ブラジル中西部への6708kmの家族大遠征旅行の記録 (前編)
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これまで大学の休みの間に日頃の不義理?を返済する意味も兼ねて女房殿と休暇旅行を楽しむ習慣が付いており、2002年の5月にチリ旅行、2003年8月に日本、2004年8月には大阪の妹を案内してのアルゼンチン、パラグアイ、イグアスの滝見学の旅、2005年2月にフェルナンド・デ・ノロニアと女房孝行をしてきておりますが(何れも『私たちの40年!!』寄稿集に詳細記録)、今回の冬休みには自動車で広いブラジルを南から北に走り切ろうとの計画で大学の休みに入って直ぐの7月26日早朝、ホンダCIVICに荷物を満載して第1陣として女房殿を遠征隊長に娘3人が同行出発した。途中苦労したようですが無事3日目にゴヤス州の州都ゴイアニアに辿り付き私が参加するまでブラジリア近郊で9日間過ごし8月3日にやっと仕事を終えて後半から参加の私が合流しML仲間のブラジリアにお住まいの河野さんのアルトパライゾの別荘をお借りして世界遺産のヴェアデイロス高原公園を3日間歩いて回る。既にMLでも流していますが、私のブラジルでの実生活を始めた当時の北ゴヤス、現トカンチンス州のグルピーの町を娘達に見せて遣れ、青春への邂逅、とても懐かしい旅となりました。
写真は、ヴェアデイロ高原の黄色い花が咲いている清清しい高原の全員写真です。
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幸せ家族大遠征開始!! 画像掲示板7月31日より
大学の休暇に入り女房殿を隊長に娘3人が揃ってブラジル中部地方まで大遠征に出かけました。出来れば私も最初から参加したかったのですが、今日、明日はサンタカタリーナ州に2泊3日で出張し木曜日にポルトアレグレに戻り、金甌日には演歌歌手の井上祐見さんがポルトアレグレに入って来られ30日のポルトアレグレ公演をお手伝いして31日早朝、サンパウロに出て10時半から岡村 淳さんの【アマゾンの読経】鑑賞会に参加、8月1日は、客先訪問と夜には丸紅ブラジル会社の創立50周年記念式典に参加、8月2日午前中客先訪問、昼の飛行機でブラジリアに飛びやっとこの遠征隊に合流できる嵐閧ナす。何か大事な仕事が出てくれば途中で抜け出すことになるかも知れませんが出来るだけ最後まで家族と一緒にポルトアレグレまで戻って来たいと念願しております。
ブラジルの冬休み、家族総出の車での旅行、旅先からのお便り写真等もご披露します。
上記は、7月26日に『私たちの40年!!』MLに流したものですが、先発女性軍は、既に2300km程北に走りブラジリア近郊のPIRENOPOLISに滞在中で高原の町が気に入ったようでロッククライミングを全員で楽しんでいるとの事で月曜日まで滞在し私のブラジリア到着を待つとの事ですが、私はどうしても休暇に入る前にリオの押出機据付現場に出向く必要が出て来ておりサンパウロからリオに飛びブラジリア入りが8月3日(水)に延びてしまい家族から文句が出てきています。早く合流したいのですが。。。
写真は、出発時に撮ったものです。
8月3日(水) 第1日目
リオでの仕事を終えて朝7時45分発のVARIG便でブラジリアに飛び先発隊の女性群に合流する。ブラジリア見学、ショッピング等を済ませ午後4時に荷物を纏めブラジリアを発ち河野さんの別荘のあるアルトパライーゾ・デ・ゴヤスに向かう。220kmの距離で澄み切った青空に雲が流れ遠い昔の私のブラジルの原点が残っている懐かしい景色を見ながらの旅は感慨深いものとなる。運転は次女の茜が一人で頑張って呉れる。暗くなって7時過ぎにアルトパライーゾの町に着く。GO115線の街道に沿って両側に町が広がる人口2万人程度の町。夜、夕食に歩いて回るがそれ程危険を感じる事も無く街灯も整備しており、マンマと言うレストランで夕食を取る。
疲れていたので早めに寝ることにしたが、河野さんの別荘には電話があるのでインタネットの電話接続をTRYしたが電話線を取り込みアダプターが無く実現せず。明日接続用のアダプターを買って再度TRYしてみる事にさする。
河野さんの別荘は、トトロハウスという名が付いておりお寺の感じがする屋根の高い2階建てで入った所の応接間は、90M平方程度の大部屋で昔はレストラン兼ショウルームになっていたとの事で照明が明るく気持ちの良い別荘です。下に4人寝れる設備があり、2階にも4人分の施設がある。娘たちは、2階を選んだので我々は下で休むことにする。
