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パラグワイ日本人移住者の精神的思考の研究 野口紘一さんの論文です。(続き)
実体験に基づいた野口さんのコラムは、大変参考になり楽しみにしている一つですが、 【パラグアイ日本人移住者の精神的思考の研究】掲載が終了しましたので続編として『私たちの40年!!』HPの各国の移住の歴史に収録させて頂きました。
パラグアイ移住者のその背景、歴史から来る【思考型】の括り方が分かりやすくて便利だと思いますが、ブラジルであれば【炭鉱離職者型思考】、【コチア青年型思考】、【産業開発青年隊型思考】、【工業移住者型思考】、【花嫁移住者型思考】、【南伯雇用者型思考】、【事業団の各移住地入植地型思考】、【ドミニカからの転住者型思考】、【日本学生海外移住連盟型思考】、【日本ブラジル交流協会型思考】、【人生の選択権行使型思考】等々の精神的思考がその数字的な括り方は、難しいとしても思考型としては考えられるのではないかと思います。
写真は、カリフォルニアの野口さんがお住みの家庭有機菜園の写真を送って頂きました。胡瓜が良く出来ているようですね。



パラグワイ南部における日本人の入植地の分布状態を見てもブラジル国境のアマンバイ移住地のみが、ブラジルのポルトガル語圏での思考となる感じで、その後イグワス移住地が『友好の橋』の開通と同じくして、ブラジルの影響が浸透してきました。
ブラジル化と言うパラグワイでの変化は主原因は経済的な影響が大きかったと感じます、鉄道もサンパウロまでの直通を1960年台の時期には主流として有り、ブラジル領のポンタ・ポラン市からは、ブラジル各地に長距離バスが発着して居た事を考えると、ペドロ・ファン・カバリェロ市からパラグワイ首都のアスンションまで出るよりも、もっと日系社会が成熟して勢力のある、経済的にも豊かなサンパウロ市場の魅力はアマンバイ農協の関係者でも認めていました。特にコーヒーを特産商品として生産していたアマンバイ農協は、関連して間作の蔬菜、養鶏、などの他、商店などのポンタ・ポラン市の活気と関連して、夕方の市場にて現金収入を計っていましたが、パラグワイ日本人の入植地としては特にブラジルの影響で思考的な考えが、フラムなどの入植地と少し違った思考の影響が有ったと感じます。そして移住者が選択した再移住地はブラジルの日本人が経済的に勢力があり、活動拠点としてのサンパウロを目指した事は、南部のフラム移住地などの入植者が、アルゼンチンを目指した事と対照的に比較が出来ると思います。それにはその移住者が持った思考の変化が多くは経済的な要因が一番多く作用したと感じます。
それはブラジルに移住した韓国人が農業などはブラジルに入国する手段と言って、はばからなかった事を考えると、持参した資金を優良な投資先を考えて、狭い住宅、商店、工場などで僅かな投資の機械編み機を使い、原料の安い羊毛原価での仕入れをして、大量生産を家内工業でのシステムで行なっていた韓国人のタフな考えの思考が、彼等の持つ民族的思考として持ち込まれたと感じます、その事は現在のアメリカ社会でも東部のニユーヨークなどではパパ・ママ、ストアの小さな商店の多くが韓国人が開いている事を考えると、納得が行きます。
日本人の移住者思考の変化は現在の、アルゼンチンでの郊外160kmぐらい離れた小さな田舎市で、そこに住んで居る日本人家族の6家族の内、沖縄県から直接移住して来た一家族を除く、後は全部パラグワイからの再転移住に関連する事で来た人ばかりでした。
丁度、2年前訪れて話した時は、1960年代のフラム移住地的な思考であったのは驚きでした。それは現地パラグワイやアルゼンチンで生まれた2世達が1980年始め頃から日本に出稼ぎに出ていて、一部日本に定住して、思考的な考えが他所からの影響が無く、そのままの状態で維持された事と感じました。(10)

