県連ふるさと巡り@ 不耕起栽培のイグアスー移住地 【2001年10月10日付サンパウロ新聞より転載】
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同船者の小山徳さんと園田八郎さんがパラグアイのイグアスー移住地で39年目の再会を果たしたとの記事がサンパウロ新聞に掲載されていましたので転載しておきます。写真は、小山徳さんが編集委員会の会合に参加している時に撮った写真です。
県連(西谷博会長)主催の第十四回ふるさと巡りパラグアイ・バスツアーが九月十四日から同十九日早朝までの六日間にわたって行われた。今回のパラグアイ訪問は全パ都道府県人会(笠松尚一会長)が今年二月に結成されたことと、イグアスー移住地が入植四十周年記念を迎えたことを祝して行われたもの。アスンシオンやエンカルナシオンをはじめ、イグアスー、ラ・コルメナ、ピラポーの三つの移住地を訪問した。ブラジルとは一味違うパラグアイの移住地の表情とツアーの模様を紹介する。(森美樹記者) |
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九月十四日午後、雨が降りしきる中、参加者五八人を乗せたバスは最初の訪問地イグアスー移住地を目指してした。同地までは二十時間の長旅だ。一夜明け、車中で目覚めると昨日の雨とはうってかわって雲ひとつない晴天。背中に昇る太陽の光を浴びながらまっすぐな田舎道を進んでいった。
しかし、道中での雨の影響でブラジルとパラグアイ国境「友好の橋」までの到着が予定より二時間遅れた。その上、前日までのタクシー運転手の「友情の橋」封鎖デモの影響と時間帯の悪さで出入国手続きにさらに一時間も費やした。
結局三時間遅れで、一行は、イグアスー移住地に到着したにもかかわらず、イグアスー移住地の人たちは笑顔で我々を迎えてくれた。
同移住地は、首都アスンシオンから東に二八六キロ、ブラジルとの国境の街シウダー・デル・エステ市から西に四十一キロの地点に位置する。イグアスーの語源である「大いなる水」と一面に広がるテーラ・ロッシャ地帯の肥沃な赤土と交通の便に恵まれた豊かな移住地だ。
一九六一年にJICAの前身でである日本海外移住振興株式会社によって調査、開発され、同年八月二十二日にフラム・チャベス移住地から一四家族が入植したことから始まった。今年四十周年を迎え、日経人約二百世帯、九百人が生活をしている。イグアスー日本人会(深見秋三郎会長)は、日本語教育、福祉、治安、環境などさまざまな地域住民の要望に応えている。また、新たな事業として「交通センターの建設」と「市街地道路石畳舗装工事」の二大事業を開始し、さらに発展を目指して歩み始めた。
ここには、誰もが自信を持って語る同地で成功させた農業技術がある。「不耕起栽培」である。その名の通り、土地を全く耕さない農法。土を良い状態に保てることと、適期にまきつけができるという利点があるが、何よりも「環境保全型農業として位置付けられていることが最大の功績。近年南米で急速に広まっている。それに加えて、永続的な農業を実現させるために、九四年から始まったのが永年作物であるマカダミア・ナッツ栽培。事業化させるのに何年も時間を費やすため、他の移住地では途中で投げ出してしまった。しかし、ここではそれに耐えうる自己資本と組織力があるため、事業としての道が開けつつある。
久保田洋史イグアスー農協組合長は、「不耕起栽培の成功は移住地の勢いにつながった。新たに導入したマカダミア・ナッツ栽培もうまくいっている。若い世代が多く活躍していることも大きな力」と充実した生活ぶりを語った。
一行の到着後、歓迎会が行われ、参加者たちは現地の人たちと話しに花を咲かせた。そんな中、一つの再会物語が生まれた。再会したのは参加者の一人、小山徳さん(六一)とイグアスー移住地の園田八郎さん(五一)。二人は一九六二年4月2日神戸発のあるぜんちな丸の同船者だった。小山さんは産業開発青年隊として乗船していた。園田少年は別室にもかかわらず、毎日のように小山さんの部屋を訪れ、小山さんをお兄さんとして慕い、遊んでもらった。小山さんは、「生意気でよくしゃべる、うるさいやつだったが、よくなついていたよ」と懐かしそうに思い出を語る。二人は兄弟のように信頼関係を築くことができたが、六十二年五月十一日サントスで別れ、小山さんはパラナ州へ、園田さんはピラポー移住地へと向かい、それ以後二人は連絡を取ることはなかった。二人は三十九年ぶりの偶然の再会に喜び、いつまでも話が止むことはなかった。わずか三時間あまりの短い滞在だったが、またの再会を約束して、一行は次の訪問地アスンシオンに向けて出発した。(つづく)
(平成14年4月1日タイプアップ/和田 好司)
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