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ブラジルで企業を起こした和田さんの「さわやか」さ�@
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前述の40年前の奉加帳の「紅顔の美少年??」が40年後にどうなっているのか興味をお持ちの方もいるのではないかと思いますが、昨年JETROのテクノセンター石井ミッションのメンバーとして来伯されたフリージャーナリスト松田 健さんがご自分のホームページハロハロに紹介して呉れている文章がありますので転載しておきます。掲載の似顔絵は、最近イグアテミのショピングセンターで15レアイスを払って描いて貰ったものです。 |
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ブラジルで起業した和田さんの「さわやか」さ �@
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アジア・ジャーナリスト 松田 健
二〇〇一年年初から二月にかけて、一度行ってみたいものだと
前から考えていた南米各国に行く機会があった。宇宙から地球を
見れば、ブラジルで歩く人の足の先に日本があり、地球の反対側
に住む人々をアンティパディーズ(antipodes)という。中南米
ではスペイン語が主流だが、一八二二年にポルトガルから独立し
たブラジルだけはポルトガル語が国語。
北半球とは気候も反対になり、春が十一月、秋は五月。ブラジ
ル最南州、リオ・グランデ・ド・スール州(南大河州)の大都市
であるポルト・アレグレでは、毎年十月ころが最高の季節で、ジ
ャカランダの紫色の花が街路を埋める。人口約百三十万のポル
ト・アレグレ市で風景や人種を観察していて、まるでヨーロッパ
に来たような気分になった。世界最大のコーヒー豆の産出国であ
るだけに、あちこちでコーヒーをご馳走になることが多いのだ
が、晩飯は牛肉料理が圧倒的に多い。かつてスペインからやって
きたイエズス会宣教師が残していった牛が繁殖、今では同州の基
幹産業が牛肉になっているのだが、一九五七年にポルト・アレグ
レ近郊に進出した倉敷紡績や九九年末に操業した米国デル・コン
ピュータの工場など、世界から各工業を受け入れてきた。
ブラジルには日系人が百三十万人ほどおり、世界最大の日系人
社会がある。かつてのように移民、定住できるビザを取得するこ
とは難しくなったが、日本の二十数倍の国土があるこの大国にこ
の数十年に移住した一世の日本人もかなりいる。そんな一人が、
日本の大手商社マンだった和田好司さん。ポルト・アレグレに三
十九年住んでいる和田さんは、昭和十五年一月二日生まれ。本籍
は神戸市中央区中山手通(元は生田区)にあり、父親の和田升三
さんは現在九十一歳で健在、大阪府茨木市で一人暮らしをされて
おり、日本にいる和田さんの兄らが世話をしている。母親は和田
さんが渡伯してすぐ同年に亡くしている。
和田さんは神戸生まれで、早稲田大学第�T政治経済学部政治学
科を一九六五年に卒業した。早稲田の杜で青春を満喫した和田さ
んだが、在学中に中南米七ヶ国を二年間に渡って歩いたので、卒
業するまでに六年かかった。港神戸に生まれたので、中学二年生
の時社会の先生に連れられた課外授業の一つとして、神戸のメリ
ケン波止場に行った時、そこにはブラジルに移住した船を送るた
めに使われた紙テープが残っているのを拾った記憶がある。これ
が和田さんとブラジルが繋がるきっかけだった。
早稲田大学に入学し、雄弁会、政治学会等のサークル活動を通
じて、将来は、政治家になって赤い絨毯の上で働くことに憧れ
た。しかし、六〇年安保反対闘争に参加、国会議事堂前で夜明か
し、首相官邸に乱入、神戸高校の先輩で東大生だった神場美智子
(かんば・みちこ)さんが扼殺された事件等などで政治への不信
感がでるなど、挫折した。
そして海外への雄飛を考え、大学二年生だった秋の早稲田祭で
『海外移住研究会』というクラブがあることを知って入部した。
そして翌年の春休みに九州七県を二十一日間、移住思想啓蒙演説
をして回ったが坊主頭の生徒が目を輝かせて 聞き入っている姿
を見て罪滅ぼしに移住しないとかっこがつかないことになったの
だ。そこで早稲田大学を三年で休学(一九六二から六四年まで)
し中南米八カ国(ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチン、チリ、
ボリビア、パラグアイ、パナマ、コロンビア)と米国を放浪する
旅に出た。
=次号に続く=
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