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アルゼンチンに入られた同船者【田上 英明】さんに43年ぶりにお会いしました。
仕事でちょくちょくブエノス・アイレスに行く機会が増えた。
アルゼンチンには、同船者が合計39人入られた。皆さん開拓移住者として家族でアルゼンチンのイグアスの滝があるミッショネスという州のガールアッペス移住地に入られたが、ただ一人だけ呼び寄せ移住者として単身でブエノス・アイレスに入られた仲間がいる。鹿児島県出身の田上英明さん当時21歳である。1941年の4月1日生まれで神戸を発つ日が丁度21歳の誕生日で郷里の鹿児島から74歳になっていた厳父より『ユウヤクフナデ ヲシュクスバ ンザ イチチ』との神戸移住斡旋所内3階40号室宛の電報を今も大事にファイルされておられる。船の中では単身移住者の元気な魔齊メ部隊の猛者だったらしい。(本人の言)
写真は、田上さんのご自宅内にある日本庭園でご家族揃っての一枚を撮らせて貰ったものです。


去る5月21日(土)にブエノス滞在中、ポルトアレグレに戻る飛行機が午後だったので土曜日でもあり是非田上さんに逢いたいとの希望を同じく同船者の日本国大使館に勤務している三浦大祐さんお願いしておいた所、電話番号と住所を教えて呉れて喜び勇み電話を掛けた。何時も同船者への挨拶は、ある程度船内の生活から覚えている人には、『お久し振りですね。懐かしいですね』から入りますが、681名もいたので船倉が同じとか横浜、神戸の移住斡旋所で同じ部屋にいたとか、産業開発青年隊(33名)コチア産業組合のコチア青年(17名)、豊和工業の野球移民(8名)、花嫁移民(16名)、各県人別の集まり、入植移住地別、呼び寄せ単独青年独立愚連隊?等のグループで仲良し部隊が出来ていたようですが、その独立愚連隊の隊長格が田上さんだったようです。船内で伊藤敏夫移住監督官をてこずらしたとのことでサントスで大半が下船してしまいブエノスまで向かうガールアッペス移住地行きの39人とパラグアイのピラポ移住地に行く67人が残り、荷降ろし作業に停泊しいたあるぜんちな丸の待ち時間に伊藤監督とサントスの町でぱったり会い誘われるままにサントスで飲み歩いたという豪傑でその後伊藤監督がブエノスの大使館付けの移住事業部の領事として赴任して来られ歓迎会の席上、サントスでの飲み仲間であること迄I、その再会を喜び在任中は、家族ぐるみのお付き合いをしたとの話を聞かせて呉れました。

本来なら私も早稲田の学生で潜りの移住者、単独呼び寄せ移住者で田上さんたちと同じ独立愚連隊に所属しているはずだったのですが、どうしたものか新聞班に入り毎日原稿作成、字の上手な美人女性にガリ版を切って貰い謄写版の印刷等をしながら船内新聞『さくら』の発行を港に停船中も続ける羽目になり田上さんの事を全く覚えていませんでした。従い田上さんに電話が通じた時に何と言えば良いか一瞬迷い『はじめまして』では可笑しいし結局『同船者のブラジルから来た和田ですが…』と切り出した次第ですが、田上さんからの開口一番は、『声だけは変わっていないな!』とのことでその意味が分からず唖然としましたが、良く聞いて見るとあるぜんちな丸がパナマ運河を通過中マイクを離さずに解説?していた時の声が耳に残っていたとの事で顔は思い出しもしないが声で分かったとのことで驚きました。パナマ運河通過の情景は今もおぼろげ乍覚えていますが、私がマイクを掴んで解説をしていた等は思いも及ばぬ事実で本当にそんなことがあったのかと不思議な思いをしました。『私たちの40年!!』は、681人の仲間の移住先国への定着の過程を書き残すことを目的にしていますが、思い出すこともなかった若い頃の自分自身の再発見への旅でもあると思うようになって来ています。

田上さんの営業用の大きなバンを息子さんのARIEL FABIANさん(1968年生まれ)が運転してホテルまで迎えに来て呉れました。昼食を田上さんのところでご馳走になり飛行場まで送って呉れる事になり午前中時間が許す限りブエノスを案内して呉れるとのことでアエロパルケ(市内の飛行場)、パレルモ公園内にある日本庭園等の前を通り最初に車を止めたのがあるぜんちな丸が43年前に停泊したラプラタ河沿いの岸壁の近くでそのすぐ近くにブエノスの移民収容所がありガールアッペスに行く家族の人たちは、パラグアイに入植する家族と共に約1週間この岸壁の近くの収容所で過ごしたとのことで田上さんは、あるぜんちな丸が出航する時は、このまままた日本に帰りたいとも思ったとのことでした。写真撮影が禁止されている港湾施設とのことで残念ながら遠くから眺めるだけとなりましたが、田上さんも43年前のアルゼンチンにおける最初の第一歩を踏み出した場所を訪れそれなりの感慨に耽っておられました。

