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コロンビア=移住75周年=国会議長ら迎え式典=日系人、高い評価受ける。ニッケイ新聞より。
コロンビアの移住の歴史はなじみが無かったが1929年11月に25名の「コロンビア農業試験移民」がその嚆矢との事。この程、75周年記念式典が行われたとのニッケイ新聞の記述を『私たちの40年!!』HPの各国の移住の歴史欄に掲載させて頂く事にしました。学生の頃にコロンビアを訪問された深田さんが適当な写真をお持ちかと思いましたが届きませんので移民船が立ち寄ったカルタヘナのカリブ海に面した港町の公園にあった大きなブーツの写真を検索して探しましたが見付らずBOCAGRANDE(大きな口)と呼ばれる港と町の風景をお借りしました。ヴェネズエラのカラカスに行く途中ボゴタの飛行場で数時間過ごしましたが、歩いたのはカルタへーナの港町だけです。一度ゆっくり行って見たいと願っています。
また船の歴史の研究家の沼田雷介さんから【コロンビア移住第一船「楽洋丸」の航跡】を送って頂いておりますので一緒に掲載させて頂きました。


コロンビア=移住75周年=国会議長ら迎え式典=日系人、高い評価受ける
ニッケイ新聞 2005年11月2日(水)
 【コロンビア・カリ発】日本人移住七曙ワ周年を祝う式典が三藷、当地で開かれ、コロンビア国会議長や同外務副大臣、地元バージェ県知事、日系社会の代浮逍三百人が参列した。二曙ワ人の「農業試験移民」が嚆矢。現在は全国に日系二千人(推定)が暮らし、日系社会への評価は高い。式典を主催した日系人協会の町田栄会長=新潟県出身=はあいさつで、初期移住者の功績を称えるとともに、コロンビア国民に感謝した。
 首都ボゴタから約五百キロ。平均海抜千メートルのバージェ県カリ市は、世界有数の肥沃な土地に恵まれた盆地だ。
 同県には一千二百人ともいわれる日系人が在住、国内最大の日系人社会がある。
 一九二九年処鼬氏A「コロンビア農業試験移民」の二曙ワ人が日本郵船の「楽洋丸」で太平洋岸のブエナベントーラ港に到着して七曙ワ年。
 町田会長は「初期移住者一世の偉大な功績」を称え、「信頼、協力してくれたコロンビアの皆様に感謝を垂オ上げる」と述べた。
 また、米州開発銀行(BID)、国際協力機香iJICA)、オイスカ・インターナショナル、日本外交協会、日本万国博覧会記念機高ネどがこれまで行なってきた日系社会、コロンビアへの支援に対し、深謝した。
 続いて、林渉大使が「移住者たちの努力の結集が現在の繁栄を築いてきたことは日本人の誇り」と祝辞。
 また、四月に訪日したウリベ大統領と小泉首相との「共同新聞発普vに触れ、「両首脳は日本人移住者、日系人がコロンビアの発展と進歩に大きく貢献していることに歓迎の意を楓セしている。日系社会はコロンビア社会の評価、敬意の対象になってきている」と、一部内容を披露した。
 その後、国会議長、副大臣、地元カリ市長らが祝いの言葉を述べた。
 参列した日系人の中に第一次移住者はいなかった。既に全員が鬼籍に入っている。
 一九三〇年に着いた第二次移住者の六人と、一九三五年の第三次二庶O人は健在だ。最年長は田村キヨさん(96)。
 第一次から第三次移住者二初ニ族百五暑辮lのうち、山口県出身一家族六名を除き、全員が福岡県出身者だという。
 当日は第二、三次移住の生存者のうち九人が先駆者として日本の外務大臣から撫イ・感謝状を贈られ、会場で日本大使から各人に手渡された。
 撫イされたのは小椋正雄、小椋アヤ子、森部勝、志波利春、田中辰夫、北御門干夫、森光隆男(敬称略)。
 感謝状を受け取ったのは江村スキエさん、手嶋涼子さん。また、増田ブランカさん、坂本昌子さんが日本大使から撫イされた。二世の増田は日系人協会の婦人部長。
 移住者代浮ニして登壇した小椋正雄さん(89)=福岡県出身=は「これからの日系人社会を保持し発展させてゆくのは二世、三世の双肩にかかっている」と参列した若い世代に訴え、最後に「飛躍は望むべからず、一歩一歩を行く」とあいさつを結んだ。
 また、式典で町田会長は「念願だった新しい日系人会館建設に対し、日本国際協力財団から資金協力が確定した。新年早々に着工する見通しだ」と発浮オた。
 会館は、地域住民への日本文化の紹介、交流の場としての役割も期待されている。

