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【パラグワイ国盗り計画】 元パラグアイ移民の野口 紘一さんの原稿です。
戦前、台湾の台北で生まれ終戦と共に福岡の大牟田市に帰郷、18歳と2ヶ月で東京に出てその後パラグアイに移住、アルゼンチンに転住、日本に帰国、アメリカに再移住、現在はカリフォルニアのサンフランシスコ郊外に墓も建てて永住。趣味は有機の野菜栽培と旅行という数奇の人生を歩み世界規模での人生の歩みを『私の還暦の過去帳』に抜群の記憶力と筆力で書き残しておられる健筆家の野口さんの書かれた【パラグアイ国盗り計画】をメーリング・リストPARAGUYからお借りして各国の移住の歴史欄に掲載させて頂く事にしました。写真は野口さんから送って頂いたアルゼンチンの世界で一番豪華で、大きなバーべキュー、子牛の皮ごとの丸焼きです、アサード.デ.コンクエローと言う中々見られない写真です。


パラグワイ国盗り計画 
第1回
パラグワイは戦前の1936年ごろから日本人移住の企画がなされ、第二次大戦が始まる前までに、かなりの人数が移住して行きました。しかし移住地での生産物販売が上手く機狽オなくて多くの人が隣国に再移住して行きました。戦後また移住が再開されたがその1950年終り頃から1960年の始めにかけて移住してきた移民も戦前と同じく、多くの人がブラジルやアルゼンチンなどに再移住して行きました。私がその中でアルゼンチンに再移住して来ていた自衛隊出身の移住者と仲良くなり、ブエノス近郊で野菜栽培を少しの間していました。昔の田舎の電気も無い農家でしたので、夜は酒でも飲みながら四方山話をしていました時に、誰と無くパラグワイは長閑な田舎の国だーー!と言って自衛隊出身者の山本氏が精鋭2000名もあれば首都スンシヨンを攻略出来ると切り出しました。彼は6年近くパラグワイに住んでいましたので、各地を歩いて見ていました。その当時パラグワイはアメリカからの第二次大戦余剰武器の中古武器での装備で、訓練も貧弱なものでした。国境警備などの兵隊が所持して居たのは旧式なボルト・アクションのライフルでしたので、殆ど戦闘迫ヘは限られた地域を守るのが精一杯と思われ、誰が見ても感じ、そう思っていました。そこから計画が生まれて来ました。パラグワイ国盗りを立案してみようとーー!

パラグワイの人口は日本から比べたら、比較になら無いような少なさです、1871年には戦争で僅か22万人まで減少して、そこからまた人口が増えて行きましたが、広い日本と同じ面積に匹敵する大きな大地に、僅かばかりの人が住んでいたのです。

1863年   525,000
1871年   221,000
1900年   490,000
1936年   931,000
1940年  1,014,800
1942年  1,071,700

1871年に人口は大きく減少しているが、1871年は、パラグアイが ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの3国同盟を相手に戦った(パラグアイ戦争三国同盟戦争)が終わった翌年で、この221,000人の内訳は女性が106,254人、86,079人が子供男性はわずか28,746人だったといいます。
(パラグワイ在住、田中氏のHPの数字より抜粋)

私がパラグワイに移住した時はまだ沢山の移民がヨーロッパやアジアの日本や韓国、それからパラグワイは南米でも数少ない台湾を承認している国で、かなりの台湾の移住者が来ていました。

しかし数はたかが知れた人数で、ブラジルなどとは比較が出来ません、政府も一党独裁で一人のドイツ系2世の大統領が長い間、パラグワイの国土を押えていました。政治も停滞して眠る様な感じだと聞いた事が有ります、そこに移住してきた日本人が先ほどの第二次大戦の戦争の経験が有る人から見れば、乗っ取りを考える事は、笑い話ではない真剣さが含まれていたと感じます。
