早大海外移住研究会OBの神谷 光彦さんの『私たちの40年』
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私が在学中の1959年から1965年(2年間は、移住者として南米放浪の旅)の早稲田大学には、泥臭い海外移住研究会と言うサークルがあり日本学生移住連盟の中核大学の一つで早稲田の全盛時代だったかも知れません。サークルの海外移住研究会の仲間で入学は同じ59年で61年から1年間コロンビア、ブラジル、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン等を訪問し卒業後商社マンとしてブエノスアイレスに4年弱勤務した経験をお持ちの神谷 光彦さんと今年の4月に東京でお会いした時にお願いしていた原稿が届きました。大学を出てからの40年を振り返り特に学生時代5年間と商社マン時代がスペイン語、南米との関わりで輝いていたとの貴重な経験を克明に語って呉れております。一人一人の40年拾い集めたいですね。
写真は、今年4月東京での歓迎会の席上で撮らせて頂いた神谷さんです。
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私たちの40年
与えられたタイトルは、おそらく学校を卒業してから40年(以上)お前は(特にラテンアメリカ関係で)何をしてきたのか、ちょっと思い出して書いて見ろと言った意味であると解釈しました。そしてつくづく考えてみたところ、小生の40年は人様にお話しするような代物ではないことを痛感致しました。むしろその前の5年間の学生時代と、卒業直後の約10年間にだけ、この場で語るべきことが少しは有ったような気がします。そうは言っても、タイトルを与えてくれた人に失礼にならない程度に、まず全体の40年の方を片づけたいと思います。
学校を出てから大手商社M社に就職しました。学生時代にスペイン語を勉強し、挙げ句の果てに一年間休学して南米旅行(これについては後述)をしたので、どうしてもまた行きたいと思ったからです。そして首尾よく勤続4年足らずでアルゼンチン現地法人勤務の辞令をもらい、ブエノスアイレスへ赴任しました。ブエノスアイレスには4年近く駐在してから帰国致しました。この間にラテンアメリカでの生活を大いにエンジョイしました。ブエノスアイレスでは、本社派遣社員としてかなりの権限を持ち管理的な仕事をしていました。ところが帰国後の本社では一兵卒としての仕事に戻りました。これにはまいりました。もともと南米へ行きたいから商社へ入ったので、商社でどんな仕事をしたいとか、出世したいとか言う考えはあまり持ってなかったので、相当応えました。
その結果10年程でその商社を辞めました。その後自力で起業しようと試みましたが、うまくいかずサラリーマンに戻りました。再び始めたサラリーマンとして一番長くやった仕事は、米国系銀行の東京支店、シンガポール支店、ニューヨーク本店での銀行・証券(投資銀行)業務です。給与面では恵まれていましたが、余り興味の持てる仕事ではなかったような気がします。これで40年は終わりました。
それでは学生時代の話に戻ります。一年生の時はスペイン語の勉強はしていませんでした。なぜなら、第2外国語はフランス語だったからです。ところが小生が大学に入った1959年は運悪く(良く)の60年安保改訂反対闘争の年だったのです。クラス会では小生を含む数人を除き、大半の級友が当時流行の空想的社会主義思想にとりつかれ(連等に踊らされ)、安保改訂反対のデモに参加していたようでした。小生は焦りました。どうしていい方向への改訂に賛成できないのか不思議でした。みんな日米安保がなければ日本国はどうなるか言うことに関心がなかったようですね(最近はそういったことに関心を持つ人が増えてきたようです)。
四面楚歌と言った感じの小生が取った次の行動は、所属する大学の枠を外れて仲間を見つけることでした。それにはカトリック教会が一番だと思い、カトリック思想の勉強会に通うようになりました。この行動がスペイン語及び中南米への興味に繋がっていくとは当初は夢想だにしませんでした。カトリックの勉強会では、スペイン人の神父及び神学生数名と知り合いました。彼等の多くはカトリック布教に熱心な上、人間的にもなかなか立派な人たちでした。この中の一人が小生に盛んにスペイン語を勉強するよう勧めました。小生もすぐその気になりました。スペイン語は、同じラテン系言語であるフランス語の基礎があったので、文法では苦労しなかったし、発音も割合と簡単なのでめきめき学習が進み、会話もかなり上達しました。
その後スペイン語研究会という大学のサークルに加入して、さらに勉強を続けました。そのうちにスペインだけでなく、同じスペイン語を話すラテンアメリカの国々に興味を持つようになり、日系人を含む多数の在日及び訪日中のラテンアメリカ人と知り会いました。彼等が混血人も含めれば全員移民の子孫であることを知り、小生もラテンアメリカで一旗揚げたいと思うようになりました。そこで今度は大学の海外移住研究会へも加入しました。
それからは、スペイン語研究会で知り合った友人S君と一緒に南米移住の研究とスペイン語の勉強にたいへん力を入れました。そしてS君と共に大学2年生の後半から準備して3年生になった時一年間の休学届けを出し、あこがれの南米へ出発しました。当時は一般国民へのパスポートの発給は制限されておりましたが、南米の日本人移住地(特にコロンビア国パルミーラ移住地)調査という名目で瑞ソして、何とか手に入れました。但し、学生のパスポート取得には必須の大学総長推薦状は、船会社発行の乗船切符が必要だったりして、大変な思いをしました。当時はまだまだ船による旅行が盛んでした。
1961年6月K汽船の貨物船はハワイ、米国本土、メキシコ及び全中米諸国へ寄港した後、下船嵐閧フコロンビア国太平洋岸の港ブエナベンツーラへ着きました。約1ヶ月の旅だったと記憶しております。それからすぐバスでパルミーラ移住地に向かい、移住地有力者のSさんのお宅に寄宿しました。この地の日系人は昭和初期に来住されたとのことですが、1961年当時では戦時中の米国抑留等の艱難を克服して、相当な水準の生活をしておられました。筆舌に尽くしがたい苦労があったと思われますが、綿花やサトウキビなどの大規模栽培に成功したとのことでした。
コロンビアのパルミーラ移住地の後、農業関係ではボリビアのサンフアン移住地、パラグアイのイグアス移住地を訪問しました。何れもパルミーラと異り農地を開墾中と言うことで、大変苦労されているようでした。農業を外れたところでは、ペルーのリマ市内及び近郷で成功している日系商工業者を訪ね、話を聞きました。そしてアルゼンチンでは、ブエノスアイレス市内の日系洗濯業者、郊外の花卉栽培業者から、移住に関して様々な情報を得ました。これら両国では、当時では“人種差別”とか“スペイン語力”など、問題含みだったらしいのですが、おおむねその子女たちの成功に期待を寄せていたようです。多くの子女が現地の大学を優秀な成績で出て、弁護士や医師等の自由業に就き活躍していました。今後もこういう傾向は続くものと想像しております。いずれにせよ、移住一世は捨て石となる覚悟をしていた人が多かったという印象を持ちました。
これら各国移住者(地)訪問後、小生は南米移住をあきらめました。農業技術を持っていないので就農は無理だし、都市で子供の成長に期待しながら、捨て石になるのも耐えられないと思ったからです。その結果大手商社に入社して、とにかく南米に駐在しようと考え、それを実現しました。小生としては、南米移住には挫折しましたが、あこがれの南米にスペイン語を話しながら4年近く駐在したので、強い達成感さえ感じたほどです。しかしながら、“40年”は商社員として南米駐在を終えた時つまり30台前半で全部終わってしまっていたような気がしてなりません。したがって小生の場合は“私たちの10年”と言い換えた方がぴったり来るような40年でした。
以上
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