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ブラジルで企業を起こした和田さんの「さわやか」さA
『私たちの40年!!』編纂に当っては、印刷、出版を目指していましたのでその構成原案等も作成していましたが種々理由により最終的にはHPの形で寄せられた資料、写真、寄稿文等を皆で共有する事になりました。HPの持つ便利さ汎用性に頼り作成者の一方的な判断による編集方針、基準、指針と言った統一性を欠く形での羅列になってしまっているのではないかと危惧しますが、当分は、この形式で順次掲載出来る物を積み重ねて行きある段階で再編集、書式に沿った形で纏める事を考えることにしてやっていく積りですのでご了承下さい。 
『私たちの40年!!』(40年後の船内新聞号外)の編纂の“云い出しぺ”でありこのHPの作成管理者の個人的な出過ぎも目に付くかと思いますが、同船者の一人である和田を通して語られるその生きざま、友人、家族、仕事等がベースになって多くの同船者がこれにジョインして皆で一人一人の40年を語り合う場として活用していければと念願しております。皆さんの投稿をお待ちします。掲載写真は、数少ない四十年近く前の若かりし頃の写真をご披露します。


ブラジルで起業した和田さんの「さわやか」さ A

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 アジア・ジャーナリスト 松田 健

 早稲田大学に復学したのがちょうど、東京オリンピックの年だ
った。新聞配達のアルバイトで学資を稼いだ。折り込み広告の重
さが今も肩に残っているのだが、大学を卒業、一九六五年の移住
船でブラジルに戻った。

 そして首都ブラジリアから七百キロ北のグルピー市(ゴヤス、
現トカンチンス州)で牛飼いを始めた。この周囲三百キロ以内に
は日本人は誰もいなかった。和田さんは、この町でパンツ一枚で
もバナナやピラルクを食べながら土着すればそのうち日本人もや
ってくるだろうと考えた。

 当時の移住者は三種の神器といえるものをブラジルに持ってく
るのがあたりまえだった。カメラ、時計、ラジオである。和田さ
んはこれらを売ってカネにしたりしたが、肝臓を病んで弱気にな
った。しかし町に行って鉛筆を握れば生きていけると二十四頭の
牛と涙の別れを惜しんだ和田さんはリオに出た。リオで石川島播
磨の造船所で一年数ヶ月働いていたのだが、ポルト・アレグレに
ある日本の総領事館で 日本の大学を卒業した移住、政治、経済
担当の現地補助員を募集しているとの新聞広告を見た和田さん
は、これに応募した。そして一九六七年の冬、寒いポルト・アレ
グレに引越した。一九七四年一月、丸紅がポルト・アレグレ事務
所を開設するために現地採用された。

 七七年には和田さんは同ポルト・アレグレ出張所長に昇格し
た。二十二年間に渡って(同所長を十七年間、丸紅ブラジル会社
役員を四年半)務めたブラジルの丸紅を九五年九月で退職した。
「一介の素浪人に戻って、暴れたい。五五歳で立とうと考えまし
た」と和田さん。

 丸紅ブラジル会社を退職するハラを決めた和田さんは、法科大
学に通って弁護士資格を得た。当初は「自前の弁護士事務所を開
設しよう」と考えたからだったが、奥さんから、「お父さんは、
資格はとっても経験が無い。日本企業や日系人が多いサンパウロ
での開業ならまだましだが、ポルト・アレグレで事務所を開いて
も生活できない。(現地役員だから定年が無いので)我慢して丸
紅ブラジル会社で勤め続けてほしい」と当初は反対された。だが
話し合いの結果、「これまで丸紅で培ってきた経験と信用、実績
を基にビジネスをやるのなら、家族全員の蓄えを注ぎ込んででも
お父さんを応援しましょう」と、「さわやか商会」が誕生した。

 「さわやか商会」は家族の蓄えを資本金にしたので、家族全員
の名前が入った会社にしようと考えた和田さんは、長女の弥生、
二女の茜、三女の小百合という三人の娘の頭文字を並べて「さや
か」という社名にしようかと考えた。だが、これでは女性の名前
そのものであり、社名として相応しくないと、ファミリーネーム
の頭文字であるワを入れて、家族全員の頭文字が揃う『さわやか
商会』と名づけた。