パラグワイでの移住者が1970年に入るとかなりの思考的な変化と、日本から家族での移住で来た子供達の成長で、親の日本的思考的がかなり変化してきました。親もパラグワイのスペイン語をカタコトでも話せる様になり、パラグワイ国内での情勢も自分の自己判断での分析で、子供との会話の中で、一層にパラグワイの理解と情勢が判断される状況が出来てきたと感じます。
70年の初めには、かなり多くの移住者がパラグワイでの農業の破綻か、また経営に行詰まり、移住地での移住者事態の選別が進んでいた時代と感じます、安定経営を掴んだ人。それを模索してパラグワイに定住を永の住みかと定め、ここで骨を埋める覚悟が出来た人。
アルゼンチンに子供を送り出して、温室などの花菜栽培での安定経営を掴み、親子の連帯経営での助け合いで、パラグワイを自分の郷里と定めた家族。アスンションに農場を高ヲて子供達が成功した蔬菜、養鶏などでの移住地での経営、バックアップが連帯の家族の絆での将来の先を見極める事が出来た家族。多くの移住者の選択淘汰がなされた時期と感じます。その選択をチョイスしたのはパラグワイで成長した子供達や、そこで産まれそだった子供達のパラグワイ化によって、移住地内の日本語学校での教育が、親との日本語の連帯コミニケーションを持続させ、発展さ
せて、成長して移住者的思考を大きく変化させたと感じます。いくら完全に日本語の読み書きが出来ても、食生活などまったく日本的な習慣を維持していても、ジックリと話して、膝を交えて交際すると分る事は現在の日本人とまた、同世代の日本人とは少し違う考えの思考的な傾向がある事を話しに聞いて、世代の変化と進歩と同化が進んだと感じます。またそれに連れてアルゼンチンに再転移住して、落ちついた生活で、ブエノス郊外での小田舎都市での日本人社会の孤島化現象が起きていたことは注目しなければならない。パラグワイからの再転移住が集団でも小人数の限られた世界では、フラム的な日本的山村の農村部落形態を維持して、子供達が日本語学校などで教育を受けるチャンスも無く、親との日本語での連帯の絆が薄く、親の思考は取り残され、昔のままで維持され、子供達と離れた思考的な分離が起きていったと感じます。
子供達の結婚と言う新世代形成が、現地アルゼンチン人と結婚して、それは次期世代の三世が、日本人と言う思考を放棄した狭間と感じます。
それによりますます、小社会の日本人思考が残り、維持され、自然消滅して行く運命と感じます。この事は300年前のポルトガル人がアジアの勢力拡大の時期にマラッカ海峡の近くに残した、小ポルトガル系社会を連想させます。(11)

パラグワイ移住地での日本人的思考的変化の定着化、同時に土着化したガラニー語を交えての意思疎通で育った子供達からと、フラムでの入植者が15年ほどかけて、体験とその経験から来るパラグワイ社会の変革で、移住地での選択淘汰された移住者の集団的思考のもとでこれからの将来を考える人が多く出て来たと感じます。
入植後の相互手間耕、助け合いの昔の田植えの共同作業と同じ様に狭い移住地での、仲間意識と競争意識、フラムの移住地が農村部落意識の典型的な型を持っていたと感じます。
1970年当時は移住地から転移住する人は、全てが隣国ブラジルやアルゼンチンに再移住しており、パラグワイ国内での転移で残った人々もすでに落ちついて、パラグワイが永の住みかとしての思考が安定期に入り大豆・小麦栽培と言う大型集約的農法への将来の希望と収益がもたらす生活安定という定住への安心感を、多くの人が持ち始めていた時期と感じます。この時期はまた多くの日本の新興宗教が活動をしていた時期と感じます。
戦後、日本では占領軍の進駐と同時に、多くのキリス 教布教や、新興宗教が活動したように、PL教団、生長の家、立正佼成会、創価学、天理教など、移住者の信者が持ち込み、移住者の中にはその信者が含まれましたので、ブラジル本部やアルゼンチン支部などからの講演や布教により、パラグワイの移住地での活動が有り、その関連する宗教的な日本人的な思考も精神的に移住地の支えとなったと感じます。宗教に裏打ちされた理念は意思的にも強固で、自分の信念として生きる精神的な糧を多く得ていたと感じます。
私も1969年頃にコルメナ出身者が奥さんと創価学会の本山参拝に日本に他の学会会員と集団で来ていた時に、当時日本に滞在していた私は、面会に行った覚えがあります。またカトリックの洗礼を受けていた移住者が困窮時代に妊娠した奥さんの望まぬ出産を受け入れて、必死に子育てしていた精神的な強さを知っています。またブラジルに移住した私の先輩が当時、無教会派キリスト教の信者でバイブルを贈呈されて、読んだ覚えが有ります。彼はブラジル・レジストロの第2のお茶の里タピライの開拓をして最後まで指導してブラジルの土となりました。
私は開拓には宗教的精神が、大きな精神的な作用をして、その開拓、営農、その次ぎの世代までの確固たる精神基盤を作り、維持して行ったと感じます。この事はパラグワイの歴史でも証明されていると思います。(12)

