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杉野忠夫博士の移住監督紀行文 『南米開拓前線を行く』 野口 紘一さんより配信。(3)
カリフォルニアにお住みの野口 紘一さんがご自分で叩いてデジタル化して配信して呉れている杉野 忠夫博士の遺稿集い移住監督官としての紀行文『南米開拓前線を行く』の第3回目です。私たちの同じ船にも33名の産業開発青年隊員が乗船しており現在もブラジル各地で活躍しておられます。ウムアラーマの訓練所初期のお話が披露されており懐かしく思われる隊員もおられるのではないかと思います。戦後移民の若者達、拓殖大学の先遣隊等その後の動向を是非知りたいような実名でのお話を毎回楽しみにしています。
写真は、同船者の産業開発青年隊員で現在その纏め役として青年隊員の連絡協議会会長をしておられる牧 晃一郎さんです。


パラナにみる産業開発青年隊の活躍
建設省と農林省がそれぞれ産業開発青年隊あるいは農村建設青年隊を組織して、内地の土木事業や土地改良事業にこれを動員し、農村の二、三男対策の一助ともし、また、近代的土木工事や機械開墾の技術訓練をして、実際的な技術者の養成に着手したのは、数年前からの事である。その当時から関係者の間では、その訓練終了者を海外に送って、建設事業にあたらせ、一つにはその国土の開発に、一つには、技狽身につけた青年に仕事を与え、自立の機会を与えようという一石二鳥の計画があったようである。
ブラジルのパラナやマットグロッモフ開拓前線に、それらの諸君がすでに送られて隊活動を始めて居ることを聞いていた私は、ブラジルに入ってからその方面の人々からいろいろ教わったうえに、5月19日、サンパウロ市のリオブランコ街を午前6時出発する大型のパラナ行きのバスで夜の9時、ロンドリーナに着くまで15時間の強行軍をし、そこで一泊。
さらに、翌朝4時半、マリンガ行きのバスに乗って4時間、マリンガに下車。そこからまたバスでウムアラーマまで9時間。またそこで一泊。
第3日目に折りよく、セラドラードスから出てきた人をつかまえて、その人のジープでセラドラードスを経て、めざすイバイ河畔の『産業開発青年隊パラナ訓練所』へ約4時間かかって到着。セラドラードスの町から約50キロの道は、原始林の中を走るだけであった。
ゆけどもゆけども巨木の海である。汽車の駅のあるマリンガから250キロはあろう。サンパウロ市を朝早くたって、3日目の夕方やっと到着したのである。しかし、来てみてその甲斐があつた事に感謝せずにはいられなかった。
昭和31年6月に入植した、その第一期生の活動と私の来る約一ヶ月前に入所した第三期生の一団と会うことができ、その中でも一期生のこの二ヵ年間に成し遂げた仕事をまのあたりに見ることが出来たことである。
私がこの第一期生諸君の合宿所を訪問したのが、その諸君がブラジルに来て二年近くになった時であるが、最初にサントス港に上陸した時は、天幕と飯盒しかないと言う状態であったそうである。持ちあわせていたのは、一ヵ年内地の建設隊生活で鍛えた不屈の魂と健康と少しばかりの土建技術だけであったという。
もちろん前もって連絡して有ったわけであるが、原始林をどんどん伐採してコーヒー園の開拓がおこなわれているパラナ州の奥地開拓で、大きな仕事をしているコブリンコ土地会社の測量・道路・橋・家屋建築や、運送などの仕事を団体的に請け負うことになって、ここへ送られてきたその日から天幕で生活し、飯盒炊事をやりながら活動を開始したのであった。話しがそれだけのことなら、べつにめずらしくもない。
ブルジョアの坊ちゃんだって、夏休みともなれば重い荷物をかついで、日本アルプスへ命がけの山登りをして、天幕生活に飯盒炊事をするが、近ごろの日本の流行といってもいいであろうが、この諸君はいささか趣が異なっている。