当時、日本はまだ高度成長期に入る前でした。冷戦の狭間で日本の将来も不安が沢山あり、戦後海外から引き上げてきた日本人が沢山、農村や都会に溢れて住んでいた時代でした。
アメリカが沢山の政治干渉をして、経済的にもパワー溢れる政策で世界戦略の告}を動かしていた時代です。その頃の日本人が憧れていた世界の告}でした。なぜか引かれる事があつたと思います。
 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画 
第2回
パラグワイに行くと、何せ広い事が分ります、点と線の僅かな町と道路が繋がった国です。そこの首都アスンシヨンから1時間半ぐらい車で走った所に、ラ・コルメナと言う移住地を開いたのが初めてでした。そこは第二次大戦で後続の移住者も途切れて過酷な経済的な困窮で、脱落して今では僅かな日本人が住んで居ますが、そこで育った2世がかなりパラグワイ社会に入っていきました。中には隣国のアルゼンチンで教育を受けて戦後の日系社会のリーダーとなった人もいます、パラグワイはガラニー族の原住民とスペイン人の侵略者との混血が大多数を占めていますが、ヨーロッパからの移住者もかなり住んで居ます、ガラニ−族は混血していない純粋なインジオはアジア人の象徴である、蒙古斑点が幼児の時にお尻に有ると言われています。言葉も日本語に近い単語が有りまして、私が『雨が降り出したーー!雨雨!』と言ったら、インジオが『あまーー!あまーー!』と言っていたので聞いたら、雨の事でした。同じ様な感じの発音で、驚いた事が有ります。そんな事で、バス停で立ち話をしていたら、驚いた事にインジオの言葉のガラニー語で話し掛けられた事が有ります、
『お前はどこから来た種族かとーー!』そんな経験も有りますのでパラグワイは昔、昔にアジアの国から流れて行った民族が創った国でないかと感じます、そんな感じで仲間が話していく内に、誰かがここを日本人に第二の郷にしたらと言う話を切り出しました。『そだ、そだーー!』と酔った勢いで話しが進み始め、まず地図と図面を用意して来ました。かなり詳しいパラグワイの政治と軍隊の国「を記した本も買ってきて、まずその勉強会から手始めに始め、だんだんと面白くなって来ました。そんな事で調べると興味から、実行計画にまで立案してみたら、と言う事になり、夜になると集まって話をして、検討したプランを組み立て、壊して、ますます面白くなって来ました。
パラグワイは余り知られていませんが世界で一番物価が安い都市です、アスンシオンの首都は昨年に続いて、今年も世界で一番物価の安い、住みやすい所と認められています、そんな国ですが、40年前はもっとのんびりとした雰囲気が有り、日本からの移住者が当時の世界情勢を見て、激動する国際社会の力関係を移住した国と照らし合わせて、余りの隙の有る内陸国の政治とその社会を肌で感じて、一つ国盗りの計画を立ててみたらと言う気持ちになつたと感じます。内陸国ですから、海軍などは有りませんので、当時のパラグワイの軍備は戦車が第二次大戦で使用された旧式なアメリカの余剰軍備品のタンクを僅かに所持していたぐらいで、軍の歩兵が使用していたライフルもこれまた第二次大戦の払い下げ品でした。当時、自衛隊も同じ装備でしたので、訓練を受けた自衛隊出身の移住者がそれを見て、だいたいのパラグワイ軍の火力の推定をしていました。答えは『自衛隊と比較にならないほど小規模なパラグワイ軍の火力だーー!』と答えを出していました。
その当時、旧日本軍の実戦経験の有る、有狽ネ下士官が沢山就職して、自衛隊の中核を作っていたからでした。立案した原案を彼が見せてくれ、議論が始まりました。だんだんと興味と関心が湧いてきて、毎夜遅くまで話していました。
