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『紀州熊野の梅仙人 永井 恒夫さんの昨今!!』HSLNの交信から抜粋
今年4月訪日時に紀州熊野の梅仙人さんこと永井恒夫さんの紀州南部の梅の里にある別荘に一夜お世話になりました。『私たちの40年!!』MLの関西のメンバーの皆さんが明石大橋の麓の舞子浜に集まって下さいそれが終わってから大阪に住む妹を案内役に紀州田辺まで出向きました。若い頃の40年前の写真は、拝見しておりましたが現在の梅仙人さんはどんな方かお会いするのを楽しみにしておりましました。想像に違わぬ仙人に相応しい方でした。最近、その梅仙 人さんが日常の農作業等の昨今をHSLNに書き込んでおられ辻さん、布施さん等がコメントを書き込んでおられます。それらの交信をお借りして掲題の紀州熊野の梅仙人の昨今としてご報告して置きたいと思います。
写真は、南部訪問時に撮らせて貰った梅仙人のお母様ヌイさんとのツーショットを使用しました。


紀州熊野の梅仙人です。
日中の暑さもさることながら、朝晩の空気の流れから秋の感じを受けるようになってきました。田の稲の穂も黄金色になびき、早い所では、稲が刈り採られ、なる”にかけられたのも見受けられます。
私の植えた稲も遅まきながら黄金色になってきました。今年も田植えをしたままで何の手入れもせずに収穫を迎えられそうです。一昔前までは「ウンカ」と言う目に見えないような小さな害虫ですが、その被害は大きく、一晩の内に大きな円を田に描いたような格好で吸い枯らされていたものでした。それが近年、そのウンカと言う害虫が姿を消しているようで、そんな関係から、いつの間にやら稲の放り作りが出来てしまうように定着してしまいました。水田での稲作りが減少してしまっているのでウンカが損益勘定して大陸から飛んで来なくなったのかもしれません。
自分の鈍ら感情も手伝ってではありますが今年の梅の管理方法も大方手を抜いたものになりました。結局、畑全体の何本かはアブラ虫”によって葉が巻きましたが、実の方は変形せずに収穫できました。今流行りのアメリカ毛虫もこのチリジリ葉っぱには敬遠しているみたいで今も綺麗に樹に喰らいついています。
こんなことをしていると、何時かは〜〜〜と思いながらでも、今年も若さの冒険心とスリルを楽しんだ私でした。

熊野の 梅仙人


紀州熊野の梅仙人さま
        重雄@宝塚です
ブラジルの和田さま来日の際の歓迎会のあと、そちらの方へ出向かれたので、機会があれば私も一度出向きたいと思っています。
私の家は、中山寺に近い所にありますが、たまたま三方を田畑に囲まれていて、現在は稲穂がたれた田園風景になっています。
梅仙人さまの記事で気付きましたが、例年ですと、植え付けから取入れまでの間に何回か農薬の散布があり、そのためのエンジン音が聞こえる度に、ガラス窓を閉めました。
そう言えば、今年はその経験がありません。紀州同様に、当地でも同じでした。
或いは全国的な現象かとも思えます。
辻 重雄


重雄@宝塚さま、みなさま
熊野の梅仙人です。

そちらの水田でも同じ状況なのですね。防除しなくて済むことは農業者にとってはとても有り難いことなのですが、かって古老から聞いていたた話に寄ると、「ウンカは”中国大陸や南方方面から風”に載って来るのだ」とを伺っていて、それを今でも信じているので、あちらでウンカが絶えたのか、それともその道中の大気圏が虫”も生息出来ないほど汚染されているのか一面気にもなることです。

ブラジルの和田さまにお越し頂き草深い小さな山荘でお泊り頂きとても光栄なことでした。田舎で居って、行ったことの無い地球の真裏にある国の話を聞けた事は又とない幸せでした。特に、私の実弟(故人)がブラジル滞在中での話などは老母が一番喜んだことだと思います。

とても辺鄙な田舎ですが機会を見て重雄さまも紀州にお越し下さい、10月〜11月に入ると紀南独特の蒸し暑さも峠を越しますので山小屋のストーブでも囲んで梅酒の一杯でも飲んで貰えると思います。楽しみに待っています。

ああ!そうそう、先般 「宝塚ロータリクラブ」の方々がバス一台で見えられて梅林と梅加工所と、私の友人が建てた「梅仙庵」で遊ばれて帰られました。

目下、私はこの6月に収穫して塩漬けした梅をザラ”に並べ天日で乾燥しては等級別に品分けする作業に精を出しています。今年は特にきつい作業の連続でしたが、疲れ知らずで仕事が出来て感謝しています。村の連中も一寸ビックリしている様です。

それではこれで失礼します〜〜〜
熊野の仙人

お元気で活躍の様子よく分かりました。しかし「ウンカ」がそんな悪さをしていたことは全く知りませんでした。そして「突然来なくなった」ので手抜きが出来ると言うことは結高ネことですが、また別の敵が現れるのではないかと心配です。自然は強いし怖いですね。「釈迦に説法」になってしまいました。
お宅の別荘に泊めていただいて、屋上の露天木風呂に入りながら、星を眺めたことをつい昨日のように思い出しています。本当にその節は御世話になりました。そしてその後もいろいろな人が同じ星を眺めて歌を詠み、詩を作っていることと思いますが、高速道路がまた何か悪さをするのではないかと心配です。
お元気で
布施濤雄 練馬区豊島園  

