追悼 仰木前監督 神戸新聞メールマガジン「G・ラフ」及びスポニチより転載。
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テレビで元気そうな姿を度々見せていたオリックス前監督、仰木 彬さんが亡くなられた。震災後の神戸市民を励ましたオリックス監督は、野茂投手、イチローを育て大リーグに送り出した人育ての監督、享年70歳。
「阪神・淡路大震災の年のパ・リーグ制覇でそんな「仰木野球」が花開いた。ユニホームの袖につけた「がんばろうKOBE」のワッペンが、グラウンドとスタンドを一つにした。選手は懸命だった。ファンは熱かった。つらい話ばかりの被災地にあって、地元球団の頑張りがどれほどみんなの気持ちを温めたことか。」
「「仰木マジック」と呼ばれる大胆な選手起用は称賛を浴びた。」とのこと、残念ながらオリックスのホームでの試合を見たことがない。清原、中村を補強したオリックスのゲームを神戸で観戦して見たい。
写真は、9月29日の退任の記者会見で笑顔を見せる仰木彬氏 Photo By 共同
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今朝は4時半起きでこれから6時半発のフライトでサンパウロに出向きますが、今朝のメールの中に郷里神戸の神戸新聞メールマガジン「G・ラフ」に仰木前監督の追悼集が掲載さえていましたので転載して置きます。
神戸新聞メールマガジン「G・ラフ」をお届けします。★追悼 仰木前監督
<正平調> ありがとう仰木さん
もしもこの人と出会っていなかったら。長い人生で、そう思う恩人は必ずいるものだ。プロ野球のオリックス前監督、仰木彬さんの訃報(ふほう)を、そんな感慨とともに受け止めたプロ野球選手は多かっただろう。
体をひねる野茂投手の投法も、大きく右足を動かすイチロー選手の打法も、いじらなかった。「故障する」「無駄な動きだ」と周囲はうるさいが、耳を貸さない。型にはめるより力を見極める流儀を貫いた。成否はその後の2人の活躍が証明する。
怒り方がうまかった、と元オリックス投手の星野伸之さんが自著で書いている。
大事な場面で失策をした選手を「お前ともあろう男が」としかる。これならプロの誇りを傷つけないし、選手は発奮するだろう。あとくされのない怒り方である。
「その気にさせた」とも星野さんは書く。意外な選手をクリーンアップに起用し、「お前はあの投手に強いんだ」とささやく。「その気で行けよ!」と励ましもする。「ひらめき野球」と周りは言うが、「心理野球」と呼ぶ方が正確かもしれない。
阪神・淡路大震災の年のパ・リーグ制覇でそんな「仰木野球」が花開いた。ユニホームの袖につけた「がんばろうKOBE」のワッペンが、グラウンドとスタンドを一つにした。選手は懸命だった。ファンは熱かった。つらい話ばかりの被災地にあって、地元球団の頑張りがどれほどみんなの気持ちを温めたことか。
この人と出会っていなかったら、と感じるのは選手だけではない。被災地から思いをこめて、仰木さん、ありがとう。
(12月17日朝刊)
■「神戸」支えた名将
仰木彬・オリックスシニアアドバイザー(70)が15日、死去した。野茂やイチロー(マリナーズ)らを育て上げたほか、3度のリーグ優勝と1度の日本一に輝き、「仰木マジック」と呼ばれる大胆な選手起用は称賛を浴びた。昨年の球団合併の際には、両チームの融合を掲げ初代監督に就任。69歳の球界最年長監督としてさい配を振るったが、今季終了後、体調面の不安を理由に1年で監督を退任。球界のためと、走り続けた名将が逝った。
「仰木さんやから」。今季、統合新球団の応援を決めたファンの多くがそう口にした。選手もファンもわだかまりを抱えた中での船出。「率いることができるのは他にない」。球団関係者の言葉は決してお世辞ではなかった。実質的な観客数は増加。選手たちも勝利へ一丸となり、前年最下位からプレーオフ進出を争うまでになった。