 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画 
第3回
まず1960年代の世界の動きを見ていると、社会主義国家と資本主義国家で民主主義を押し進める国とが分裂、抗争していました。特にアメリカは世界の警察として、あらゆる世界の国々に影響を与え、政治力と経済力を合わせて、そこに世界最大の軍事力をバックに、ドルと言う貨幣が通用して、その総合の力があらゆる国の政治、経済の中に浸透して、動いていました。
一国を動かして政権を握る事は、自由な選挙での政権把握。独裁に近い中での選挙で対立候補を迫害、抹殺して政権獲得。軍事クデターでの現政権を倒し、政権の座に居るものを抹殺又は追放、幽閉して、政権を獲得。まず、このどれかに相当しますが、私達が考えて計画したのは世界の政治社会から、まあー!受け入れられる政権交替でした。
それにはジックリと下準備をして、底辺のパラグワイ社会でこれからの新しい国としたいと考える人々を動かして、それに反対しその様なな動きを止め様としたり、軍事力で制圧しようとする時だけ、対抗の為に軍事力の使用をその様な人々を訓練して行ない、新しい国作りの原動力と考えていました。
その為の工作員と、軍事顧問的な日本人移住者をパラグワイに送る為に日本で訓練して、あらゆる事態に即応出来る優秀な人材を少数集めて草の根的な活動を起して、連絡通信網を築き、移住地を拠点に底辺の活動拠点を確保して、パラグワイ各地に分散して、移住地の拠点を広げ、放送設備を確保してラジオとTVでパラグワイ国民に宣伝、啓蒙放送出来る体制を作り、日本政府の後押しでパラグワイ新政権を樹立させる事を狙っていました。これがだいたいの粗筋で、これから検討を重ねてプランを練り直し、現実に即応して行動出来る態勢は何かと考えて行きました。
1960年代のパラグワイは貧困の差が激しくて、一部の地主と高級官僚、首都や都市部で事業をしている中産階級の上部がビジネスを独占して、それに当てはまらない階級の差が大きくて貧困レベルにいる多くのパラグワイ人は隣国のアルゼンチンやブラジルに出稼ぎに出ていました。
アルゼンチンのブエノスの首都の工事現場などで働く労働者の一部はパラグワイからの出稼ぎが多くを占めていました。1960年代のキューバの革命以来、多くの社会主義者の活動が起きて、ボリビアなどはすでに、ゲバラの革命主義者の活動がすでに起きていました。
カストロ政権の目標とする社会主義は、かなり難しくて、ボリビアやパラグワイなどでは、ほんの一部の人間が賛成して耳を貸すぐらいで、革命的社会主義など、否定的な考えの人が多数を占めていました。それは貧しくても食べる事に困るほどの貧困ではなかったからでした。
キューバの様に砂糖きび産業とアメリカ相手の歓楽観光の大きな2つの産業しか無かった時代、どこかで革命的社会主義が受け入れられた余地があったと思います、パラグワイでの政権交替を考える時、まったく新しい底辺から積み上げて行く、生活改善と向上がもたらす、社会の裕福な環境を目指せば必ず、広い土地と豊かな肥えた大地で、将来の基盤が出来上がり、新しい政権を支持して、賛同する人々がパラグワイ人の中から多数出てくる
と感じました。当時日本が東京オリンピックを開催して、国の躍進を計り、成功して、国民総資産が倍増して、道路、公共設備鉄道整備、湾口整備などの多くの事業が動いて、日本と言う国が躍進して、向上し、改善され、新しい国に生まれ変わって行きました。当時私達が議論して、目標としたのは、その当時日本が取った政策でした。そのような政策活動で一つの国が日本と言う国と連携して動く様になれば多きな収穫と感じました。
アルベルト、フジモリ前大統領が、ペルーの国を改善して、向上した事は多くの実績が功績となって一国を動かした事を見れば分ります、実現可狽ネ事などですーー!
