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ビーグル海峡で迎える壮大な年越し!最果ての町USHUAIAへの旅!
丸紅ブラジル会社勤務時代も年末、年始も一斉休暇を実施して全従業員から10日間の休暇を取り上げるとの会社の方針に従い良く家族旅行を楽しんでいましたが、何時も仕事が気になり中途半端な休暇となり女房殿の顰蹙を買っていましたが、さわやかになってからは、上司がいない自分自身に対して以外は報告義務も拘束受けない事から却って引き締まると言った現象もあるとは云え自由な行動が取れます。この年末年始も一斉休暇を実施、自らアルゼンチンのパタゴニア地方への旅を女房と二人だけで楽しみました。
折角の旅でもあり年末、年始を挟み1月2日の66歳の誕生日も含め大いに英気を養える旅となりました。何時ものように旅行記でもなく観光案内でもなく旅行中のメモ帳程度ですが書き残して置く事にしました。
写真は、思わぬ女性4人に囲まれての66歳の誕生日に撮った上野3代の女性に挟まれてご機嫌の一枚です。


【12月30日】第一日
何時もそうですが、旅行の始まる前の心地よい期待感、緊張感がとても好きです。特に今回は年末年始という特別の時季に仕事を忘れ普段不義理をしている女房殿と一緒の旅で点数稼ぎの目的もあり娘達3人を置いての二人旅、チリ旅行、日本旅行、太西洋の孤島フェルナンドノロニア島への旅行等マゼラン海峡より南の南米大陸最南端、ビーグル海峡に面した最果ての町への旅立ち気持ちが昂ぶります。
朝は、5時半に起床、旅行期間中はインタネットの環境次第ではアクセスが上手く行くかどうか分からない事から必要なメールをCHK、『私たちの40年!!』MLにも通知する。昨日から準備しておいた冬支度の荷物点検、出来るだけ身軽にと思っていたが靴2足、ズボン、防寒具一式(氷河の上を4時間半歩くトレッキングコースをオプシオンで入れている)、夏のこの時期の旅行とは違う旅装に戸惑いを感じている。
午前中は、通常通り事務所に出る。御用納めをしている筈なのに日本から残務整理で出社しているとの猛烈社員からのメールが飛び込んで来る。年内に返事をとレポート作成して送る。年明けに必要な書類のプリントアップ、返事をしていなかった数通のメールの返事書きと昼までに総てを終えて今年の仕事納めをする。
何時も見る街角の温度計は丁度30度を示していた。暑いポルトアレグレの夏から南極圏への旅は、午後4時半のフライトで今晩はブエノスアイレス泊、当地からのツアー参加者は4名とのことですが、世界中からブエノスに集結しアエロリネア・アルヘンチーナの殆どの席が観光客で溢れるとのことです。日本からの参加者も多いとの事。
リオに山登りに出かけてしまった末娘の小百合を除いて未だポルトアレグレに居残っている弥生と茜が飛行場まで送って呉れる。16時35分発AR1221便でブエノスに向う。
夏時間を実施していないため1時間の時差があるブエノスに現地時間5時半頃到着する。時計を一時間戻す必要があるがこれからもブラジル時間の時計をそのまま使用することにして現地時間を頭で調整する事にした。入国、通関を終え一先ず400ドルだけ現地通過ペモノ交換する。年初初めから数度ブエノスに出張して来ているが1レアル=1ペモセった換算率がブラジル通過の方が強くなり1ドル=A$3.03とブラジル通貨の方が強くなっていた。前に交換して居た手持ちペモヘ、20%程度為替差損が発生する。
5時50分に国際空港EZEIZAよりセントロに向う。広い有料ドーロを走り35分程でセンターのREGENTE PALACE HOTEL(4星)に到着CHK INする。