それは隊員が一致団結して、各人がその迫ヘに応じて働いて得た収入を共同計算に入れ、その中から必要経費を支出して、独立にいたるまで共同の貯蓄をするという一種の家族的共産主義の生活を実行して来た事である。
そして、この団体生活に終始して今日まで来たのは、榎原和夫君という28歳の青年を頭に、年少者は20歳にようやくなったという一名である。
いっしょに来たあとの5名は、特技を生かして他の日本人のところへ個人的就職をしたので、この一団とは独立してしまった。
人々の注視のまとは、この12組の生活である。この諸君は、この共同の貯蓄によって土地を買い、個人家屋を建てコーヒー園の所有者になり、妻を迎えるまで、この体制を守ろうと決意したのであった。その間には、病気をする事もあろうし、ケガをすることもあろう。そういう不時の出費も落Zに入れ、また、いつまでも天幕生活をするわけにもいかないから、共同宿舎も必要であり、炊事道具から工事用の工具や、開墾に必要な農具も必要である。こうしたものを一つ一つその共同の貯蓄の中からそろえていかなければならない。若い血気盛んな青年ばかりの団体生活が、となりの家まで40キロと言うような原始林の中にポツリポツリと営まれて居る光景を想像してごらんなさい。毎日毎日激しい肉体労働、考えてみただけでどんなにわびしいものであるか想像ができそうだ。しかし、この12人の青年は、この試練に打ち勝ったのである。
そして後日、全部が結婚したあかつきには、部落の公民館にすることのできる設計のもとに、頑丈で立派な木造本建築の合宿所を自力で建設したほかに、一人あたり5アルケールの土地を購入し(1アルケールは約二町五反歩、約4万2千円)、農耕班はその開拓に着手して同士のために備えつつあるほかに、四年契約のコーヒー園の雇用農にもなって貯蓄に努め 、五年後には12人が同時に結婚をして新家庭が営となめるという見とおしが明らかになる段階へきたのである。裸一貫でブラジルに渡り7年後には、完全の自作農となり得るという実例を、必ずこの一団は実現するであろう。
彼らの日常生活を知っているセラドラードスの町の人々も、この事を確信して私にかたるのであった。こうした輝かしい第一期生の足跡がこれに続く第二期、第三期生をどのくらい勇気ずけていることか、はかりしれないものがある。
この第一期生の所から、さらに50km奥地にできたその訓練所は、和田周一郎氏の寄付された100アルケールの原始林の中にあるがそこに到る道路と2つの橋と、素人ばなれのしたガッシリしたその建物全体が、この第一期生の汗の結晶と聞いては、ここにはいった第三期生は一段と奮起しなければならないわけである。この訓練所の周辺は、何叙怎wクタールあるか計り知れない大樹の海で、未開の新天地なのであるから、彼らの奮起するのも当然である。ブラジル政府は、このパラナ州の奥地開拓によって新しいコーヒー地帯の設定を計画しているので、有力財団が自費で道路を作り、移住者を招き、原始林を開拓する場合、どんどん国有地の無償交付をしているので、ブラジル政府に信用のある財団がこの好機を見逃すはずはない。私はこうした世界がまだこの世にあることを、パチンコにはかない喜こびを見いだしている祖国の若い人々に知らせたいという思いに胸を膨らませて、パラナからの帰途についたのである。

アマゾンは果して緑の地獄か
今度の南米踏査旅行でアマゾン河を訪問したのは、二回であった。最初は2月1日の朝、その河口に近いベレーンの河岸に着いて停泊した時、その後、4月15日の早朝、リオからベレーンの空港へ着いてから5月の6日、マナオスの空港を飛び立ち13時間を費やして、サンパウロへ帰るまでの約4週間を、沿岸の開拓前線を文字通り、踏査した時である。 
2月1日の日記に、私は「昨夜2時半、船のエンジンが停止したので、起きて甲板に出てみると、すでにアマゾン河口に到達したのか、真っ暗の海上にところどころ点滅する燈火あり、あたかも灯台のようである。また巨船が停泊したのか、満船の燈火イルミネーションのように見える。
