来る。たまに鼻歌を歌いながら歩いていると、日本語なので、出会い頭に振り向く人がいたが、知らん顔して通りすぎる。話しかけられてもポルトガル語は分からないので私も困るが・・・一度は自動車の中から、道を聞かれて、困った事があった。指でノーノーと示すと不思議そうに窓を閉めてくれて、ホットした。次は時間を聞かれた。この時は私の時計を目の前に出して見せた。オブリガードと言ったので私も右手親指を挙げて、挨拶をした。言葉は分からないが何を言っているかは手振り、身振りで分かるようになる。おもしろい町であり、退屈には感じなかった。
週末には必ず小旅行につれて行ってくれた。ベントゴンサルベスの葡萄畑やワイン工場を見学してワインとチーズをたらふく呑み食べしたり、イタリア人移住地の歴史を再現して色々と工夫を凝らした劇中?屋敷の中を歩きながら説明をしてくれた。マリア・フマーサと呼ばれる蒸気機関車にも乗り、その中で、歌あり、ダンスあり、漫才あり、と景色のすばらしさとで、とっても楽しかった。私も駆り出されて、一緒にダンスを踊りました。兄貴が蒸気機関車を見て、アッ動いてる、動いてると言って喜んでいたのが、目に浮かんできます。
グラマードでは公園の中を歩いて、アジサイの終りかけやさくらんぼの実をつけた木を見つけてどこにでも同じ花が咲くのだと、懐かしく思った。滝を見るのにエレベーターで昇って上から、みわたしたり、900段の階段を下りて下から滝を見る事が出来るのではあるが、私と兄貴は最後までは行く事が出来ずに途中から滝を眺めた。この階段のしんどい事。イグアスの滝もしんどかったが、何所でも滝を見ようと思うと、“しんどい”がつき物みたいだ。雨の中をゴンドラに乗ったり、日本に持ち帰るお土産を探し回ったりと楽しい旅でした。
山岳地帯のカネ―ラの滝とイタインベジンニヨの秘密の石を見に歩いたり、キャンブをして、テントで寝ました。子供の頃に学校から飯盒炊爨に行った事があったが、キヤンプはしたことが無くて初めての経験です。山を幾つも登って、川の在る所で休憩をして、歩け、歩けでキャンプ場に到着〜さすがにしんどくて、着くなりへばり込んだが、見渡す限り空と山々が最高の眺めで疲れが吹っ飛んだ。ここでの昼ご飯の美味しかった事は言うまでもない。テントで一休み。思ったよりも居心地が良く中々のものでした。夕日に誘われて、一人で近くの山へ登り夕日が沈むのを堪能している間に、小百合様たちがキャンプファイヤーに必要な薪集めをしてくれていました。石をひきしめて土台を作り、薪をくべて、上手に火をおこして、夕食の用意です。玉葱、じゃがいもをそのまま火の中に入れて、丸焼きの出来上がりをフウフウしながら食べられて最高に美味しかった。スパゲティーも作ってくれて、上げ膳、据え膳、と花火のように綺麗な火の粉が夜空に舞い上がり、私が喜ぶ度に何回も火の粉を作ってくれる中でのスパゲティーはどこのお店にも出で来ない貴重な味で忘れがたい味でした。何事にもチャレンジー精神でやって見ようと思っていましたが、ここで残念ながら出来ない事が起こりました。それは川に飛び込むことです。10メートル以上もある所からボンボン飛び込むのです。水は足を付けるだけでも、アア〜冷たい〜と奇声を発揮しそうな温度です。泳げない私にはとても出来る代物では無く見物人に徹して、皆が飛び込むと手を叩いて、喜こび楽しんでいました。気持ち良さそうに泳いでいる姿がうらやましくもありました。若いってやはり元気があります。
ほんまに〜楽しい、美しい山々、澄んだ空気、満天の夜空を満喫出来て、キャンプの醍醐味を判らせて貰えた事は小百合様のお蔭だと感謝しています。ありがとさんでした。
ウォールクライミングにも挑戦してきました。これも全く初めての事。人造の壁をよじ登るのですが、これがまた、身体全体の力が必要で、腕力、足腰の力が無くては出来ない事で苦心しましたが、下から色々アドバイスをして貰って、やっとの思いで、3分の2程登りましたが、それ以上は足が岩に掛からずに体力不足で降ろしてもらいました。降りる時の気持ち良さをもう一度味わいたいな〜とも考えたが、登る気力、体力が無くて一度きりで終了しました。練習に来ている皆様は軽々と登り、気持ちよさそうにロープで降りてくるのをうらやましく眺めていた。翌朝は身体中が痛くて困ったが散歩していたらいつの間にか治っていました。元気ってありがたいな〜〜 ソウソウ、 キャンプに行く時に兄貴が小百合様の荷物をエレベーターの前迄運んでくれて、腰を抜かして、へたり込んだのを思い出して、若い人との体力の相違をここでも、思い知らされた。