年末の町の店は8時まで開いているとの事で近くのフロリダ通りに出向く。けい子が是非水彩画用の絵の具を探したいとのことで大きな本屋、文房具屋を探して回る。欲しかったWINSORの赤い色の絵の具は見付らず。水彩画用の太目の筆を購入。序に習字用の筆3本セットと墨(何れも中国製)を購入した。ショウウインドウには、皮革製品が溢れており売り子がPR用のチラシを配っていた。
フロリダ大通りのビルの最上階の事務所からは、1年間の溜まった不要の?書類を裁断した紙吹雪が舞い町の大通りに紙が積もる。流石フロリダ通りでは見かけなかったが、平行した通り我々のホテルのあるSUIPACHA通り等には年の瀬を迎える街角に乳飲み子を抱えた親子等がたむろしていたりコルドバの大通りの信号待ちに小さな子供が手を出して小銭をせがんできたり、10年前の1995年の年初に家族全員でブエノスを訪問した時の綺麗な町、豊かな町との印象を持っていたけい子は、治安は別にしてアルゼンチンでも貧富の差、貧しい人が増えているのかなとの感想を述べていた。
ホテルに着いて直ぐ三浦大祐さんと林正明さんに電話をするが通じず留守番電話になり諦めていたが買い物がてらの散歩より戻ってきて再度TRYして見たら林さんの携帯に繋がり何とか夕食を付き合って欲しいとお願いして夕食を付き合って貰う。
ブエノスでは一番良いといわれている日本食レストラン【遊亀】の蘭が取れたとのことで8時半に林さんがホテルに迎えに来て呉れる。レストランで日本食をしながら話し合う。イカ納豆、冷奴、刺身の盛り合わせ、寿司(穴子寿司)にメンドンサの赤ワインを頂く。
林さんと楽しく歓談し夕食後ホテルに送って貰う。

【12月31日】第2日目
6時半起床(5時半)。常備薬を忘れてきている事に気付く。昨夜は日本食で林さんと飽食した上に薬を飲んでいないので血糖値が上がっているのではないかと心配していたが計って見ると97で通常と変わらぬ数値で安心すると共に奇異に感じる。飛行場で薬局に飛び込み常備薬を探す。
同じ名前の薬は見付らなかったが血糖値が上昇するのを遅らせる働きのあるGLUCOPHAGEと言う薬とコレステロール管理のLIPITORの2種類を購入し飲み始める。明日朝の検知が気になる。
9時50分にブエノスの国内線飛行場アエロパルケよりウシュアイア向けのアエロリネア・アルセンチーナのAR2898に乗り込む。粗、定時に飛び立ち3時間30分で1時20分にウシュアイアに到着する。窓際に座っていたのでアンデス山脈の雪を抱く山並を写真に収め次第に気温が下がって来るのを機内でも感じながら清々しいウシュアイアの飛行場に到着する。珍しい木を主にした飛行場の建物の中では階段が木で出来ていた。荷物が出てくるのに時間が掛かったが旅行社のバスが待機しておりポルトアレグレのGARAPAGOS旅行社扱いは我々2人にブラジリアに住む元ブラジル中央銀行勤務NIWTON SOUZAさん夫妻の4人だけでHOTEL VILLA BRESCIAにCHK INする。ウシュアイアの町のメインストリートであるサンマルチン大通りに面した4星のホテルでそれ程大きな部屋ではないが小奇麗なホテルで気にいる。
午後からは早速、6時間半のビーグル海峡のアザラシ島、ピンギン島、灯台、チリ側の海軍基地等を見てまわる周遊船の観光に向かう。ポルトアレグレからの仲間としてNIWTON夫妻と行動を共にするが、船内でサンパウロのサンジョゼドスカンポスのPANASONIC工場に勤務しておられる丸橋芳明さんご夫妻と同席し色々話し合う。これまでに海外6箇所合計18年間の海外生活で何時も単身赴任で奥様が何度か現地を訪問された事があるが何時も不自由な海外勤務をして来られたとのことで今年は奥様がブラジルを訪問されたのを利用して以前にアルゼチンの貿易自由地区のリオグランデ(TIERRA DEL FUEGO)に勤務された事もあり奥様を案内して来られたのことでした。
船内には日本から来られた家族連れ、若者が何組も乗船していた。
