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杉野忠夫博士の移住監督紀行文 『南米開拓前線を行く』 野口 紘一さんより配信。
『私たちの40年!!』MLにカリフォルニアにお住みの野口 紘一さんが毎日配信して呉れているのが掲題の杉野先生の紀行文です。私たち学生の頃は、杉野先生の一番輝いておられる時期で東京農業大学の農業拓殖学科長をしておられ1962年には日本学生海外移住連盟顧問会長を引受けて下さっており多くの仲間が訓育を受け我々は杉野先生の側におられる東京農大生を羨ましく思ったものです。残念ながら私自身は杉野先生とは一度もお会いする機会がありませんでしたが、早稲田大学海外移住研究会の黄金時代と重なり富田、谷、真砂、武藤と4代続けて日本学生移住連盟の会長を輩出したことから(4人とも現在ブラジルとパラグアイに在住)杉野先生の高邁な理想を実践し教え子が早稲田にもいた証拠で先生の移住に対する当時の学生の考え方を理論的に穀z、支えた偉大な指導者と言えます。50年近く前に移住船の移住者助監督としてパラグアイまで同行した時の克明な記録を紐解く機会が与えれた事に感謝したい。
写真は、野口さんより送って頂いた紀行文に掲載されている杉野先生です。


『南米開拓前線を行く』のご紹介。
昭和32年12月31日、ブラジル丸に800名もの移住者を乗せて日本の港を出航した行ったが、横浜からブエノス・アイレスまで49日の船旅で、パラグワイまで移住者に同行した、その移住監督としての記録された紀行文の紹介です。長編ですから宜しくお付き合い、ご覧下さいます様にお願い致します。次回より不定期に掲載致します。

『杉野忠夫博士、逝去後40周年記念』
インターネット杉野忠夫博士遺稿集転載実行委員
  野口 紘一

作者、杉野忠夫博士
略歴、明治34年、大阪市堂島に生まれる。
    東京大学法学部、大正14年卒
    同年京都大学大学院入学、翌年退学する。
    昭和8年京都大学助教授に任ぜられる。
    昭和14年満州移民方策審議会、中央農林協議会
    幹事を委託される。
    昭和15年満州国開拓総局参与に任ぜられる。
    昭和19年石川県修練農場長に任ぜられる。
    昭和20年農村更生協会理事を委託される。
    昭和27年国際農友会理事を委託される。
    昭和28年高知大学農学部講師を委託される。
    昭和31年東京農業大学、農業拓殖学科長を任ぜられる。
    昭和32年、移住者助監督として南北アメリカ8ヶ月出張する。
    昭和37年日本学生海外移住連盟顧問会長を委託される。
    昭和39年農学博士の学位を授与される。
    昭和40年6月29日、急性心不全の為に逝去される。
    従五位に認され、勲四等を贈られる。

紀行文収録先、非売本『杉野忠夫博士遺稿集』より。
発行、   東京農業大学拓殖政策研究室
       杉野忠夫博士遺稿集刊行会

冬の太平洋航路
昭和32年の暮もおしつまった12月31日の朝、この年の南米ゆきの最大多数の移住者800名を乗せた大阪商船のブラジル丸に、私は移住助監督として乗りこみ、冬の太平洋を東へ向かって、黒潮を横切って進んでいった。
荒れ狂うアリューシャン列島よりの航路の1週間は、1万トンの巨船も揺れに揺れて、太陽の光が鉛色の低く垂れ込めた雲の隙間から覗いたのもわずかなの間で、あとは、開拓者の人々の前途をしのばせるような、激しいしぐれが甲板を叩き、船窓に打ちつけられる日が幾日も続いた。
船がアメリカの海岸に近くずくにつれて天候は回復し、それと共に気温もぐっと高くなって、横浜をたつときは冬の最中であっのが、最初の寄港地、アメリカのロスアンゼルスへ入港した時は、1月11日だと言うのに、もうすっかり春の気候になって、海ばかり眺めていた船中生活にウンザリしていた人々は、はじめて見るアメリカ合衆国の港の風景に、あかず見入って甲板をうずめつくした。
私にとっては、これは五年ぶりのロスアンゼルス訪問であったが、わきおこる感激は、また無量のものがあった。この前の昭和28年の農林省の嘱託によって、農村更生協会が派遣した第2回の派米農村青壮年実習生の団長として、約8ヶ月間このカリフォルニアの農村を行脚し、無事に83名の諸君と共にその使命を果たし帰国するとき、いつの日か、またこの地を訪れる事が出来るであろうかと思っていたのに、はからずも5年たった今日ふたたびこの地を訪れ、なつかしい風景を見る事が出来たことに、天の使命のまにまに、自分の生涯が編まれているような感激をおぼえたことである。
これから約8ヶ月、私の踏破しようというアルゼンチン・パラグワイ・ボリビア・ブラジルの開拓地帯の前途を思い、どうしてこのような生涯をおくる事になったかと、もう60
に手がとどきそうになった自分の過去を振り返って、私の若き日の悩みの中に、その出発点をさぐり当てたのである。