 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画  
第4回
パラグワイでの移住地を考える時、当時停滞がすでに始まった移住地の経済を考えると、もし、私達が考えて、立案した国盗り計画を推進したら、一石2鳥の利点が有ると感じました。
戦前の満州国の建設当時、日本人の入植を計る為に東北地方などから多くの、次男三男などの土地を持てない人を集団で移住させ、ロシアとの国境線付近に移住地を展開させて、国防の役目も持たせていました。しかし当時の軍部は満州の現地住民の土地をただ同然で取り上げて土地から追い出して、入植地を作ったのでしたが、この様なやり方では成功するはずが無く、終戦時に多くの日本人入植者達が襲われて、悲劇が起きた事が証明しています。当時のパラグワイには沢山の満州からの引上げ者が再び移住して来た人達が居ました。詳しく話しを聞く事が出来まして国盗りの本質とは何かーー!と言う根本を感じていました。
それはパラグワイ国民を主体に協力と協和を基本に移住地を開き、国民生活の向上を図り、生活基盤の安定とその持続が有れば必ず、パラグワイ人と日本人が力合わせて政権を取れると思いました。まず若い優秀なパラグワイ人を日本に送り、農業や工業の原点を教えて、日本的な技術を収得させ、教育を通じて洗脳的な新しい政治の運営を学ぶ事をさせれば、一番の協力者となると感じていました。その様な人をリーダーとして、中核として日本人入植地を基地にして、現地で軽工業の建設と農地の大規模開発を合わせて進めれば、多くの現地人の就職も作る事が出来て、基本的な運動となると感じていました。
パラグワイでの国盗りを企画する時、肝心な資金をどうするかが一番の悩みでした。この様な企画をしている、素っ頓狂の若者を当時の政治家や資本家などが資金を出してくれる事は100%無いと思っていました。政治家などは自分の選挙区に落Zの分捕りは汚い手を使っても、人気を維持する為にはあらゆる工作をして、分捕って来ている様でした。日本の国家百年の先を見て時代を読める政治家などは居ないと感じていましたが、私がふと思いついた人は、戦時中は中国の上海を中心にOO機関として特務工作、対中国戦略の分析、戦略物資の獲得、満州国での産業育成の為の政界と財界工作を封荘艪ゥら隠れた所で遂行し、ドンと言われていました。戦後は政治の世界でも昔の繋がりを持って深く関り、財界の中でも広い人脈を維持して、特に任侠の義理と兄弟分として杯を交わした親分衆を把ねて居た人物を知っていました。その様な人物であれば、パラグワイ国盗りなどの話しを、真面目に聞いてくれると感じました。一説では旧陸軍の隠匿資産をかなり隠して、持っていると奄ウれていた人です。
それと当時の社会でドンが口を挿んで仲介して、それに逆らうと杯を交わした親分が『先生の為なら、この命は惜しくは無い!』と交渉相手に凄みを効かして、上手く揉め事も収める力量が有る人物でした。まずその様な人物が納得して力貸してくれるのであれば、財界などからの裏金的な寄付も受ける事が出来て、政治家の協力も得られると思っていました。当時の金額にして100億ぐらいの資金でした。実質的にはその半分の落Zがあれば実行が可狽ナはないかと思っていました。後の半分は濫の資金として国盗りが成功した後の活動資金と一部は軍資金と思っていました。
私達が資金の一番の協力者と感じていた人物の名前は、ここでは書く事は控えます、時代の中で歴史を刻んだ人ですから、過去に消え去った事ですが、この文を読んで人物を想定して下さい。