3時半、パイロットが縄梯子で乗船。やがてブラジル丸進行を開始する。午前6時半、夜はすでに明けて、船は黄色に濁る大河をさかのぼっていく。洋々とした大海を行くように、やがて左舷はるかに緑色の一線が浮んでいる。島か森か。音に聞く九州よりも大きいというマラジョウ島か。このとき気温は28度。甲板に出れば涼風が吹き、心身を洗うようだ。この地点はベレーンを去ること80キロ。赤道直下にこの涼風であろうとは」と書いている。
はじめて見るアマゾンの驚きを、ブラジルの一角というよりも少年時代からアマゾンと聞けば身の引き締まる思いをして読んだ冒険小説の舞台へ、運命のいたずらか、不思議な神仏のお計らいか、とうとう来たという感慨にひたりながら、ベレーンに来て私を待っている常光君たちと数時間後には、面会できることを思って胸をおどらせたものである。
ところが、つぎつぎとはいってくる陸上からの電信で、埠頭のストライキで船が動かないので、船は河中停泊。来船者は公用者以外は制限されているという事がわかり、ガッカリしてしまった。
やがて、船が止まったとき、やっと代浮オて連絡に来てくれた林君(ガマへ32年に入植した東京農大林学科の卒業生)に、4月か5月にゆっくりと来るからと固い約束をして、南へ去ったのである。
それで、南ブラジルの旅を一巡しおえた4月中句、今度は飛行機で北上して、べレーンを振り出しに、トメヤス、ガマ、カスタニーアル、モンテアレグレ、サンタレン、マナオス、マナカプールと泊まりを重ねてサンパウロへ帰ったのである。
わずか4週間の旅であったが、大宅壮一氏の「緑の地獄」とはまったく異なるものを強く感じたので、サンパウロで新聞社の諸君にアマゾン観を聞かれたとき、私は何のためらいもなく、「アマゾンは緑の地獄ではなくて天国だ」と端的に阜サしたのである。
それが数日後の新聞に堂々と書かれて、相当の話題になっていたらしく、後でブラジルを訪問した田原春次氏が、帰国後朝日新聞に「評論家大宅壮一氏はアマゾンは『緑の地獄』と評された。
少しおくれて、東京農業大学の杉野教授が行き、『アマゾンは緑の天国』だと訂正された。等々」と、話題を引用した上で、「アマゾンについて、各界が協力して大規模な調査をし、その上でアマゾンが天国か地獄かまたは、ただの現実世界の一つであるかをハッキリさせてもらいたい」と主張され、のちに「アマゾン移住と開発」という著者を出された。そして田原さんの著書の一句が「私はアマゾンのジャングルの中に経済と文化の一大社会圏が近い将来できることを信じて疑わないのである」という力強い言葉で結ばれているのを発見して、どうやら私の方に軍配が上がりそうで愉快に思ったものである。
それから昭和34年度、外務省は農林省と協力してアマゾンへ調査団を派遣し、天国か地獄かを決定する事となった。また、それに先だって、昭和33年、ブラジル日本人移民50年祭にあたって派遣された日本農業使節団は、アマゾン沿岸の視察をして、その調査の重要なこと、すなわち、私に言わせれば、緑の天国建設への道を示唆する重要な報告を公にされている。私は広い南米の開拓前線の中でも、アマゾンの将来に最も多くを期待するひとりとして、なぜ緑の天国だと直感したかを述べたいと思う。

眠れる宝庫アマゾン
アマゾンとは、どんなところかとよく聞かれる。そして緑の地獄だという人もあれば、世界の宝庫という人もあり、その評価がまったく相反するところに、アマゾンへ移住することを、何か非常な冒険事業の様に思う人が多いようである。天国にせよ地獄にせよ、未知の世界に飛び込むことに、勇気が必要なことはいうまでもない。どんなに科学的な調査がおこなわれ、手にとるようにアマゾンの事情が明らかになっても、北半球の温帯に何万年と言う長い間、生活してきた日本人にとって、熱帯のジャングルを克服しようという仕事は、それこそ民族の勇者でなければできない仕事であるといってよかろう。しかし、それにしても研究すれば研究するほど、なぜ、今日までこのような人類の宝庫が開発されないで、ほっておかれたか不思議でならない。その人類史的意義のいかんを考えると、これこそ神が日本人民族のために温存しておいてくださった土地ではないかと叫びたくなるのである。