若き日の悩み
こうした書物に自分の自叙伝めいたことを書く事は場違いであろうが、それにかかわらず、ここから筆を起こそうと考えたのは、これからの海外拓殖運動が何ゆえに必要かなどという、一般的な理屈を述べるよりも、なぜ私が海外拓殖への道に、日本の未来を発見したかと言う自分自身の生涯の歴史を語ることの方が、かえって力強く主張できると思ったからである。
最近、海外移住の必要性を色々な角度から叫ぶ人が沢山でてきた。
ことに昭和33年はブラジルで、日本移民50周年記念祭が催されて、多数の名士がブラジルに行ったりして、いっそう日本人の海外発展熱が高まって来た事は、まことに喜ばしいことであるが、海外移住、あるいは海外拓殖は、現在の日本が抱えている、いろいろな問題の解決方法の中の一つに過ぎないと言う程度の大変おとなしい主張に留まっている。
私がこれから述べ様とするのは、それとはだいぶ違って、もっと調子の高い主張である。それは日本人の海外拓殖活動こそ、日本人の、世界人類の幸福に寄与する唯一無二の天与の使命であると言うことを、いわんとするものである。
私にとっては移住とか、海外拓殖とかいう問題は、過剰人口の対策と言うような、消極的な社会政策でもなければ、あるいは帝国主義とか、植民地獲得とかいう時代遅れの植民地政策でもなく、さらに八紘一宇といった過去の亡霊でもない。
自分自身が時代と共に苦しみ、幾多のあやまちを犯しつつ、たどり着いた峠に立って、前途に眺めた広大な活動の新天地を、あとに続く若い人々に告げんとする熱血の絶叫である。