ブエノスは、東京より先に地下鉄が開通しており既に50年前にはできあがった町でその後まったく変わらない下町を通り有名なBOCA地区を案内して貰い簡単な家族へのお土産を買い求めタンゴ発祥の地、オナシスが日雇い労働者として働いていたという港町を後にして田上さんのお宅を訪問した。

ブエノスの町を息子さんの運転で案内して貰いながら色々お聞きした話を忘れてしまわない内に書き留めることにします。
田上さんは、鹿児島県に生まれ13歳の時にアルゼンチンから郷里に錦を飾った恰幅の良い郷里の成功者、山本某の話を聞き自分もアルゼンチンに移住したいと思ったとのこと。それを実現させる手段として鹿児島県拓殖講習所の4期生として入所、移住に必要な農業の手解きを受ける。18才の時に福岡市で当時1個が3000円もするマスクメロンの存在を知り、農業をするなら大土地はいらない。小さな土地で町の中で高度の農業をするとの自分なりの目標を決めた。その若い頃の自分が遣りたい理想の農業形態に固執してそれを見事に完成させている。周りが高層のマンションに取り囲まれたブエノスの市内に2600m2の大きな土地に2階建ての住居を高ヲ、日本庭園、温室、路地植えの各種の草花を育て大小の鉢植え鑑賞植物、園芸用の小道具から腐植土、肥料、石灰までの販売をご家族で手広くやっておられた。訪問した土曜日も昼過ぎまでは店を開けているとのことで奥さん(アルゼンチン生まれのMARTA LEONOR SONODA TANOUE)が店番をしておられたが沢山のお客さんが花を求めていました。

当時まだ畑が多かったブエノスアイレスの市内にある農地を借地しておられた奥さんのご両親鹿児島県出身の園田さんが呼び寄せ人でパトロン(雇い主)で園田家の次女のMARTA LEONORさんとアルゼンチン到着後2年目に結婚されたとの事でその後軍制の大統領就任時に借地開放令が出され借地をしている農業者は、裁判所が決める正当価格で2年以内に借地購入する優先権が得られるとの幸運に恵まれ銀行ローン等を組み先代から長く借地していた土地をそのまま購入することが出来、ブエノスの街中で農業を営む幸運を掴んでおられ43年間同じ場所に住んでいます。同船者の中では、ガールアッペスに残られた多田直広さん、高松康三さん、パラグアイのピラポ移住地で頑張っておられる園田さん他の数家族、ボリビアサンファン移住地の本多一家、リオのフンシャル移住地の岩本sん、村山さんアマゾンのトメアス移住地の佐藤さん、海谷さんご一家等数える程しか残っていません。移住地でなくブエノスの町の中という特殊事情を考えると借地開放令といった国の政策もあったとは言えその維持にはそれなりの苦労をされたのではないかと想像します。

宅地に中に日本庭園があり魚が食べられないことから沢山の人を集めてやる焼肉パーテイ用の炭焼き炉に隣接する食堂兼応接間で賑やかな昼食をご馳走になった。長女のCLAUDIA MONICA 田上さん(1965年生まれ公認会計士)さんは、ご主人がウルグアイのブラジルとの国境の町リブラメントで生まれたウルグアイ人で弁護士をしておられる。次女のMIRIAN BEATRIZ田上さん(1971年生まれ)は、情報産業インタネット関連の会社に勤めておれるとの事です。長男のARIEL FABIAN 田上さん(1968年生まれ)は、お父さんを手伝い市内の庭園農業を継いで行くとの事で近く日系2世と結婚する嵐閧ニの事で田上さんを喜ばせている。土曜日でもあり家族全員が集合しており、たまたま結婚記念日でもあるとの事でワインで乾杯しました。

10数年前に仕事を息子さんに任せ奥さんとお二人で6ヶ月程日本に行っておられたことがあるとのことですが、矢張り老後は住み慣れたアルゼンチンでのんびりと孫の世話でもしながら過ごしたいとのことです。魚が食べられなくなり特殊異常体質で会合等には殆ど参加しなくなったとの事ですが、アッサード(焼肉)は、家で良くやっているとの事。次回はブエノス近郊の同船者も集めて焼肉パーテイーをしようとのことでその日が来るのを楽しみにしています。鹿児島県人会の役員としても活躍しており町の中の農業を実現させていました。




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