 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画 
第5回
パラグワイで、日本政府の移住政策は長期的な展望が欠けていたと指摘されていましたが、その事は直ぐに生産物の販路の閉塞として移住地に帰って来ていました。農家では生産物だ売れない事には、生活の設計が作れません。まずラ.コルメナと言う首都アスンシヨンに近い最初の移住地では綿花、大豆などが栽培されましたが、内陸国の悲しさ運送費が掛り採算が厳しい情勢でした。
戦後移住地として開かれた所では、ツングー(油桐の実)を栽培して短期作物に大豆や、トウモロコシなどを栽培していました。
一部、ブラジル国境の移住地ではコーヒーなどの栽培もしていました。アマンバイ農協と言われていましたが、原始林の伐採後はハッカの草を植えて、収穫してエキスを取り一時はかなりの栽培でしたがそれも直ぐに下火となり、桐の植林なども行なわれて色々な作物を模索して、首都で需要がある養鶏の卵が注目されて居ました。しかしこれと言った決定打が有りませんでした。このままでは移住者が生活苦で移住地を放棄して、隣国のブラジルや、アルゼンチンに再移住して行く、事例が増えていました。
私達はその先例で当時アルゼンチンに来ていました。的確な将来を模索する内に、国盗りが具体化して、日本政府の政策としてはその様な事は不可狽ナすから、個人の集団が模索の中から最上の将来の方針を掴んだと感じました。
その当時かなりの数の若者が仕事を求めて移住地などで頑張って居ましたが、移住者の子供も毎年かなりの数が育って移住地ではその求職を埋めることは不可狽ナ、まずそこから考えて行きました。彼等は語学としてはスペイン語を話して、日本語も日本語学校に通い、かなりある程度の基礎は出来ていました。その様な若者を移住地で訓練して、日本に現地パラグワイ人と組んで研修に送れば成果が倍増すると思っていました。実行してその運動に賛成してくれる人間が居なければ何事も動きません。
パラグワイ移住者の子弟と、パラグワイ人の若者を組み合せて日本に研修に送り、教育と実習をもとに、これからのパラグワイの未来を研究させ、自分達で将来の国をいかに動かすかの自覚を付けさせるのが一番重要と感じました。
これは当時発展して成長している日本を見れば、まだかなり遅れたパラグワイの発展を、もし自分達が参加して新しい国作りをして日本の様に、ダイナミックに変革させる事が出来ると思えば必ず成功すると感じていました。当時アメリカなどが中南米などで裏工作して政権を動かしていた事は、かなりの政治腐敗と貧困が付いていました。その様な事が無い、下から組上げて行く変革です。まだ当時のパラグワイの文盲率はかなり有り、徴兵制度で新兵として来た若者を軍隊で読み書きを指導していた時代です。
お隣りのアルゼンチンでも読み書きに支障がある新兵は22%ぐらいが居て、その中の17%ぐらいは完全に再教育が必要と、当時の新聞に出ていました。その様な時代です、無から染め上げて行く事はもっと効果が有り、その熱烈な支持者とすることが出来ると感じていました。中国の社会主義の誕生を見ても若い成年男女が、農村や辺地での思想改造運動を起して成功させています。
我々は日本に手紙を送りその事を打診しました。答えは我々が期待する良い返事でした。農民塾と言う感じの、これからの若者を訓練する施設でした。そこでは機械の整備から修理まで農業に関する基礎と、これからの機械耕作を教え、新しい国造りを目指すクラスでした。
 ではまた、次回をお楽しみに!