意気揚昂としてブエノスアイレスに着く
横浜港を出帆して49日。昭和33年2月16日午前8時、港港にはそれぞれの国々への移住者をおろし、最後にアルゼンチン(9人)とパラグワイ(93人)へ移住する112人の人々と、この航海の終着港のブエノスアイレスの岸壁にブラジル丸は、静かに接岸しはじめた。
北太平洋の冬の荒天で渡航洋上で急死した鬼塚青年。
夢と不安とを織り交ぜた移住者の人々の涙なくしては聞かれないその半生の物語。
バルボア・ドミニカ・ベレーン・リオ・サントス・リオグランデドスールで別れた人々。
新しい運命を開拓するために、祖国を去った人々の胸に流れる筆舌に尽くしがたい、熱い血潮の奏でる大陸進撃譜を背後に、ある学生のひとりの面影と共に、私を武者ぶるいさせるのであった。
いよいよ来た。今日からはこの南米大陸に上陸して、何ヶ月かの踏査旅行が始まるのだ。アルゼンチンのパンパス、アンデスの高原、パラグワイの原始林、そして、アマゾンの大河が待っているのだ。
そして、来年から始めると約束した外地実習の引き受け農場をめぐり、説得すると言う仕事を、果さなければならないのだ。
しかし、それは自分の迫ヘ、自分の健康、そして、その上に軽い財布の限界をはるかに越えた夢なのではないか。
岸壁のかなたにそびえる白亜の高い建物を見ながら、色々な感情が一時に湧くのであった。
しかし、過去をかえり見て何度か生死の間をさまよったにかかわらず、いても立ってもおられないような苦境に立った時には、不思議と切り抜けてきたことを思い、ブラジルゆきを決意したとき、「生還を期せず」とひそかに後事を託した友に語ったほどの悲壮な決心にかわって、何が何でもやりとおすぞと、心の底から闘志が猛然と湧き出るのを感じたのであった。
そこで千葉学長当てに『闘志満々ブエノスに着く』と発信したのであるが、それからの 約4ヶ月。ただの一日も病気にもならず、元気でアルゼンチン、パラグワイ、ボリビアをまわって、ブラジルに入り、マットグロッモ振り出しに、南ブラジルをめぐり、北上してアマゾン大河に四週間の旅を続け、6月10日、サントス港を後に、再会を約して去る日まで、幾百人の同胞の暖かいもてなしを受けて旅を続ける事ができた。
それだけではなく、この計画成らずんば死すとも帰らず、とまで思いつめてきた仕事が、頼以上の結果を納めて、サントスを出発出来たことは、ただただ、絶対無限の全博メの奇しき御手のはからいというよりほかに、言うべきを持たないというのが私の正直な感想である。
南米の旅行記や調査報告は、最近、色々と出版されている。私のわずか4ヶ月の踏査旅行の報告を、しかも、その抜書きのようなものをここに書きつずる愚かさをあえてしたいとは思はないが、私のような思想の遍歴をし、開拓者の友として、一生を歩んできた人間の、この開拓前線の踏破の実感は、また、一個の他山の石として参考になされる所がありはしないかと言う気持ちも有って、書き続ける事にした。

上陸第一歩のパラグワイ移住者の動揺。
船がブエノスアイレスの岸壁にピッタリと横着けされると、待ちかねた在留同胞の人々が続々と乗船され、あちこちに感激の対面が展開されている間に、何時の間にか不安な空気が、かもし出されてきた。
そして、それはパラグワイへ入国する人々の出発する河船が、18日の午後5時に出る事に決まり、三々五々と、それまでブエノス見物に上陸する事になると、ますます、その不安な空気が濃くなって来た。
それは何処からともなく、パラグワイの移住地に入植している人々の暗い運命の話しが入ってきたからであった。
それは、これから入植しようとしているフラム移住地では、収穫された小麦やトウモロコシが売れなくて、入植した人が生活に困って売り食いの生活をしているとか、もう売る物が無くなった人は脱出を企て、アルゼンチンへ越境しようとして捕えられ、牢獄に入れられているとか、あるいは、抵抗して殺されたとか、はては女はパンパンにまで身を落としているとか。ともかくも、日本海外移住振興株式会社と言う国策会社を信用し、その経営するフラム移住地の土地をすでに25ヘクタール、13万3千円を払い込んで、はるばるやってきた93人の人々にとっては、晴天のへきれきというくらいの衝撃であった事は事実である。
親切なブエノスアイレスの同胞は、そんな先の見込めない所に行ってひどいめに合うより、アルゼンチンにとどまりなさいと忠告するのであった。
この93人の一行は、すでにブエノスアイレスの美しい近代都市を、まのあたりに見て、また、ブエノスの花市場の立派な温室や、生活を見、さらにまた、非常な信用を得て繁盛している同胞の独占的と言ってよいほど成功しているクリーニング業者の洋風の文化生活を見たのであるから、この親切な忠告に動揺するのも無理がなかった。
その上に、もっと困ったことは、パラグワイから誰も出迎えに来ていいなかった事である。であるから、現場の人が来ていて、こうした奄ヘ事実無根だと、断固として否定すれば、形勢はまた違っていただろうが、そう言う人は誰も現れず、動揺はますます激しくな
る一方であった。到着とともに移住監督の任務は終るわけだが私は、ホテルに泊まる金を倹約して、船に18日までとどまっていたので、皆がすがりついて来る事になった。
『先生、これは一体どうしたことでしょう』と、形こそ違うがこうし目に満州以来、何度もあってきた私は、『未知の世界に挑む者が、必ずあう試練が早くも来た』と感じて猛然たる闘志がムクムクと湧きたぎるのを覚えた。そして『一緒にフラムへ行きましょう。そして、皆さんが安心出来るまで手伝わせていただきましょう。』