8月4日(木) 第2日目
高原の気候で夜は冷え込み明け方寒さで目が覚める。長袖のポルトアレグレで使用している寝間着を取り出して重装備でまたベッドに潜り込む。朝の気温は、ブラジルの冬並に冷え込み空気が澄んで気持ちの良い清清しい朝の空気を胸一杯吸い込む。
7時過ぎにはトトロハウスのお手伝いさんのTERESAさんが来てくれてホテルに負けない朝食を用意してくれる。冷えたパイナップルの甘さが歯に染みる。ブラジルの味の一つで好きである。
TERESAさんがインタネット接続の為のアダプターを持って来てくれたので早速、IGに繋ごうとしたが、アルトパライーゾの町にはIGの接続ポイントが無く、近くの町を探したが見つからず220km離れたブラジリアの市外通話をTRYしたが、設定が難しく結局繋がらず、休暇中でもあり諦めて今日の訪問嵐閧フ観光にでる。
楽しみにしていたシャパーダ・ドス・ヴィアデイロスの2000年にUNESCOの世界自然遺産に指定された国立公園で荒木さんに紹介して頂いていた通り素晴らしい景色で40年前に私自身が住んでいたゴヤス州の見慣れた潅木の高原は、本当に懐かしい。
国立公園に入るには案内人を付けるのが義務付けられておりサンジョールジと言う1990年代まで水晶のガリンポ(採掘)で栄えた町で案内人を探す。43歳のMARIAさんという前歯が抜けた案内人は、ゴヤスの地元で生まれ育ち死んでいくと本人がいいように現在の案内人の資格をとり山歩きをするまでは、非常に苦労したとの事で、畑仕事、水晶の採掘田舎での重労働に耐えて来たとの話を元気良く山を歩きながら話してくれました。
キャニオン1、キャニオン2、カリオッカの滝の3箇所を見て回る5200mのツリーリャーと言う山歩きのコースを11時に入山、午後6時の閉山ぎりぎりまで途中で娘たちは水浴浴びを楽しみながら7時間に渡る山歩きは普段から歩く訓練をしているとはいえ大変でした。最近使うことが少なくなって来ているゴルフシューズを履きカメラをバンドの腰に下げ山歩きを楽しみました。撮った写真が178枚、画像掲示板にも幾つか掲載します。
昼食抜きの山歩きで夕食をサンジョージの町で済ませてからアルトパライーゾのトトロハウスに戻ったのが8時前でお手伝いのテレーザさんが今晩も電気を煌々と付けておいて呉れたので温かみを感じる【我が家】に辿り付きました。河野さんの心使いが有難い。
シャワーを浴び何とかインタネットに接続したいと思いブラジリアのIGのアクセスポイントを指定してあれこれ遣っていたら何とか通じました。2日分のメール128通を受信して一応接続を切りこれを叩いています。
明日も山歩きが続きそうで早めに寝ることにしました。
8月5日(金) 第3日目
今朝も気持ち良く目覚め高原の朝、肌寒さを感じる。靴下を履いていない足元、キーボードを叩く手はかじかむ寒さでこれが日中は30度を越す温度に上がり照り付ける太陽は強烈、帽子なしで歩くと頭が焼け付く。朝は半袖のシャツの上に冬用の長袖のシャツを重ねて着る。
今朝もお手伝いのTERESAさんが来てくれてパパイアに目玉焼きの焼き立て他、朝食を準備してくれる。別荘の前の道をアスファルト化する工事が始まっており、コールタールを道に撒き散らす前に車を近くのガャ潟塔|ストまで運び出しておいた方が良いとのTERESAさんの進言で早速運び出す。
ゴヤスの農業は、焼畑農業が主で8月に伐採した山に火を付けて山焼きをして9月にその年の最初の雨(PRIMEIRA CHUVA)が来ると同時に焼畑に種子を撒きその後の雨ですくすく成長するというのが長年のパターンであったが、近年では伐採、山焼きが出来る土地が近くになくなって来ている事、地球温暖化の影響等もあり9月に最初の雨が来て植え付けてもその後10月、11月まで雨が来なく総ての植え付けた種子が枯れてしまい収穫ゼロと言った災難に遭うことが多く農業は継続した雨の来る10月、11月、12月に始まり雨季(冬の間)だけが中心となる。
雨季には、ヴェアデイロスの昨日言ったキャニオンには川の水が増水して近寄れないとの案内人のMARIAさんの説明で乾燥期の最後の時期8月の一番良い季節に来たとの事でした。
今日も午前9時半頃にトトロハウスを出て夜、戻ってきたのが午後9時で11時間半の車での旅となる。トトロハウスの前の道が完全舗装になり準備には時間を掛けていたので有ろうが最後の仕上げは見事一日で終わらせていた。