かつて、マーシャル元帥が、『アマゾンを支配するもものは世界を支配する』といったと伝えられている。
また人類を養うのは、アマゾンであるともいわれている。それはなぜであろうか。私はまず人類がその食物や衣服を植物生産とそれを飼料とする動物生産によって得ること、すなわち農業が太陽の熱と水と土壌を欠くことのできない要素としておこなっている状態が続くかぎり、不断に増加する人類を養うために、人類はたえず耕地の拡張をはかり、あるいは技術の向上によって一定面積からの収量の増加をはかっていかなければならないことは、宿命ともいわなければならないと思う。そうすると、植物生育に最も良い条件の土地を求めることは、これまた人類の宿命でもあろう。
こうした観点に立つ時、植物生産に最も有利な地帯が、熱帯地方である事は誰れにもわかる事であろうが、熱帯にも色々あって、アフリカの砂漠は水が不助ェで、当分問題にならないし、人口の緻密な東南アジアは、自分自身を養うことが先決問題の土地であり、結局、その広さにおいて垂オ分なく、緑の魔境とされている原始林におおわれているアマゾン地帯が、これからの人類の食料基地ということになるわけである。それだのに、どうして今まで未開のままに捨てておかれていたのかという疑問がわいてくる。その答はすこぶる簡単である。それは、白色人種の手に負えなかったし、原住民や黒色人種には生産力を向上させる知狽ェ乏しかった。そこへ日本人が足を踏み入れてから、このわずか40年の間に不撓不屈、尊い先駆者の屍を乗り越えて、トメヤスにピメンタ王国を、そして、ヴィラ・アマゾニアにはジユート王国を建設して、世にアマゾンの二大産業といわれる新産業をおこしたのである。アメリカのフォードが放棄したホードランジャのゴム園を再興しつつあるのも日本人であれば、熱帯圏下に新鮮な温帯野菜の生産に成功しつつあるのも、また日本人である。広さにおいて日本の13倍、約500万平方キロ。ブラジル全土の6割にあたるヨーロッパ全土が、スッポリと収まる、とてつもない広がりを持ち、植物資源はいうまでもなく、地下資源は何が飛び出すかわからないが、石油も発見されはじめたし、アマバにマンガンが発見されて、昭和32年から盛んに採掘されており、アルミ原鉱・鉄鉱石・ウラニウム・岩塩・石膏などが続々と発見され始めた。
こうした豊富な鉱物資源のほかに、本流だけでも5600キロの長さがあり、支流を合わせれば6万キロにも及び、水量の豊富なことは世界第一というアマゾン河が、至る所に水力発電開発に好条件を有するといわれ、このアマゾン河そのものが、大きな水運交通の大幹線である。
河口から1600キロの上流マナオスまでは、8000トンの大洋通いの巨船が通えるので、世界経済に連なる工業地帯としての将来性も、ますます確実になってきつつある。
また、このアマゾン河の魚族の豊富な事も有名である。いままでは、アマゾン開発の癌といわれたマラリアも、第二次世界大戦中、熱帯作戦のために米国がベレーンを基地としてマラリア蘭hと治療の研究をした副産物として、カモキンなどの特効薬の発見や、DDT散布や蚊の習性の研究などの成果がみのって、ほとんど絶滅に近く、かかっても、風邪をひいた程度の被害で治るようになってきた。
また赤道直下とか、熱帯という言葉を聞いただけで、さぞかし暑い所だろうと想像していた私は、2月(アマゾンの夏の終り)と、4月(アマゾンの秋のなかば)の二度の訪問の体験から、その快適な気候に驚いたものだ。