 一九九五年九月二六日にリオグランデ・ド・スール州商業登記
所に登録完了した。当初資本金三万レアイス(当時三万米ド
ル)、和田好司氏を代表とする有限会社で、各種貿易の他、ブラ
ジル特産の「プロポリス」や乾燥キノコなど健康食品のブラジル
国内販売や、日本でブラジルビジネスを検討中の企業に対するコ
ンサルなども行っている。「丸紅を窓口とするビジネス、日本の
専門商社のブラジル代理店、地場取引、輸出入代行、市場調査、
通訳、翻訳と何でも屋です。幸い、倒産せずに続いているのは、
経営審議会長としての女房の適切な助言のお陰」と和田さんは感
謝するのが奥さんであるけい子さん(五三歳)。けい子さんは大
阪生まれ、中学まで日本だったが、一九六二年、十三歳の時に家
族と共にブラジルに移住し、現在は連邦大学助教授。そこで「さ
わやか商会」の経営に直接は関与できないが適切なアドバイスを
してくれる。

 ブラジルで再び小学校からやり直したけい子さんは、大学院の
博士課程まで終え、現在はリオグランデ・ド・スール州のケミカ
ルエンジニアリングの助教授で同大学院修士課程のコーディネー
ター。奥さんの妹にあたる西村リリアさん(ブラジル生まれの二
世)は、けい子さんの教え子にもあたり、ケミカルエンジニアで
ある。リリアさんは、大学卒業後にシーメンスのブラジル子会社
で八年間勤めたが、九六年に「さわやか商会」に出資した。和田
さんにとって義理の妹にあたるリリアさん(三六歳)がなかなか
のビジネスウーマン。「エンジニアながら売買に興味を示し、貿
易、国内商売に活躍してくれている。ビジネスに対してきわめて
真摯」と和田さんは期待している。

 和田さんはブラジルの労働手帳によると就労三十二年目に入っ
ており、ブラジル社会保障院より恩給(月額八七四レアイス=四
四〇ドル)を受けるアポゼンタード(現役を引退した恩給生活
者)資格がある。だが恩給だけではとても生活出来ない事情も
「さわやか商会」設立の背景だったが、「正直にいって、金銭面
よりも何かやっているという充実感、満足感」が和田さんを支え
ている。そしてこの「さわやか商会」が、ファミリーの充実感を
満たす場所でもありたいと考えている。

 奥様は、大学退職後も専門分野で技術コンサルタントをしたい
考えだから、「さわやか商会」の経営に関わることは難しい。長
女の弥生さん(ブラジル名はエリーゼさん、二四歳)は、連邦大
学新聞学科を卒業して日系企業に就職。NTTコミュニケーショ
ンとの合弁で『日本の情報をポルトガル語でブラジルにブラジル
の情報を日本語で日本に』とのコンセプトのポルタール・サイト
を開設する「JBコミュニケーション」(週刊ポルトガル語新聞
や雑誌を発行している新聞社)の記者で、「いつか自分の本を出
したい」目標がある。十四歳の時に日本語能力検定試験一級にパ
スしてから、米国のノース・カロライナのハイスクールを卒業し
ており、英語にも堪能。次女の茜さん(同クリスチアーネ、二一
歳)はまだ連邦大学建築学科に在籍中。連邦大学芸術学部音楽科
ピアノ専攻に入学したが限界を感じ、OSPA(ポルトアレグレ
市交響楽団)でクラリネットを勉強中で作曲活動をしてきた。今
は建築学科で建築士になるための方向転換中で、「建築設計事務
所を持つ目標」がある。

 三女の小百合さん(二〇歳)は連邦大学経営学部三年に在学
中。「お父さんの会社みたいにちっぽけではない多国籍企業で働
きたい」方針。和田さんにとって最も利用度がなさそうな三女だ
が、「社会の厳しさを知ったら気が変わって、仕事を手伝ってく
れるようになる日がくる」かも知れないと期待している。

 ブラジルでは二〇〇一年は二月二十三日の夜からカーニバル休
み。和田さん夫婦は今、隣の州であるサンタカタリーナ州の温
泉、ピラツーバに行っている。

 三月十七日、伝統文化国際交流協会が主催する、東京浅草「ロ
ック座」(斉藤智恵子会長)の親善公演が、サンパウロに続いて
ポルト・アレグレでも行われる。和田さんはこの親善公演に協力
しており、司会や通訳も努める。「入場無料の慈善興業です。ヒ
ョットコ踊り、花魁など、米国のラスベガスでも評判だった故国
日本、江戸の伝統と浅草大衆芸能の踊りをここの日系人に堪能し
て欲しい」と和田さんは準備に奔走中。「生涯現役で、あと二十
年間は働きます」と和田さんは気力に満ちている。



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