パラグワイ国盗り計画 
第6回
パラグワイを40年前に日本で話しても、どこかと聞かれるのが普通でした。ブラジルを知っている人は沢山いましたが、その隣りの国だと言うと、『それは知りませんでしたーー!』と言う人が大勢いました。内陸国で海が無いと言うと、魚は食べられるのかと聞く人が多く居ました。日本から見たらそれが普通です。しかし当時、日本から移住していた国は、ブラジル、アルゼンチンパラグワイ、ボリビア、それから中米のドミニカでした。
しかし60年の初めにはドミニカ移住も破綻していて、パラグワイなどに再移住して来ていました。中には日本に帰国した人達もいました。私達が当時の状況を見て、パラグワイを安定した、希望のある移住地にする事と、これからの日本の将来を考えて、日本以外で日本人の民族的発展をさせる事が出来る国は無いか考えた時、パラグワイでメノニータと言う宗教集団が新天地を作る為に移住して来て、独自の自治と農業集団的な集落を作り、パラグワイ政府から徴兵などを受けない取り決めをして、発展していました。
私達がその方法を土台に、日本人移住地を拡大して政治的な力を作り、その輪を広げて、いざと言う時の為に、爪を砥ぎその爪を武器と出来る様に考えていました。必ず政治的な運動の推進には反対勢力の抵抗が有るからです、簡単に倒せる事も有ると思っていました。また反対に多くの犠牲も出る可柏ォも考えていましたが、その様なシナリオは何度も推測して、犠牲を最小限に止める事を考えて、計画を練り上げていました。メタニーノはドイツ系の集団が多くて、当時のドイツ系2世の大統領が多大に援助して、便宜を図っていた事は広く知られていました。
その様なことで、我々が目指す天下盗りはパラグワイに日系の息が掛った大統領か首相を据える事でした。それからアメとムチでの建設を目指していました。アメは投資と融資と無償援助で、多くの大学を建設して、日本から留学したら授業料免除で卒業後三ヵ年仕事をしたら、多額の一時金と日本と同じ卒業資格を与え、パラグワイ永住希望者には土地と資金と5ヵ年先までの生活保障を与えて、安心して開発と事業の推進が出来る様に考えていました。
昔、戦前の台湾政策を見ても、日本政府が落Zの半分近くに相当する資金を投資して、成功した事を考えると、それと台湾に国立大学を建設して、教育と学問的な平等で誰でもが教育を受けることが出来る様になり、その土台となった事が解ります。
ペルーのフジモリ前大統領は、学校建設を10年先の国の為の投資として建設して、それが成功していました。基本的な国盗りはそれが目標でした。
パラグワイの国盗りを計画しだして、アメの美味しい餌は書きましたが、ムチの方は計画遂行をする上での障害と反対派の抵抗を考えて、それを叩き潰すか、側面からの工作で根回しして切り崩すか、しかし、人の考えと心理を動かす事は中々出来ません。
その事を考えて、最終的には武力的抵抗があると感じていました。しかし、移住地と言う所は、日本からの移住者の中には色々な方が来ていました。旧日本軍で大戦中は南方戦線で迫撃砲中隊で指揮官をしていた人や、東北の田舎から軍隊に召集されて下士官として最前線のトチカや陣地の爆破の専門家として、訓練を受けて実際に上陸作戦で部下を指揮して、上陸地点を確保して成功させた人など、満州国境に居た人は、ロシア軍が雪崩を撃って進撃して来た時に、対峙して僅かな兵で狙撃銃を使い、ロシア兵を多数倒し進撃を止めた人も居ました。話しを聞くと、ロシア軍の輸送トラックの隊列を襲撃して、燃料と弾薬を多数破壊した様に、小人数での訓練された兵士は、多大の成果を上げることを聞いていました。そこで我々は、まだ旧軍出身で自衛隊にも居た事が有る実戦経験豊富な方々から、話しを聞き、少人数での戦闘ゲリラ的な行動方法を聞きました。戦後故郷の東北の田舎で、雪が積もると炭焼きの傍ら狩猟もしていたと言う、まさにパラグワイのジャングルでもインジオが顔負けの活動をしている人も居ました。
その様な人と連絡を取りました。返事は『面白い話しだ!』と答えてくれました。どちらかと言うと、その様な方は行動力があり、地球の裏側のパラグワイまで自分の人生と将来を賭けて移住して来る考えの人でした。私達が酒の席から始めた話ですが、その様な方々が賛成してくれた事を考えると、パラグワイは当時国盗りに一番最適で、日本人がその行動を起す最適な場所と、国で有ると感じる人が沢山居たと言う事です、話しを具体化して行くと、昔、サラリーマン的な生活をしていた人はまずダメで、話しの夢も持っていない、枠に入った人間が多かった感じを受けました。手応えとして少数、新鋭、事前に準備周到に用意して計画して、浮フ政治工作と平行しながら裏では爪を磨くと言う両面の活動を維持して、いざと言う時の即応が出来る事を考えていました。
 では次回をお楽しみに!




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