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ボリビア・サンファン移住地50周年=開拓、その苦闘の末に=連載(上)(中)(下)=ニッケイ新聞 堀江剛史記者の現地レポート
1962年のあるぜんちな丸第12次航でサンファン移住地に入植された仲間が99人おりますが、サンファン移住地は50周年記念を迎えたとの事。42年前にサンファン移住地を訪問しておりますが前回ボリビア訪問時にはラパスとチチカカ湖、アマゾン流域の低湿地地帯を訪問しただけでサンファン移住地に立ち寄りませんでした。来年には稲見さんが息子さん二人(双子)を連れてボリビアを訪問される計画を立てており是非ご一緒したいと思います。今回建立された立派な記念碑を見て来たいと願っています。サンファン移住地には、本多さんごご兄弟始め現在も数家族が頑張っておられ是非訪問して旧交を温めたいと計画しております。ボリビアの首都ラパスで一番ホテルを経営しておられる同船者南雲さんにもお会いできるのを楽しみにしております。
写真は、1962年5月22日サントス上陸から10日間も掛けて辿り着いたサンタクルス・ラセーラの字が読み取れる田舎町の鉄道駅到着時の風景です。この写真は、本多さんが記念帳に唐阨tけて呉れたものをスキャナーに掛けた貴重なものです。 


ボリビア・サンファン移住地50周年=開拓、その苦闘の末に=連載(上)=式典に4閣僚列席=記念碑の揮毫は小泉首相
2005年8月31日(水)
【サンファン発=堀江剛史記者】犬も通わぬサンファンも今年で入植五諸N=。一九五五年の西川移民を嚆矢にその歴史が始まった同移住地は今月二藷、入植五庶年を迎えた。式典には政府から四閣僚も駆けつけ、国内における評価をアピールする機会ともなった。今年一月、移住地出身の伴井勝美氏(39、二世)が初のサンファン市長に就任。七月には移住地がボリビア最高勲章「コンドル・デ・ロス・アンデス」が叙勲されるという幾重もの喜びに沸くサンファンを訪れた。
     
 二藷午前八時過ぎ。除幕式のため、覆いがかけられた入植記念碑を遠巻きに続々と集まる参列者。空は野焼きの煙と薄い雲に覆われ、むっとする特有の熱気に包まれていた。
 「サントスからバウルー、リンス、カンポグランデなんか通ってね。サンタクルスまで藷くらいかかったかな」
 野外会場に用意された席に座り、式典が始まるのを待つサンファン農牧総合協同組合の伴井富雄組合長は往時を回顧した。
 約五藷の航海を経て、サントスから鉄道に乗り換えた移住者たちは、ノロエステ沿線都市での停車を繰り返しながら、ボリビア、サンタクルスに向かった。
 停車時間を利用しての洗濯や炊事、時には薪の運搬も手伝った鉄道の旅。その先々で移住者たちを優しく迎えた同胞の好意は、開拓生活前夜にさした一条の光だった。
 今月六、藷付けのニッケイ新聞紙面に「心をこめて感謝致します」と銘打たれたサンファン移住地からの広告が掲載された。
 「戦前に移住した人にオニギリもらってね。よく覚えてるよ。そんなジャングルに行っても何もないから、(ブラジルに)残れ、残れって。親切だったね」
  ▽  ▽  ▽
 会場内のほぼ中央に建てられた入植五庶年記念碑。幅庶オメートル、高さ三メートル。制作を担当したのは、ボリビアを代浮キる芸術家、ロルヒオ・ヴァカ氏。
 壁面には、開拓当初の生活や移住者を運んだ蒸気機関車、密林伐採、農業の発展を遂げた象徴でもあるサイロ。そして中央には移住協定締結に尽力したエステンメ[ロ大統領が描かれている。色彩豊かにサンファンの半世紀が阜サされた作品だ。
 碑建設に奔走した早坂和夫氏は「入植五諸Nに相応しい贈り物となった。ボリビア国との友好と地域住民との掛け橋となっていきたい」とあいさつ。
 元海外協会連合会初代ボリビア支部長であった若槻泰雄氏作詞の「ボリビア開拓の歌」がコレヒオ・サンファンの鼓笛隊によって演奏され、除幕時歓声を上げた約七百人の出席者も声を合わせた。
 この碑には、計画、呼び寄せ、単身、花嫁などサンファンの地を踏んだ全移住者、千六百二曙ワ人の名前が石版に刻まれている。現在、そのうち、現在移住地に残るのは約二割だという。
 記念碑碑前に据えられた小泉首相の揮毫碑の除幕もサンファン日本ボリビア協会、日比野正靭会長と在ボリビア大使館、白川光徳特命全権大使の手によって行われた。
 「拓けゆく友好の懸け橋」。揮毫の言葉は、移住地内で募集。地域でのサンファンが担うこれからの使命を確認した。
  ▽  ▽  ▽
 記念碑の背後には鬱蒼とした森が広がる。かつて「犬も通わぬサンファン」と言われた当時を忘れまいと、移住地内に残った原始林を自然公園として保存するプロジェクトが現在、進められている。つづく