布施@みなべ川村ー豊島園さま、みなさま
紀州熊野の仙人です。

元気でいつものように立ち働いています。今は梅干の最盛期でして家内と二人並んで選別作業をしています。暑い中で乾燥作業したり涼しい部屋で仕上がった梅干しの選別をしたり、時々訪れる台風に干し場のビニールハウスの屋根を取り外す様な仕事外の作業にと、全く百姓百色と云われるだけの仕事をこなしています。
現代流行している金銭だけの損得勘定では百姓は出来ませんが、好きな趣味の世界だと思えば自己納得できて嬉しくもなってくるものです。
布施さんが紀州に来られた折に案内しました私のラン園も残す所が4分の一に縮小して、後のハウスは全部解体しました。今は広い空き地になっていますが、これからは自分の老後の為の場所にしたいと、いろいろ考えています。その場所の傍が神奈川県の藤沢から東海道を得て熊野権現まで続く「小栗街道」が通っているので、四国八諸ェヶ所の道沿いにあるような「お茶のお接待所」のような真似をしてはとも考えています。
その茶は「黒焼き梅茶」を振舞おうと既に小さな素朴丸出しの掘っ立て小屋を建てました、それに近くイャ宴Cトの2連式の釜戸も入る手はずになっています。後は追々考えながら老人や若者が集まって語れる場所になればと夢をみています。途中最中で倒れるかもしれませんがやれる所までやるつもりです。
明日の朝は4時半起きで涼しい内にハウスの中での作業です。それではこれで失礼します。
黒焼き梅に熱を挙げる梅仙人でした。

一別以来ご無沙汰しております。4月に訪日、福島のお花見、関西での辻さんの音頭で『私たちの40年!!』関西ミニオフ会を開催して頂きフレッドさん、遊び人さん等にもお会いできその後、紀州熊野の梅仙人さんの所を訪ねることが出来本当に幸せでした。
布施さんが書いておられるように梅仙人さんの山の上の別邸での一晩、屋上の露天木風呂から眺めた夜空、これぞ日本と南部の梅の里での一夜が懐かしいです。

また近くの南部川村の極楽寺住職さんの橋本隋暢師に【ご縁尊とし】と書かれた熨斗に入ったお布施?を頂きましたが、皆からお寺さんにはお布施を置いてくるのが普通で貰って帰ってくるとはいくら日本を40年以上離れているとしても常識外れだとの非難の声を聞いており我が家には仏壇がないので金庫の中にそのまま大事に保管しておりますがこれどうすればよいのでしょうかね。橋本師は、カナダの東漸寺にも長く住んでおられニューヨークのトレードセンターの廃墟後でも読経をされたとかその国際派の活動家としても有名な方だとお聞きしておりますます恐縮の度を大きくしています。次回、訪日時には再度南部を訪れお返し出来ればと願っていますが。。。。

翌日の日曜日には世界遺産に指定された熊野古道を車で案内して頂き熊野本山の参拝、近くの温泉郷での行く春を惜しんでの歓談、自ら仙人を名乗るだけあり達磨法師を彷彿させる風貌は、忘れがたい人となりました。また年を重ね腰が曲がって小さくなられた感じのお母様が頭がはっきりしておられ、もう40年以上前の出来事、先に逝かれた勝次さんの事、色々良く覚えておられブラジルの話に興味深そうに耳を傾けておられました。翌日お別れに住んでおられるご自宅も訪れ梅干の一粒ウン千円の秘蔵物を口にしたり試作中の焼き梅をお土産に頂きました。健康食品として注目されている紀州の梅干しが今後とも順調に市場占有する事を願っています。

布施さんが訪問された時に有った蘭の温室は(ここは40年前には水田で米を作っておられたとの事です)縮小して老後の住まいを造り『神奈川県の藤沢から東海道を得て熊野権現まで続く「小栗街道」が通っているので、四国八諸ェヶ所の道沿いにあるような「お茶のお接待所」のような真似をしてはとも考えて います』と書いておられるように多くの熊野詣に出向く人たちに自由に立ち寄って貰う番所のようなものを建て(村の私設公会堂?)山小屋の別邸と2本建てで地域開発、老若男女の社交の場、語りの場にしたいとの事で正に南部の梅仙人さんの面目躍如と言った事業を毎日の農作業を通じて実現されています。宝塚にお住まいの辻さんがその内訪問されるとの事ですが、外国や遠くまで出向かなくても本当に心安らぐ場所が直ぐ其処にあるようです。

梅仙人の永井 恒夫さんとのお付き合いはHSLNでのメール交換から始まり実弟の永井 勝次さんが産業開発青年隊の一員としてブラジル移住され、事故に会い3年半で帰国、その後の日本での転進を語り合う仲間としてですが、今回の訪日では約束を果たし南部まで出かけることが出来ました。前回までの交信等を纏めた寄稿集が『産業開発青年隊10期生後期 64年8月15日サントス港到着の永井 勝次さんの帰国後に辿った道』として下記URLに紹介しております。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=445

また今回の一連の梅仙人さんの遣り取りを『紀州熊野の梅仙人 永井 恒夫さんの昨今!!』として下記URLに記載しております。



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