午前中は、私設公園であるVALE da LUAで遊んだが、ここは岩盤がPEDRA de SABAO(石鹸の石=蝋石?)で出来ている所に川が出来、長い間に岩盤を削りその侵食作業が色々の奇岩、丸い穴を抉り水が流れる場所には大きな丸い穴があり鬼の住処に来たような感じがします。私が行けない滝壷の近くや横穴に入って喜んでいる娘達を見ていると多分これが最後になるであろう家族全員の休暇旅行に一緒に来て良かったと思う。
サンジョージの町で昼食をして午後からは、SALTO do RAIZAMAと言う個人の農場を私設公園にして入場料R$5,00(250円程度)を取る施設で何れも入園入り口に農場の雇い人のような感じのおじさんがいて入場料を取り簡単な地図と説明書を呉れる。ここでも60歳以上の老人?は入場無料で払わなくて良いのに慣れてきてポルトアレグレの市営バスに乗る時のようなバツの悪さは、感じなくなった。
娘たちは、水場があれば飛び込み楽しんでいるが、もともと泳ぎが得意でなく子供のころに何度も中耳炎で悩んだ私は、海水パンツを持って来ておらず長ズボンにスパイクレスのゴルフシューズ出歩いており足を漬けることも無く娘たちを眺めながら写真を撮っている。毎日、凄い運動量でトトロハウスに戻ってくるとぐったりしてしまう。明日もまたヴェアデイロス国立公園の山歩きコースを一日掛けて行うとの事で体力回復を目指して早めに寝ることにする。
御免なさい。旅行報告書の4日目を送っていませんでした。後先になりましたが下記して置きます。
8月6日(土) 第4日目
昨夜10時半に寝て今朝起きたのが7時半、実に9時間寝たことになる。疲れていたのであろう。
毎日が日曜日の休暇中は、曜日が分からなくなるが今日は土曜日でトトロハウスの4日目になる。初期の計画では既にグルピーを訪問しバナナの島経由、マットグロッモノ入っている嵐閧ェ私の休暇参加が遅れた事とトトロハウスが気にいっている事からヴェアデイロス高原UNESCO指定世界自然遺産の地を離れようとしない。全部見て回るには最低7日間が必要との事。初期のスケジュールは捨ててグルピーだけには行き真っ直ぐ帰ることになりそう。これまでの走行距離が3200kmを記録していることから7000km程度に成りそうである。
今日もお手伝いさんのTERESAさんが来て呉れて朝食を用意して呉れる。
9時半にトトロハウスを出てヴェアデイロス高原国立公園に入り今回は、SALTOコースの一日を過ごす。1990年代まで採掘していたという水晶の採掘場が幾つも残る道を3km近く歩いて120メーターの落差がある滝にでる。見事な景色に息を呑む思いがするが、3日間続けての絶景になれて来た事もあり写真に収める程度で感激は薄れる。続いて80Mの落差の滝、そのまた上流の天然プールに落差の小さい渓流等丸一日掛けて見て回る。最後の渓流には、世界自然遺産を紹介するためのドクメント記録班がロンドンから遠征して来ているとの事でその撮影のために訪問客がうろついては困るとかで30分近く撮影現場から退去させられるというハプニングあり、娘たちは文句タラタラ。
昔は家族旅行と言えば我々が子供たちを連れて行くといったスタンスで親の主導権の下に実施されたが、久振りの今回は、娘たち主導の親が連れて行って貰うといったスタンスとなり年齢の差、考え方の差で非常に疲れる旅行となり、これが最後の家族旅行(特に自動車による遠征)となるであろうと思う。後年、ブラジル中西部の旅の時は、『お父さんも元気だったのに。。。』と思い出して貰う事になりそうです。
3日間で都合35km程の山歩きに疲れ切り(肉体的にも子供たちに合せる努力にも)明日も山歩きの場合は、トトロハウスで休息と決めていた所、お父さんが行かないのであれば私達も諦めるとの事で明日は、愈々グルピーに向けて出立する事になった。
サンジョージの町で夕食を済ませてトトロハウスに帰ろうとした所で偶然にもポルトアレグレのお友達に会い、ビールを飲みながら1時間半の歓談?トトロハウスに戻ったのが夜の10時過ぎとなりシャワーを浴びて11時半には寝てしまう。
トトロハウスのオーナでブラジリアに住んでおられる河野さんと電話で明日向かうグルピーへの道路情報を聞き出し一部舗装の無い近道と全線舗装の迂回道の二通りあるとの事で所要時間、通過都市の歴史的価値等を判断して舗装道路使用に決める。
流石、河野さんの守備範囲、縄張りのゴヤス、トカンチンスだけありどこの町にも河野さんの足跡が残されており大きな仕事をしているのだなーと感心する。
ヴェアデイロスの案内人のVALTERさんが河野さんのことを『アルトパライーゾのドトール・ジョポネースなら有名で俺も知っている』と言っていました。
8月7日(日) 第5日目