真夏の時期に遠く望見されるチリ側のアンデス山脈だけでなしウシュアイアのアルゼンチン側でも山には雪が残っており綺麗な雪渓が臨まれ何枚も写真に収める。
太平洋と大西洋を繋ぐ海峡には有名な大型船が航行するマゼラン海峡(チリ側のプンタ・アレーナの町が有名)のもう一つ南側にビーグル海峡がありこの海峡の町としてアルゼンチン側のウシュアイアが南米大陸の最果ての町として観光地として栄えている。
天気も良く冷たい風が吹き付けるビーグル海峡を60km程航海、ピンギンの繁殖地として観光にも利用されているピンギン島まで行く。愛嬌のあるヨチヨチ姿で無数のピンギンが居る島に錨を下ろし写真をパチパチ撮る。
チリとアルゼンチンに国境線は、ビーグル海峡の一番深い場所と国際法上の規定に従っているがチリ側に入る小さな島、3島の領域権を争い戦争?になり最終的には、アルゼンチンがチリに返却したとのこと。フォークランドのイギリスとの占有権争いの戦争はブラジルでも大きな話題となりポルトアレグレの空軍基地をイギリス側の戦闘機の給油地として提供したりしたことから良く覚えているがこのビーグル海峡の紛争に付いては知らなかった。日本とロシアの北方3島の占有権、領土問題や、韓国との竹島紛争等国際法では裁き切れない国と国の面子、領海権に絡む占有権等の問題が話題となっているが南極に近いビーグル海峡でも同じような問題が起きていたと言う事実は興味深い。
アルゼンチン最南端の州であるTIERRA DEL FUEGOの州都として観光を中心に栄えるウシュアイアの町は人口6万人。FIN DEL MUNDO〔最果ての町〕と呼ばれるウシュアイアの町は、高倉 健が出てくる網走の町を想像して居ただけに夏の観光時期でもあり雪渓の残る山々が目に着くとは云え〔最果ての町〕との印象とは大きく懸け離れた観光の町、夜の10時半まで明るい底抜けの明るさを感じさせる首都ブエノスより豊かな感じの観光都市です。
夜は、ホテルでの年越しのセイア(晩餐)の蘭確認をしていなかった為。町で有名な蟹料理を食べさせて呉れる店に出かけたが蘭で満席で他のレストランも同様、席が取れず困ったが何とか中華料理店の『彩虹賓庁』に何とか席を設けて貰い二人で年越しの夕食を摂る。メンドンサ産の赤ワインを頼んで蛸、烏賊、その他海産物と中華料理風のビュッフェで満腹するが食事を終えて出るときの時間が11時半(現地時間10時半)だったのに外は未だ明るく港に停泊しているアルゼンチン海軍の船を写真に収める事が出来た。
ブラジルの12時には毎年3人娘達とは一緒に過ごすか離れていれば必ず電話を掛けて来るが電波が届かないのか今年は携帯電話がなる事はなかった。
1時間遅れのアルゼンチンのお正月は、如何にも静かで爆竹一つ上がらず数少ない晩餐会を行うレストランでの乾杯程度の静かな年明けとなった。
これを書きながらアルゼンチンで正月を迎えたがレストランで飲んだワインが効いたのかけい子は、静かな寝息を立てている。

【1月1日】第3日目
題名の【ビーグル海峡で迎える壮大な年越し!】にはそぐわない静かな平穏な年越しとなったが、8時(現地時間7時)にモーニングコールを頼んで置いた。今朝は電話のベルがなるまで気が付かなかったので7時間は寝ていた事になる。
血糖値を図ったら121で薬を飲んでいるのに普段より高い。年越しの晩餐会の余韻が残っているのかも知れない。
8時半に観光会社のTOLKEYEN PATAGONIA TURISMOのバスが迎えに来てくれて国立公園見学に出かける。途中の道を河野さんの推薦にもあったTREN DEL FIN DEL MUNDO(最果ての鉄道列車)に乗ることにして町から8キロ離れた【最果ての駅】まで行く。途中世界で最南端にあるゴルフ場をリオ・ピッポ川沿いの右手に見ながら走るが、最果てのゴルフ場との事で断崖絶壁で海に面したゴルフ場を想像していたが川沿いのリオのテレゾポリスのゴルフ場に似た地形で幾つもボールを川に叩き込む可柏ォがありそうであるが南極に向けて3個だけ叩き込んで見たいとゴルフボールを密かに準備してきたが想像が外れ少々落胆しゴルフには興味を失い女房孝行に徹することにした。