パンパス大草原、パラグワイに向けての北上。
翌日朝7時、コンセプションデル・ウルグワイの河港で上陸。それからは汽車で、行けども行けども果てしない草原の海を、北へ北へと走り続けたが、草原は夜になってもまだ続いていた。
そして20日の日も夜明けの頃、窓の外を見れば、まったく海そのものと思えるような大草原で、きのうと同じように、放牧された牛の群れが、ゆうゆうと遊んでいるのであった。国境の町、ポサダスに着いたのはやっと正午まえ。ブエノスアイレスを出発してから船と汽車とで30時間を要したわけである。これから一行の入植しようと言うパラグワイ共和国の、フラム地区というのは、このポサダスの町の対岸のエンカルナシオンの郊外にあるのである。
もう目的地のすぐ前まで来たのであるが、この両都市の間にはパラナ河と言う川幅が4キロもあろうかと思われる大きな河が、二つの国の国境を流れていて、それを渡るのに、私達の乗ってきた汽車を其のまま乗せて渡す大きな渡し船が用いられるのである。河の水は黄色に濁ってゆるやかに流れているが、2000トンもあろうかと思われる船が河の中流に停泊しており、パラグワイが日本に船舶借款を垂オ出ているのも、こうした内陸水運の道を開いて安価にブエノスアイレスとの物資の運送をはかろうとするのだと思った。あとで調べてわかったのだが、このエンカルナシオンからたった30時間のブエノスアイレスへのトウモロコシ運賃が、ブエノスアイレスから横浜まで、約50日の運賃の2倍とられたと言うことを聞いて、パラグワイの内陸水運の問題は大きな問題であると痛感したのである。
この河を汽車ぐるみ渡って、エンカルナシオンの町外れの駅まで、30分とはかからなかった。
汽車がやっと動き出したのは夜の8時、そしてノロノロと渡って夜の9時に、折りも折り、夕方から降り出した雨の降り続く、エンカルナシオンの駅に着たのである。