ボリビアサンファン移住地50周年=開拓、その苦闘の末に=連載(中)=礎を築いた西川移民=開拓の歴史に悲劇もあり
ニッケイ新聞 2005年9月1日(木)
 「この地を拓き、この地に生き、この地を愛し、この地に眠る霊魂に安らぎを」
 式典当日までに亡くなった二百八庶O人の名を刻んだ物故者碑の除幕式と慰霊祭も続いて行われ、参列した出席者たちは一分間の黙祷を行った。
 JICAボリビア事務所の蔵本文吉所長を初めとした来賓、ボリビア国内にある盾フ県人会関係者が献花し、故人の遺徳を偲んだ。
 信念の人だった=Bサンファン農協の組合長も務めた父、菊春さんを六七年に亡くした守田将臣さん(62)。遺族代侮メとして謝辞を述べるなかで「日本政府関係諸機関の援助はあったが、日本人の気概があればこそ」と話し、移住者の自負を覗かせた。
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 「娘が殺されたんです」物故者碑の前で田島美沙富さん(71)は、溢れる涙をハンカチでぬぐった。
 一九六六年曙雌六日、当時四歳だった長女、暢美(まさみ)ちゃんが原始林の中で、仲良しだった吉村良二ちゃん(当時四歳)と共に惨殺死体となって発見された。
 犯人は田島さんの農場で働いていた現地人従業員だった。『サンファン移住地三諸N史』によると、この事件を機に、移住地の治安確保の声が高くなったという。
 移住地建設という歴史の裏には、数々の悲劇があった。
 「何で殺されたのか…、今でも分からない」
田島さんは四諸Nが経った今でも、腑に落ちない様子で嗚咽をこらえた。
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 「夢中だった。後を振りかえる余裕なんてなかった」
 鎌田キクヨさん(80)は、二人の子供を抱え、西川移民の一員としてサンファンに移住。
 斧一本でジャングルに立ち向かった夫、司さんを支え、子供たちを育てきった。深く刻まれたその皺一本一本から、その矜持がにじみ出る。
 政府間の移住協定が交渉中であったことから、〇次移民、試験移民ともいわれた西川移民。西川利通氏(故人)が計画したサトウキビ栽培と精糖工場建設が当初の目的だった。
 しかし、様々な事情から計画は初期に頓挫、西川氏は五六年、移住地を去っている。
 サンファンの礎を築いた八庶オ人の西川移民。移住地に残る二曙ワ人が今回功労賞を受けた。
 「開拓当時の話は小さいころから聞いてた。天秤棒で川から水汲んで、夜はカンテラだったって」。鎌田さんの孫、ありさ(26、二世)さんは祖母を誇りに思う。
 五歳まで移住地で過ごし現在、コチャバンバ市に住む西川氏の長女、和子さん(53)も娘、ケイコさん(18)と共に会場に姿を見せた。
 「馬車とか茅葺きの家とか覚えてますね。本当に苦労した五諸Nだったと思います。おめでとうございますと言いたい」
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 「軽い気持ちで来たのよ。永住するなんてねえ、いずれ帰ると思ってた」池田(西川移民、旧姓岡部)恵美子さん(69)はあっけらかんと笑う。
 「若い世代がこれから移住地を背負ってくれるでしょ」。移住地は今、世代交替の時期を迎えている。つづく(堀江剛史記者)