【最果ての駅】で切符を買い1時間弱の汽車の旅を楽しむ。途中で【MACARENAの滝】で停車、滝を見に歩きRIO PIPOの清流を右に左に見ながらの旅は心が和む。昔懐かしい蒸気機関車は、白い煙を吐いて郷愁を帯びた汽笛を鳴らし幅50センチの狭軌の線路の上をノロノロ走る。ブラジルの公園によくある子供の夢の汽車(大抵は線路の上をトラックターで引いたり電気機関車を使用)を少し改良し路線を長くした感じ。5両連結で最終貨車は、ファーストクラスになっており、日本人の社長然とした恰幅の良いご夫妻が外からじろじろ見られながら決まり悪そうな様子で座っていました。
車内ではスペイン語と英語で案内嬢が色々説明してくれていましたが、日本であれば『汽笛一声新橋を。。。』と歌の一つも飛び出す所でしょうが、それ程の愛嬌はなく歴史的背景(1901に国境の最前線に人を住ませる目的でウシュアイアに監獄を設置、獄舎に繋がれた凶悪犯を強制的に働かせてこの鉄道を敷設、その後は汽車の線にそった場所の木を伐採させ、製材所とか暖を取るための薪として使用したとか。汽車の沿線には、枯れた木がそのまま放置されていた。1947年に集団脱走事件が置きそれ以後監獄が閉鎖されたとの事で鉄道の補修等は国が行い1960年に国立公園として指定、これまで管理してきているそうです)、その土地に住む動物、環境を重んずる自然林の保護とそこに生殖する樹木、草花、苔等の説明等を聞かせて呉れる。
終点は、ESTACION ANDEN PARQUE NACIONAL【国立公園前駅】で汽車はそのまま折り返し【最果て駅】まで戻るとの事であったが我々は先回りして待機して居たバスに乗り込み国立公園に入場する。チリとアルゼンチンの国境上にある大きなLOGO ROCAの湖畔の散歩、CASTOL(川獺?)、ウサギ、地鶏、川鳥等を見ながら国立公園内をバスで走りアルゼンチンの国道3号線の終着駅にあたるブエノスアイレスから3063km、アラスカから17848kmの標識があるBAHIA LAPATAIAまで到着しウシュアイから来ていた観光船を見ながら帰路に着く。4時間半の旅で空腹も感じ町で昼食を摂る店を探したが昨夜の年越し晩餐会の後で開店している所が見付らず苦労したが何とか1軒だけ開いている店を見つけて飛び込む。何とか席を見付けて遅い昼食を始める。
NIWTONご夫妻と4人で大きな蟹の特別料理を頼み皆で分け合って楽しむ。既に蟹の身を調理、味付けしているもので茹でただけの自然のものでなかったが水槽に入っていた蟹は30cm−40cmの大きなもので肉もしっかりしており甘味さえ感じる美味なものであった。蟹と烏賊の入った混ぜご飯も美味しくけい子は満足してくれたようです。
遅い昼食後ハイヤーを頼み山の上まで上りましたが普段なら5時まで動いているロープウェイは、正月で営業しておらず歩いて上ると往復4時間は掛かるとの事で諦めて市内観光に切り替え運転手さん任せで町を山の上からと下町、港から見える観光スポットを案内して貰う。既に歩き回り土地鑑は有ったのですが高山植物の名前を教えて貰ったり町で唯一のスラム街を通りながら観光で潤っている裕福な市役所が家を建てスラム街の住民を移転させる計画が進んでいるとの事でした。
港には、南極大陸まで800kmも離れているとの事ですが、砕氷船とか南極大陸向けの船、韓国からの漁船等が入港していました。日本水産が製造拠点を置いており漁船3隻で漁業をしており蒲鉾ようのすり身をウシュアイアで生産し冷凍船で日本に輸出しているとの事で南極探検の最後の寄港地としても繋がりがあるとの事。
