最高のクリスマスプレゼントとして受け取ったボリビアの同船者よりのお便り!!
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昨年12月24日クリスマスイブの午後、し残した仕事を整理に事務所に出たところ最高のクリスマスプレゼントとも言えるボリビアの同船者本多桓三郎さんからのお便りがFaxされて来ておりました。八方手を尽くして知人、友人に頼んでいた矢先でもあり椅子から転げ落ちんばかりの喜びを感じたのを覚えております。すぐその場で返事を書き喜びを伝えました。その最初のお便りの一部(同船者名簿等を割愛したもの)を転載しておきます。写真は適当なものが見つからずサンタクルス市のカテドラル(大伽藍)の見える公園の写真を転載しておきます。 |
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和田 好司 様
前略 突然お便り差し上げる非礼をお許し下さい。貴方から知花良治様に宛てられた「あるぜんちな丸第12次航」の文書が回り回って小生の元に12月17日に届きました。99年に一度手書きの名簿が届いた事があります。小生現在サンファン日本ボリビア協会(日ボ協会)に勤務していますので、12次航(サンファンでは15次船団と呼称しています)に関する情報を何時でも提供できます。
先ずボリビア移住者について記します。
12次航(15船団)は、18家族98名で男子57名、女子41名でした。長崎県14家族(男子46名、女子34名)福岡県4家族(男子11名、女性7名)。
貴方の記録では99名(長崎県82名、福岡県17名)と有りますが、間違っています。(これはサンファン移住地30周年=1985年=に書く県別移住者を確定しているので、長崎80名、福岡18名は間違いありません)。
サントスに入港したのが5月11日だったことは忘れていました。夜は徹夜で荷物を積み替えて疲労困憊いつサントスを出発したのか覚えていません。途中バウルーで日本人会館に1泊し、カンポグランデでは周囲の移住地から日本人移住者の差し入れを頂き、国境のコルンバーまで機関車も電気機関車、ディーゼル機関車で順調でしたが、国境を越えてボリビア領に入ってからは機関車も薪を燃料とする機関車に替わり速度もおそく、燃料の薪を補給するために頻繁に停車し(我々も若い者が人夫代用でした)何時目的地に到着するのかも分からない状態でした。停車の度に機関車から水を貰い、付近から薪を拾い自炊をしました。5月12日にサントスを出発しているとするとサントス-サンタクルスに8日間かかった事になりあます。
サンタクルス駅では海協連サンタクルス支部が手配したトラックが足りず女子供を先発させて家長や若手は翌日トラックの上乗りをして移住地に向かいました。
サンタクルスーサンファン間は約140Kmですがその内舗装されているのが約50kmあとは砂利道で小川には橋も無い状態で8時間以上かかったと記憶しています。
募集要項には道路は造成されているとありましたが、真っ赤な嘘で配分されたロッテに行くのには大回りする事も有り、急に造成されたため一度雨が降ると沼になり、自転車は乗るよりも担ぐ方が多い位でした。
明年5月20日で入植40年周年を迎えますが、殆ど移住当時の家長は引退もしくは死去されています。
サンファン日ボ協会に海外移住事業団(JICA国際協力事業団)が発行した戦後移住者名簿があり参考になります。
また、貴方文書(12次航船内新聞特別号発行にあたって)の1ページに3月30日横浜発、4月2日神戸発とありますが、12次航は神戸を3月31日に出航したと記憶しています。確かに移住者名簿は3月30日船となっていますが、旅券では4月2日出国となっています。
99年に手書きの名簿を落手してから、日ボ協会事務局職員旅行でパラグアイ国イグアス移住地を訪問しましたが、イグアス移住地に同船者はいないかと確認した事がありました。イグアス日本人会の歓迎会の席上、偶然私の席の正面におられた方が12次航の方でアルトパラナ移住地からイグアス移住地に移動されたそうで、現在パルグアイ農業総合試験場CETAPAR-JICAに勤務されている園田八郎氏でした。(鹿児島県鹿屋市出身)園田氏の御兄弟はピラポ移住地におられるそうです。
12次航は神戸港を出帆した夜からの嵐が特別印象的で、このことを話していて同船者であることが分かりました。
助監督の上園義房氏はサンファン事業所長をなされていました。1999年に来訪され旧交を温めました。
小生はサンファン入植後65年一時帰国して結婚し、両親弟妹を同伴して再度サンファンに戻りましたが、その時はブラジル丸が観光船に改装して2航海目?だったと記憶していますが、その時世話になった船員が12次航の船員で、あの嵐には船に慣れている船員も船酔いになったくらいだと話していました。小生は6人兄弟(男−5女―1)で62年に渡航したのは4人、末弟は明治大学在学中、妹は高校在学中で、末弟は66年大学を休学して移住し68年復学し73年再度サンファンに戻りましたが、嫁が体質的に現地に合わず74年に帰国しました。大学在学中は学生移住連盟に所属していたようです。(93年イランで死去)。
明年5月20日が入植40周年になりますが、今まで同船者が集まったことが一度も無く今年初めて同船者が集まる機会がありました。それは原博之氏(小生の兄本多昌平の同伴)が28年振りにサンファンを訪問、同船者で歓迎会をしたからです。原氏はサンファンで学校の教師を10年ばかり勤めて73年に帰国し、長崎県営観光バスに勤務し定年退職後直腸ガンに罹り、一生の思い出にサンファンに来られ11月29日まで2ヵ月半以上滞在していました。
サンファン移住地は1955年創設された移住地で95年から順次入植40周年を迎えていて今年2001年は第9次船団から第14次船団までの入植40周年を行い、明年2002年は私たち15次船団のみ、2003年が第16次、第17次船団で、これで政府計画移住40周年は終わりで、1966年第18次から呼び寄せ移住と単身移住が1993年まで53次にわたり継続されましたが、現在新規の移住者は皆無です。
私達も40年一区切りですので全員集まろうと話をしています。
お便りには来年2月にサンタクルスご訪問の予定とありますが、サンタクルス在住は2家族だけ、その2家族もサンファンと関係がありますので、サンファンでもし集まりを希望されるようでしたら参加を手配できると思います。
また、サンファン移住地40周年記念事業で集めた「移民資料」を展示する「移民資料館」もあり過去46年の写真、物品を展示しています(12次航の神戸出発前日に撮ったボリビア移住者の写真も展示しています)なお、在ボ長崎県人会、在ボ福岡県人会も同じ郵便私書箱(CASILLA No. 464)です。
末尾になりましたが、益々のご活躍を祈念しています。
良いお年をお迎え下さい。
早々
12月24日
ボリビア国サンタクルス県イチロ郡サンファン日本人移住地
サンファン日ボ協会 事務局 本多 桓三郎
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