今朝は、遣り残していた報告書作成の仕事を思い出し午前4時に起きて長袖に背広を羽織り報告書を作成しメールで送る。来週も仕事を離れ家族旅行に付き合う嵐閧ナあるが途中から抜け出す羽目にならなければと願っている。
今朝も何時ものようにTERESAさんの用意してくれた果物とアセローラのジュースにカフェー頂き9時半にトトロハウスを出発する。ニッケランヂアまでの未舗装の道を取るつもりでしたが、河野さんのサジェスチオンに従いアルトパライーゾから直接北に道を選び全行程舗装の道路を取り途中の町を見ながら夕刻6時までの8時間半を掛けてグルピーの町まで辿り着く事ができた。走行距離は、570km?歴史の残るナチビダーデの町に立ち寄り古い帝政に建設された教会の廃墟を見学記念写真を撮る。
トカンチンス河に面したペイシ(魚)の町の川岸のプライアに行くが町の対岸に砂浜が有るが、渡し船の時間が悪く明るい内にグルピーの町に着きたいとの気持ちもありぐずる娘達を説得しトカンチンス河での水浴を諦めさえてグルピーに向かう。
グルピーの町には夕日が運転方向正面にありけい子が運転し辛いようであったが隣で落ち行く夕日を見ながら40年振りのグルピーの町に日が暮れれる前に到着する。PEIXEの町からの道がグルピーのどの当りに入ってくるのか覚えていないが40年前に住んでいたグルピーの町とは見違える変化であり当時3000人程度の人口の町が何とトカンチンス州第3番目の町に発展し6万5000人の人口に膨れ上がっていた。町が出来た当時から計画都市でアヴェニーダか整然と切られRUA1ヽUA10まで区画整理された町は変わっていない筈であるがまばらに有った住居がびっしりと詰まって並んでいる様子は、昔を想像できない。VENASA PLAZと言う町の中心地にあるホテルの入り町の地図が無いかどうか聞いてがそんなものは無いとの事で唖然とする。夕食は近くを探したが適当な店が見つからず結局ホテルのVENESAレストランで今回の旅行の目的地到達を祝い記念夕食会を開く。
長女の弥生は、訪日4回で日本語が達者であることもあり訪日時に家族、親戚、私の友人から色々情報を仕入れていたようであるが、次女の茜、三女の小百合は、訪日は1度だけで日本語も余り使いたがら無いことから、私のグルピー当時の情報を聞いたことも無かったようで食事をしながら私のポルトアレグレに住み着く以前の初期ブラジルの生活を順序立てて説明した。このグルピーの町に50町歩の土地を購入し24頭の牛を飼いアルファッセ、トマト等を植え薪を切って町に売りに行くといった2年間の信じられない牧場主を夢見ての生活は娘達ならずとも信じがたい事実で他人事のような興味本位の反応を示していた。いずれ機会を改めてこのグルピー当時の生活を綴ってみたいと思いますが、自分で井戸を掘り(専門の穴掘り人の作業を見ていた程度ですが)、粘土をこねてレンガのフォームに詰め込み日照で乾かしたアドボと言う天然レンガを沢山作りこれを積み立てて建てた家、ドラム缶のお風呂、日本人の計画開拓地でない開拓最前線の生活、300km四方に殆ど日本人がいない中で自分が半ズボンにシャツでバナナとマンジョカ(タピオカ芋)の粉とピラルク(アマゾン鯉)の肉を食べながら土着すれば回りに日本人が集まってくるとの理想に燃えて入り込んだべレンーブラジリア街道の開拓の町グルピーには、2年間しか我慢できずリオに出て石川島播磨造船所での勤務1年後、ポルトアレグレに移りポルトアレグレ総領事館に5年半、丸紅ポルトアレグレ出張所に21年、さわやか商会を起こして10年今日に至っているが、肝臓を患い何でパンツ一枚でゴヤスの山奥でこんな生活をしていないといけないのか?大きな町に出てペンを握れば人に伍せず生活できるとの思いが頭を擡げブラジルで通用する資格を取得再度弁護士としてグルピーに戻るとの自分を納得させてのリオ行きであったが24頭の牛を友人に預け何時か戻る日が有ると信じてグルピーの町をでたが、1974年に念願通りポルトアレグレのカトリック大学の法学部を卒業、弁護士の資格を取得した時点でまたグルピーに戻って来ていれば私の人生は、どう展開していただろうか?
娘達に我青春の一時期の様子を語り伝えながら私自身の人生を考えていました。
今回の我青春へのタイムスリップ、親父の一部なりとも娘達に伝えて置きたいとの目的は、助ェに果たせた気がする。娘達がどのように捕らえそれを消化して行くかは別にして親父 の若いころの人物像が彼女達なりに掴めたのではないかと思う。
微熱を感じる思い頭を抱えながら長い長い一日を終える。
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