神戸に強い愛情を持っていた。阪神・淡路大震災のあった95年にリーグ優勝、翌年に日本一。「あの時の感動が現場復帰への気持ちを駆り立てた。神戸に熱気を取り戻したい」。今年1月17日には神戸市内を歩いて復興を確かめた。
「仰木マジック」と評される采(さい)配は70歳となった今季も健在だった。
毎試合のようにオーダーを組み替える適材適所の選手起用や、自由契約になっていた吉井の抜てきでチームを再生した。
「グラウンドで倒れるのは本望だが、先頭に立って叱咤(しった)激励できない」。今季終盤、悪化した自らの体を悔しがった。シニアアドバイザー就任の要請は喜んで受け、「自分の健康を考えても、目標があるのはありがたい」。野球への情熱は衰えることがなかった。
11月4日には、療養先の福岡でイチローと会談し「今度はキヨ(清原)に会えたらいいな」と意欲的に語った。だが、11月25日の球団納会は欠席。「宮古島キャンプで皆様の元気な姿にお目にかかりたい」と選手らに寄せたメッセージはかなわなかった。
(永見将人、12月16日朝刊)
<ロビー> 努力家だった仰木さん
★ノザワ最高顧問 野澤太一郎氏 「体調が悪いと聞いてはいたが、残念」と、ノザワ(神戸市)最高顧問の野澤太一郎氏(73)は、15日に亡くなったプロ野球オリックスの前監督・仰木彬
さんを悼む。
1995年から2004年まで球団の後援会長を務め「よく酒食をともにし、お話もさせていただいた」。脳裏に焼き付いているのは沖縄・宮古島でのキャンプを見学した際の光景。仰木さんは選手たちの練習の合間を縫っては、重たいバーベルを持ち上げてトレーニングしていたという。
「自分とさほど年齢も変わらないのに、鍛えておられた。本当に元気な人だったのに…」。
(藤井洋一、12月17日朝刊)
イチロー育てた 仰木彬氏が死去 スポニチ[ 2005年12月15日 23:36 速報記事 ]
プロ野球の近鉄、オリックスの監督を務めて3度のリーグ優勝、1度の日本一に導いた仰木彬(おおぎ・あきら)氏が15日午後4時10分、呼吸不全のため福岡市内の病院で死去した。70歳。福岡県出身。葬儀・告別式は故人と家族の意向により密葬で行われる。
福岡・東筑高から1954年に西鉄に入団し、1年目から二塁手でレギュラーを獲得。中西太氏、稲尾和久氏らと西鉄の黄金時代を築いた。
70年から18年間の近鉄コーチを経て88年に近鉄監督に就任。相手の意浮突く采配は「仰木マジック」と呼ばれ、前年最下位のチームを最終戦(10月19日)まで優勝争いを演じるチームに引き上げた。「10・19」は現在でも語り草となり、翌89年にはリーグ優勝を果たした。
94年から8年間はオリックス監督。「イチロー」の名付け親として知られ、2軍からイチロー外野手を1番打者に抜てき、前人未到の210安打を達成させた。阪神大震災が起きた95年は「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ制覇。翌96年には長嶋茂雄監督が率いる巨人を破って日本一に輝き、被災に沈む神戸市民を勇気づけた。
2004年に野球殿堂入り。今季は近鉄と統合されたオリックスの監督に就任したが、体調不安を理由に1シーズン限りで退き、球団のシニアアドバイザーに就いた。
監督としての通算成績は988勝、815敗、53分け。イチロー外野手をはじめ、野茂英雄投手、田口壮外野手など多くの大リーガーを育て、飾らない人柄は多くの野球ファンに愛された。
▼オリックス・中村勝広監督の話 突然の訃報に接して、やり切れない気持ちです。シニアアドバイザーと監督として来季も一緒に仕事ができるのを楽しみにしていた矢先で、残念無念の極み。仰木前監督の遺志を引き継いで、来季こそ優勝という二文字を目指して頑張っていくことが供養になる。
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