ボリビア・サンファン移住地50周年=開拓、その苦闘の末に=連載(下)=移住地支える若い世代=初代サンファン市長も誕生
ニッケイ新聞 2005年9月2日(金)
 現在、西川橋がかかる移住地入口に流れるテヘリヤ川。
 「三途の川って呼ばれてた。『出るも地獄、残るも地獄』ってね」。ブルドーザーを操り、移住地造成に携わった〃ブル池〃こと池田篤雄(70)さんはいう。「あのころは本当にひどかった」
 ゼロからの出発。「騙されたっていうのが実感だったよね」。五七年に入植した日比野会長(66)は当時を振り返る。
 移住地から五キロ離れた収容所に置いた荷物を取りに行く。夜明け前に出て、家に帰ると日は暮れた。それだけで二ヵ月を費やした。「馬殺しの道」といわれた泥沼だらけの道が行く手を阻んだ。
 入植当時、道路総建設は早急な課題だった。
 「ブルドーザーが着いた日はほんと嬉しくてね、みんなで一日中、見守ってたよ」と日比野会長。移住者に希望を与えたその轟音が甦る。
 先月、政府から贈られた最高勲章「コンドル・デ・ロス・アンデス」。移住地を代浮オて受け取った日比野会長は記念式典であいさつした。
 道もない原始林、ほえざるの声におびえ、蛇や蚊に悩まされた苦難の連続だったあの日々。今では夢のような体験だった=。
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 GUIA(案内係)の名札をつけ、式典会場に目を配るのは、青年会のメンバーたち。四序Z人の会員のうち、移住地に残るのは署柏l。今回三署l近くが古里に集った。
 副会長、日比野善之さん(25、二世)は、建設関係の仕事でサンタクルス在住。
 「どこにいても、開拓に来た祖父母、両親のことをみんな誇りに思っていると思う」と背筋を伸ばした。
 「庶O時間かかりました」と笑うのは、中米エル・サルバドールから帰省した仁田原幸さん(27)優(18)さん姉妹。
 幸さんは二〇〇〇年に発行された日本人移住一〇〇年誌「ボリビアに生きる」のスペイン語版の翻訳を手掛けた。
 「おかげでサンファンの歴史も勉強できたし、やっぱり生まれ育ったところだから」とあくまで自然体。
 祝賀会の幕開けに、サンファンで処齡N間習った日本舞踊を披露した優さん。「五庶年で踊りたかったから」と満足そうに微笑んだ。
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 「我々の役割は一世の築いたものを受け継ぎ、周囲と友好関係を作っていくこと」。今年一月、サンファン初代市長となった伴井勝美さん(39)は撫を引き締める。
 昨年末の選挙で所属政党が五四%を得票、五年間の舵取りを担う。
 現在、地域住民が移住地に対し、土地を要求するなどの問題も持ちあがっており、全住民の八%にしか過ぎない日系人と現地住民との経済格差は開くばかり。反発も根強いという。
 「厳しい中でのスタートですが、お互いに尊敬できる関係作りがサンファン発展への課題でもあり、挑戦です」。若きリーダーはほぼ日系人で占められた会場を見渡した。
 今月二処齠、サンファン出身の長谷倫明さんが大統領候補に出馬楓セした。半世紀がたった今、移住地生まれの新世代は受け継いだ開拓精神を発揮し、更なる一歩を踏み出そうとしている。おわり
   (堀江剛史記者)



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