港の近くの博物館を見て帰ろうと思ったが、元JICAの青年ボランタリーの藤井みどりさんがウシュアイでお世話になった日本人のペンショナットを経営しておられるお年よりが居ると聞いていたので運転手さんに聞いて見たら何処か場所を知っているので案内して呉れるとの事でお願いする。町の北部の山際(MORRO地区)にある【世界最南端 上野山荘】との看板のある丘の上の見晴らしの良い家の前まで運んで呉れる。
家の前の庭の草取り作業をしておられたご夫人(上野伊都子さん)に御挨拶をした所、母上の上野綾子さん(84歳)を呼び出して下さり誘われるままに上がり込み日本茶を頂きながら話を聞かせて貰う機会があった。
上野さん関係の話題は、別個書くことにしてこのレポートでは触れない事にします。
タクシーを呼んでもらい帰り際にブエノスアイレスより正月休みを利用してウシュアイアに来ておられる上野さんのお嬢さんより明日の夕食に来るようにお誘いを受けて私の66歳の誕生日でもあり皆さんとご一緒に過ごしたとの気持ちより喜んで招待を受けることにしました。
夕食は、ホテルで簡単に済ませ早めに寝る事にしたが日誌を書いたりしていると午前1時(現地時間12時)になる。12頃(11時)まで明るく太陽の暦とは大きくずれていて時間の感覚が狂ってしまう。

【1月2日】第4日目
1月2日は、私の66回目の誕生日である。毎年忘れがちな目出度い日で本当は前年の12月生まれを早生まれの翌年に回したとのことで谷広海君は、1月1日で登録しているが私は流石の元日を避け2日付で出生届を出したようです。今回の船旅でお知り合いになったPANASONICの丸橋 芳明さんも1月2日生まれとの事でしたが彼も矢張り12月生まれとのことでした。小学校の頃、試験に生年月日を書けとの問題が出て母親から聞いていた12月23日と書いたらXを貰い憤慨した覚えがある。娘達も本当の誕生日でないので祝う必要がないとか相手にして貰えないが事実はどうあれ書類上は今日1月2日が誕生日であり66歳になった。
何時もと同じように早朝目が覚めるが、トイレに行った後また寝込んでしまい2度目に起きたのは7時半であった。早速血糖値を計った所、今日は105と少し下がっていた。夕食を簡単にしたためか歩き回ったのが効いたのか、あるいは飲み始めたアルゼンチン製の薬が効き始めたのか理由は分からないが血糖値管理は今年も続けて行かざるを得ない糖尿病境界線者と医者に言われており注意する必要がありそうです。
本日のウシュアイア観光は、バスで【隠れた湖】と州内最大のFAGNANO湖を見て回る1日コースで9時20分にホテルを出て午後4時半にホテルに戻って来るとのこと。
TIERRA DE FUEGO州の州内随一の工業都市、貿易自由港として栄えるリオグランデに向けての国道3号線沿いに走るそうでそのまま北上すると3063kmでブエノスに到着するとの事。
近く遠くに雪を抱く山並を左右に見ながらの観光は最高で雄大な景色は新年には最適の英気を養ってくれる空気の澄んだ高原のバス旅行となりました。途中何箇所かスポットに止まり66歳の記念写真を撮り冬の雪に閉ざされる時期に大いに役にたつ橇を引っ張る強健な犬を飼育、調教している場所にバスが止まり人と犬の情愛とその歴史を聞かせて貰う。冬には犬に橇を引っ張らせる国際競技が行われるとの事でその様子をビデオで見せて呉れる。犬を飼うのもこの地方では冬の間の【最良の友】としての強い絆に結ばれているとのことで人なっこい頑強そうな犬は寒さに強く暑さに弱いとのことでこの夏場はあまり元気がないとの事でしたが訪問客に愛嬌を振りまいていました。