ボルトアレグレがこんなに広い所とは夢にも思ってなかったので再認識する。なんと〜サッカー場が二ヵ所、それに海とも見える河がある。私は海に見えて、海だ、海だと喜んだけれどそれは河だと教えられて驚く。河が港になり、一番賑やかな所だそうだ。その河は遊覧船も有り、乗せて貰った。ほんまに河なのかと、信じられない位、幅広い、長い、長い河が延々と続いていた。それからは海とは決めつけずにこれも河と聞く事にした。河と海との区別が全く分からなかった。港は函館の赤レンガを思わせる風景の建物が立ち並ぶ懐かしい所でした。公園は数多く在り、至るところに色んな趣向をこらした公園がある。あちこち連れて歩いて貰いました。なかでも‘露天市’が開かれて、何十軒ものテントのお店が出ていてまるで‘祇園さん’に来ている様な錯覚で楽しく見て廻りました。また滋賀県と姉妹提供を記念した滋賀公園にも行き、日本の庭園がそのまま公園になっていて、ポルトアレグレに居ても日本を思い出す所が一杯あり、とっても心和やかでした。
最後の日は2時間程港の見える高いビルの上で寒い寒いと言いながら、生ビールを飲みほして、ポルトアレグレに別れを告げる最高の場所に連れて来てくれました。ほんまにこの2ヶ月間は日本で味わう事が出来ない色々な事を一杯身体の許す限りなんにでもチャレンジーをして来た。これも皆様がさせて下さったお蔭だと感謝しています。ほんまに〜色々とお世話に成りまして有難うございました。
終編
ポルトアレグレの空港にて見送って下さった皆様と別れを告げてサンパウロに到着したが、
ツニブラの方が出迎えて呉れているはずが何方も居なくて四十分程、探し回ったが判らず、どうしょうかと青くなったが、日航のカウンターを探した方が確実と思い、カウンターまでたどり着く。そこでツニブラの人に出会えた。やれやれこれで出国手続きが出来る。と安心した。トイレに行き、タバコを吸い、我に返れた。九時にツニブラの人と別れ中に入り、これで日本に帰れると思いしや、なんと飛行機の整備不良が発生したとの事で何時に飛び立つか判らないのでお待ち下さい。で二時間待ち、三時間待ちをしている間にパンと飲み物の配給が有り、これを食べて文句を言わずに待てという事らしかった。食べながら待合室を見渡すと、移住者の人達の里帰りか、団体で来ていた。話が自然と聞えてきた。なんと一ドルで日本では何が買えるか、と話をしていた。インスタントラーメンが一個買える位だとか、百均に行けば何でもあるそうなとか、思いは日本に馳せている様だったが、のんびりと何時かは飛ぶだろうなんて、言って取り留めない話を続けていた。私は一体何時に飛ぶかを確認したくて、イライラしていたが、結局六時間待ちが決定した。成田から伊丹への乗り換え時間に間に合いそうなのでやれやれだ。兄貴の言葉を思い出してニューヨークでテロが起きた日だから、サンパウロで待機していたと考えれば納得出来た。機内では待ちくたびれて、すぐに眠りに付く。
ニューヨークでは何事も無く出入国の手続きを済ませて、無事成田空港に着いた。伊丹空港に行く時間が余り無くて、トランク二個に手荷物を持って、成田の国内線に移動するのが大変でしんどかったが、無事、伊丹空港に着き、出迎えてくれていた主人の顔見て、やっと日本に帰って来たと、安堵する。
2ヶ月間の長旅が無事終わる事が出来たのも、兄貴を始めお姉様や姪っ子達、快く行かせてくれた、主人と子供の協力の許に成しえた賜物であると感謝して、終りにしたいです。
色々とお世話になりまして有難うございました。機会がありましたら、ぜひとも我が家に
いらして下さいませ。お会い出来る日を楽しみにお待ち申し上げます。
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