フラム地区の踏査から得たもの
私は、この駅のプラットフォームで一行を出迎えられた、日本海外協会連合会の長尾支部長に、まず『服部孝治君はどうしていますか』と問うと、『先生が来られると言うので、迎えに来ています』と言う声が終るか終らないうちに、暗がりの中から『先生!』と叫んで飛び出して来たのは、2年前、東京で別れた時より、いっそう引き締まった顔に、光かがやく眼差しをもった、快漢、服部孝治君その人であった。力強い握手。『とうとう会えましたね!』というのが精一杯であった。
その夜、服部君に案内されて、ドイツ人の経営するセントラルホテルに落着いてから、3月4日アスンションへ去るまですっかり服部君のお世話になったのだが、服部君がここへ来てからの2ヵ年間の活動と、その旺盛な研究と調査とのおかげで、どのくらいこのフラム地区の問題の究明に便利であったか、計り知ることができないくらいであった。
こうした信頼すべき同志がいなければ、とうてい短時間の間に調査などできるものではない。
ブエノスアイレスに到着早々、聞かされたフラムの暗い話しは、はたして真実か否かは私ひとりでなく、同行した入植者全体がいちばん確かめたいところであった。私は服部君をはじめ、いろいろな人たちからの聞き取りをしながら、何よりも急いだのは、現場へ行って自分の目で確かめたいという事であった。そして雨のために道路が悪くて、ジープもスリップして移住地へ、はいりかねると言うことであった。
やっと2月24日、移住振興会社のジープに乗せてもらって宿を出発する事ができた。ここフラム移住地の概況をのべておかないと、問題の発生原因が分らないと思うので、ひとこと述べる事にする。
いったい、パラグワイ共和国という国に関して、戦後、南米移住が再開されるまで、日本ではあまり知る人もなかったであろうと思う。
私も中学校で世界地理を習ったとき以来、名前は覚えていても、アルゼンチンやブラジルほどの印象をもっていなかった。
それが、大宅壮一氏の『世界の裏街道を行く』でも面白い国だなと思っている内に、杉道助移動大使がこの国を訪問して、船舶借款とともに30年間15万人の日本人移住者受け入れの話しがはじまり、にわかに日本人の目に、パラグワイというこの南米の小国が大きくうつり出したわけである。広さといっても、40万平方キロで、日本よりちょっと広いくらいで、大きな国ではない。人口わずか150万人、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアの三国に囲まれた海のない国である。
それがどうして日本にこうして門戸を開くことになったかというと、ここにも我が民族の先駆者達の築いた実績がものをいっているのである。それは、この国がかって1865年から1870年まで、アルゼンチン、ブラジル、ウルグワイの3国を相手に、それこそ国民総玉砕に至るまで戦って破れたので、(1863年の国勢調査では、133万人いた人口が、1871年には22万人になってしまって、老人や廃疾者を含めた男子が2万人、女子が10万人、子供は8万人という悲惨な状態になっていた。)
政府は国力回復のために、外国移民の吸収に努力して、色々と奨励をしていたので、ブラジルやアルゼンチンで活動していた同胞が早くもこの国に目をつけていたのである。
しかし、直接の原因となったのは、昭和8年ブラジル政府がとうとうたる日本移民の流入の恐れをなして、2分制限法を実施して、日本人の入国を年間2800人に制限したので、他のいずれかに移住地を求めなければ、ならなくなった事にある。
昭和9年、当時のブラジル拓殖組合の専務、宮坂国人氏(現南米銀行の専務で在伯同胞の大立物)が調査に乗り込み翌年、日本人100家族の入国許可を得、首府アスンションの東南130キロの地点ラ・コルメーナの8000ヘクタールの土地に村造りをはじめる事になった。
そして昭和11年、ブラジルから第一次の指導移民が入植してから、昭和31年までの20ヵ年の苦闘の成果は、パラグワイ政府をして、パラグワイの農業開発は、日本人によってなされるという信念を植えつけるるに至ったのである。『ラ・コルメーナ20周年史』に寄せられた、日本海外協会連合会会長の坪上貞二氏の序文は、この事を良く言いあらわしているので、次ぎに引用したいと思う。
『パラグワイ国における日本人最初の入植地ラ・コルメーナはこの20年間、退耕者問題、イナゴ群の襲来、第2次世界大戦、パラグワイ国内の数次の政変など、なみなみならぬ諸問題に直面したが、今日この移住地を守りぬいて移住者達は、良くこれらの山積した苦難を乗り越えて、今日みられるような輝かしい移住地を建設したのである。
戦後、この国には後続移住地として、チャべス移住地、フラム移住地などの建設が着々進行しているが、これらの移住地の建設が可狽ノなった根本原因は、ラ・コルメーナ移住地の完成にあった事を忘れてはならない。もし、ラ・コルメーナ移住地の建設が失敗に終っていたならば、このような後続移住地の建設の可柏ォはまったくなかったと言ってもよい。