日中はは摂氏30度くらいにあがるが、風が吹いていて蒸し暑くなく、夕方からはグッと気温が下がって朝まで摂氏22〜23度くらい、これで快い睡眠がとれるわけである。これが年中ほとんど変わらないから、まったく驚いてしまう。驚くのは、私だけではない。熱帯気候の世界的権威のウイーン大学のハーン教授も、とくにパラ州の気候を、世界で最も良い気候の一つだという通説を裏書きして、「パラにもどってくるたびに、いつも空気の驚くべき新鮮さと清澄さ、さらに私がいまだかって、世界のどこにおいても遭遇した事のない、爽やかな、穏やかな夜に心うたれるのである」といっている。こう書いてくると、現代科学と企業化された技術とが、いつまでもこの世界の宝庫をそのままにしておくはずがないことがよくわかる。現に米国の資本が鉱業開発に投資されつつある。白色人種にはアマゾン開発は、手に負えなかったということが、今日以後もそうであるかは問題である。しかし、いまや大きな全世界の前にその姿をあらわしはじめたアマゾンの資源が、何人によって開発されようとも、その農業的利用という点に関しては、おそらく日本民族の独壇場ではなかろうかと思う。それは、どうしてであろうか。私がこの確信を抱くにいたったのは、ただアマゾンを見ただけの結論ではない、それはブラジル全体における日本人の農業上の輝かしい成功を語らなければならない。
  終り、
(海外拓殖秘史 昭和34年11月20日・ 文教書院収録。)


杉野先生の遺稿をワードに叩き込むお仕事をされた野口 紘一さんの連載中のお便りと終了に当っての感想文も一緒に掲載して置きます。

杉野先生が逝去されて40年もたちます、私が歳をとるのはあたり前です。セッセト毎晩、キーボードを叩いていますが週末は遅くまで、真夜中を過ぎるまでイスに座って叩いていますが、何か先生の心がひしひしと感じてくるのには驚きます。
東京大学法学部政治学科を卒業して、英語ぺラぺラで、ドイツ語も堪狽ナあられた先生の才狽ニ、その教養の深さを感じます。
著書は7冊、翻訳は5冊、論文及び調査報告書は28編、評論、随筆、紀行文、その他などは、113篇にも膨大な数になり、その情熱と、研究心の深さは、到底ながら先生の足元にも近ずくことは、私が2度生まれ代わっても無理と感じます。
昔の東大法学部卒となれば、将来は大臣か、高級官僚か、秀才コースを歩いてきた人が、作業服で長靴を履いて、腰手ぬぐいに、麦わら帽子の田舎の百姓姿で腰弁当で平素居られれた、御姿を思い出します。
弁舌爽やかで、説得力があり、若者達の心をつかんで心染みる言葉で易しく話される言葉は、今でも忘れることは出来ません。人生一度ですが良き師と出会ったと、今でも感じます。
同じ人生でも、中身の濃い感じの人生を送る事が出来たのはやはり杉野先生と出会ったからと感じます。平凡なるサラリーマンとして人生を終ることも一生ですが、別の意味で、人の二倍は生きたと感じるこの頃です。
今日も秋晴れの空の下で、畑仕事と庭の手入れをして土に親しむ喜びを心に感じます。ランチのサンドイッチは採り立ての野菜を切り、口にする幸せを感じました。
野口より。

皆様、
今日で『杉野忠夫博士の移住監督紀行文』を終了致しました。長らくお付き合い下さいまして感謝致します。
47年も前に、パラグワイ入植に同行された先生の姿が浮びます。
生涯を開拓と移住と農業開発に、若い青年達を教育指導された 遺徳を感じて書いておりました。
先生のお墓は分骨されて日本、アマゾンとサンパウロに分かれて埋葬されています。
合掌

野口 紘一 さま
杉野先生の遺稿集のデヂタル化の貴重なお仕事有難う御座います。残念ながら直接お会いする機会が無かった杉野先生ですが、今も新鮮さを保ち心に響いてくる我々学生移住者の精神的な指導者であった杉野先生の遺稿が『私たちの40年!!』HPにも収録できた事を感謝します。
これからも宜しくお願いします。



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