山の一番高い場所でバスが止まりバスから下りると強風が吹き寒さが体を襲うが見渡す限りのチリ側の山並みに根雪が残る雪渓が臨まれ、雪の残っている場所は、大きな深み穴等があり数メーターから数10メーターの根雪が残っておりこれは年間を通じて溶ける事はないとのことでした。遥か下の方に湖が見え、これがLAGO ESCONDIDO【隠れた湖】との事で湖畔にあるバンガローが散在するホテルまで4キロ弱、小一時間のトレッキングを楽しむ事にして首にマフラーを巻き、手袋をして歩き始める。山裾に入ってからは風も収まり冷たい風に頬をなぶられながらの散策は、下り一方で楽々と歩ける。途中目につくのが大きな葉と大きな黄色い花を着けるタンポポでこれが寒冷地に良く馴染み到る所に見られる。クロバーも白い花を咲かせていました。町の中で見られるのは、ルピノと呼ばれる花で色取り取りですが縦に花を着ける豆科の北米のカナダ寄りの寒冷地が原産地とのことで南米の南端に良く育ち綺麗な花が目を楽しませて呉れる。初めて見ましたがウシュアイアの町にマッチした市花とも云える忘れ難い花となりました。
湖畔の宿で歩かないでバスで先回りして居た人達と合流しもう一つの湖に移動、そこで昼食かと思っていたら食事はその先の高原にある地元食のコルデイロ(小羊)の焼肉を食べさせる大きなレストランで摂るとのことで空腹を堪えて我慢する。午後2時半にレストランに到着し暖かいストーブの近くに陣取り山の幸、有名なPATAGONIAのコルデイロを食する。子羊の内臓を取り除き両側に広く広げた、丸まるの一匹をとろ火で何時間も掛けて焼いたもので中の方の肉は焼いたと言うより煮たような軟らかさになり味が染みているが矢張り一番美味しいのはカリカリと焼けた肋骨の骨付き肉の内側で縦に走った肉は太い糸のような形状で臭みもなく非常に美味しい物であった。臭みがないのは青草を食べない育ち方をしているからとの上野伊都子さんの説明を夜の誕生祝いの席上教えて貰いました。
夕刻、ウシュアイの町のホテルの近くにあるインターネット接続ポイントに出かけ今年初めての接続をする。ブラジルを出てから数日で150通以上のメールが溜まっておりこれをダウンロード、一部返事をして『私たちの40年!!』MLにも転送文とこの旅行記の第一日目と二日目を流す。
66歳の誕生日を【世界最南端の上野山荘】で上野綾子さん、8歳でアルゼンチンのミッショネス、グウアララペス移住地に入られた上野伊都子さん、お嬢さんのLUCIANAさんの上野家3代の女性にけい子とここでも女性4人に囲まれての誕生祝いとなる。
山のレストランで買い込んでいたワインと町の洋菓子屋さんで作って貰った誕生ケーキを持参、伊都子さんが町まで買いに行って呉れたという大きなタラバ蟹をご馳走になり、綾子さんが作って呉れたタラバ蟹の混ぜご飯にタラバ蟹のおすましの汁での夕食、LUCIANAさんが作って呉れた鶏肉の煮込みはとうとう手を付ける事が出来なかった。それでも誕生ケーキだけはローャNを立てハッピーバスデイを皆で歌って祝って呉れました。
ポルトアレグレを立つ時は、まさか最果ての町で女性4人に囲まれ忘れ難い誕生日を上野山荘で3代に渡る上野家の女性との楽しい語らいと食事を楽しめるとは想像もしていなかっただけに忘れ難い誕生日となりました。
何時もなら旅先での仕事上のお付き合い、押掛けに近い強引な訪問等に癖壁し旅先での地元の方への訪問を嫌う(遠慮する)けい子が上野さんのところには喜んで招待を受け楽しそうに話し込んでいたのは珍しい出来事。綾子さんには、3歳若い自分の母親、伊都子さんとは少し年が離れているとは言え移住者としての苦労話し、LUCIANAさんとはポルトアレグレに残して来た娘達と何れも自分の環境と重ね合わせた話が弾むことから初めて旅先での訪問が楽しい触れ合いとして喜んで呉れた。
上野さんに付いては、別途詳細を書き残す事にしたい。
午前2時(1時)近くまで長居をしてタクシーを呼んで頂きホテルに戻る。深夜料金?ガないのか上野山荘から町のホテルまでが僅か6ペメi2ドル)であった。




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