今日、これら新移住地へ続々と日本人移住者を送り出す事が出来る様になったのは、まったくラ・コルメーナ移住地の人々の努力のたまものである。
また最近になって、パラグワイの隣国、ボリビアへ日本人移住地の設定をみつつあることや、アルゼンチンに対する日本人の集団移住者の送り出しも、ラ・コルメーナ移住地の完成が大きな原動力となっていることはもちろんである』
ラ・コルメーナの村をその後訪問して、私はその序文が決して過言ではないことを知ったのである。フラムの移住地がこうした歴史的背景のもとに、昭和31年、32年でエンカルナシオン市の西北約40kmの所で、約6000ヘクタールを日本海外移住振興株式会社が購入し、道路・橋梁の建設と地区割りをおこなって、移住者への分譲を開始したのである。この移住地は、日本が戦後初めて移住者の受け入れ地を確保して、自作農の移住者を送り出すケースの最初のものであり、今後の移住者のあり方を示すものとして、その成績は天下注目の的であった。
パラグワイ政府も、ここへ400家族の入植許可を与え、最初の移住者が昭和31年の上半期に10戸(74人)入植したのである。
その後、この地区の土地が肥沃で森林資源が豊富であり、気候が温暖で住みよく、またエンカルナシオン市へ近いことなど、色々と良いニユースが伝えられたので、高知県大正町、広島県の沼隈町の町ぐるみ移住をはじめ、入植希望者がきわめて多く、早く行かないと満植になるだろうといわれていた。そして、そういう立地条件もけっして嘘ではないことが現地へ行って見て確かめたことで、海外協会や、移住振興会社が移住者をあざむいたのでは無い事は明らかである。
だのに、どうしてあのような不安な、ささやきが広がったのであろうか。
それは、私が原始林の中に開かれた道をジープで走り、この広い移住地にすでに入植していた300戸の移住者の組織している3つの共同組合を訪問して、そこで手に入れた陳情書を一読したことによって疑問がとけたのである。
それによれば、問題は生産されたトウモロコシや小麦や大豆のような農産物が、地方的過剰生産のために思うように売れないため、現金収入が不足し、手持ちの営農資金は欠乏してくるという、将来に対する不安が根本原因であった事が良く分った。
この事は、このフラムだけではなく、今後、パラグワイへ移住する人が増加すればするほど、良く計画しておかなければ、いつでも発生する問題であると思った。
それは、なるほどパラグワイとしては、日本の農業者を大いに歓迎し、パラグワイの農業資源の開発を希望するところであるが、農産物の販路の問題を考えてみると、総人口の150万人の中で何人が、食料品の購入者であり、国内市場の大きさはどのくらいかということを、まず考えて見なければなららい。1950年の政府統計では、全人口のうち、有職業別人口では、約55%が農林漁業者である。だいたい国民の45%が食料品のお客としてみても、せいぜい70万人くらいのお客があるだけである。そして、いくら低い生産力しかないといっても、国民の55%が農業者であれば、残余の45%の国民をある程度は養っていると考えられるのである。この国の農業の経営規模は、平均して一戸当り3・5ヘクタールであり、総農家戸数のうち、1ヘクタール以下のものが2万6000戸、1ヘクタール以上のものが9万5000戸(1942年〜1944年の農業センサス)と言う小農であるために、結局、日本の全耕地の7倍にも余る耕地を持ちながら、70万人を養いかねて主食を輸入している国である。
1952年に、6,500万ガラニー(約2億円、この国の総輸入額の四分の一)も食料品の輸入をしている事を考えると、パラグワイ共和国がその未開発の沃土を解放して、日本人に一戸当り25ヘクタールの耕地を分譲して食料増産に一役も二役も買わせようとしていることがわかる。しかし、すでに入植した300戸のフラムの日本人農家が入植2年にして、だいたい一戸当り5ヘクタールずつの耕地を開拓し、3、000トン小麦を生産したのであるが、パラグワイ国全体の小麦生産量が1万5,000トンにすぎないことや、エンカルにある唯一の製粉工場のもつ倉庫の収容力が800トンしかなく、1ヶ月の製粉迫ヘは1、000トン。そして国中の製粉工場の迫ヘが1ヶ月3,000トンにすぎないこと、輸入している小麦の量が3万5、000トンという数字を考えてみると、もし、この300戸の移住者が残りの20ヘクタールを全部開拓して小麦を栽培したらどうなるか。
また、今後、続々と入国する何万戸と言う日本人が大いに小麦を増産したらどうなるか。ちょっと考えてみても油断がならない問題である。
このような不安を除くためには、生産物の販路についての研究はもちろん、生産計画と販売計画を組み合わせ、輸送、保管、加工、輸出と一貫した指導が絶対に必要であることは常識といわなければならない。



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