コロンビア移住第一船「楽洋丸」の航跡
南米日系人移民の人たちの中には、コロンビア、チリなど東岸に渡航され、今も元気に暮らしてる方もいらっしゃるのですね。コロンビア移民一世の方がまだご健在と知り、遠く感じていた国が少し身近に感じました。

ところで1929年11月に「コロンビア農業試験移民」の25名が乗船した日本郵船の「楽洋丸」の辿った航跡をお知らせします。

楽洋丸 9,419総トン、長さ135mが三菱重工長崎造船所で生まれたのは1921年5月でした。
初のコロンビア移民が渡航した時はデビュ−してから7年目で、船としてちょうど油が乗っていたときだったと思います。
元々浅野財閥系の東洋汽船が南米西岸航路向けに建造した貨客船でした。
外見は華やかさのない朴訥とした感じの船でしたが、当時の移民船としては珍しく、船内に暖房施設を備えていました。
1926年6月に東洋汽船は日本郵船に買収されていたため、コロンビア移民が渡航した頃は、日本郵船の南米西岸、バルパライロq路の貨客船として就航していました。

この当時「楽洋丸」は、(香港)−門司−神戸−横浜−ホノルル−ヒロ(ハワイ島の日本人街があった港です)−サンフランシスコ−ロサンゼルス−マンザニロ(メキシコ)−バルボアを寄港してブエナベントーラ港に入港しました。

この航海後も「楽洋丸」は一時、1937年末に日中戦争により治安の悪化した上海から邦人の引揚げ航海に数航海就航した以外は、1941年5月27日に神戸から横浜、ハワイ、米国西岸、バルパライモノ向け出港するまで、南米西岸航路を元気に就航していました。
平穏無事に航海を続けてきた「楽洋丸」も、この航海を終えて横浜に帰港後、兵員輸送船として陸軍に徴用されてしまいます。
そして1944年9月12日にシンガポ−ルから門司に向け航行中に、海南島沖で米国潜水艦の雷撃を受けて沈没しました。

ちなみに「楽洋丸」を沈没させた潜水艦「シ−ライオンII」はその前年2月に竣工した新鋭艦で、「楽洋丸」を撃沈した同じ海域で、同日、大阪商船のニュ−ヨ−ク航路に戦前就航していた「南海丸」という花形の貨物船も沈没させています。
戦時中にこの他にも多くの不幸をもたらした「シ−ライオンII」は、その後も不幸な運命を辿ることもなく、戦後もしばらく米国海軍で現役潜水艦として就役を続けました。結局1970年2月に除籍後、最後は1977年3月に米国海軍新造艦の砲撃試験の標的艦となり、海中深くに沈没しています。
蛇足になってしまいましたが、ご参考までに。
沼田雷介


沼田 雷介 さま
第1回コロンビア移民を運んだ『楽洋丸』の辿った航跡興味深く読ませて頂きました。
私たちの乗ったあるぜんちな丸も美人薄命短い歴史を台湾で終えているとの歴史を聞いています。当時、あるぜんちな丸で使用されていた時計が売りに出ていましたがどうなったのでしょうかね。我々がお世話になった移住船にもそれぞれ歴史があり逸話が残されているのですね。
又時々お話を聞かせて下さい。



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