パラグワイでの日本人移住地の生活安定と、子供達の教育環境も少しずつと現地化と平行して、日本語教育もかなりの成果が出て来ていました。南米各地の移住地がある国で一番、日本語教育が成功したと感じます、その事はフラム移住地が、そしてパラグワイでの多くの移住地で日本人として、子供達の現地の学校の教育水準を考えて、親達が日本語教育に熱を入れたのは、日本語での教育を受けて、将来の子供達には飛躍した未来と希望を持たせて、パラグワイでの生活を安住の地として、医者や弁護士、技術者などと言う大学卒の資格と職業を考えた思考があったと感じます。
1970年の初めには、かなりパラグワイからの移住者の子弟、パラグワイ生まれの日系人などが、アルゼンチンに留学を始めた時期と思います。
一部はブラジルや、日本に親戚や兄弟などを頼って日本留学をしていますので、教育思考は日本人の生活目標として、家族中が子供達の将来に賭けていた事が分ります。
生活の安定が生活向上と一致して、教育への思考が大きく変化して、現地パラグワイでの生活向上と言う重要な資金も、営農の成功と将来の展望が開けて、当時ではかなりの大きさの住宅を開拓当初に建設した住宅から立て替えて、レンガ作りの邸宅を作る人も出てきた時期と感じます。
その頃になると、毎年移住してから繰りかえされる正月も共同体の集団的正月の催しも新年会や県人会などの年始の挨拶など、少しずつ変化して来たと思います。移住地からアスンションに転住した息子達を訪ねて、首都での賑やかな家族での正月や、アルゼンチンに再移住している子供達や、親戚など、またパラグワイからブエノス近郊などに嫁に行った家族を訪ねて訪問する事などが正月の時期にかなり見られるようになり、ブエノスに上陸
して汽車や汽船でパラグワイ入りして、初めての観光訪問などが生活の安定と収入に裏打ちされ、定住の思考に大きく変わったと感じます。
中にはかなりの収入を得て、両親を日本の郷里に里帰りをさせる家族も出て来て、故郷に歳を取った両親を親元の墓参りや親族訪問に行かせる移住者が出てきた時期と感じます。移住者の思考がパラグワイが定住化と永の住みかとして、日本国が祖国としての思い出の郷里と変化した時代ではないかと思います。
この様な状態は1980年ごろから始った、日本のバブル経済の求人の募集が各移住地で起き始めるまで、小日本人移民社会の成熟期と思います。
移住者社会の経済的な安定と子弟教育の成功、各種日系団体の活動の活発化などが重なり、子供達がパラグワイ社会での足場を築き、教育に支えられ、裏打ちされた世代への思考の変化の時期とも感じられます。
皆様方が良きお歳をお迎え下さい益す様にお祈り致しております。(13)

パラグワイ日本人移民社会の成熟期を1970年台と仮定して、前後の状態と移住地の政治、経済、社会環境を考査すると、何よりも経済的安定が移住地を落ち着かせたと感じます。その事は子供達の教育や、自分自身の定住化に向けて、住宅の建て替え、拡張、倉庫類の建て増し、トラックなどの運送力の増加と向上、営農の拡大とそれに連れた新規の土地購入などが進み、南パラグワイでの移住地での日本人社会での思考が、成熟した思考で、将来の次期世代を大きな視野に入れて拡張して更なる安定と、永の住みかとしての、パラグワイが存在して来たと感じます。
この頃になると、祖国日本での郷里の親戚、兄弟との農業での規模、経営状態などに明らかにパラグワイ移住者が優って居る事が、移住者達に、優越した自信がついた頃と感じます。日本との貨幣価値の差が有っても、パラグワイ国内では、かなり生活において上位に入る地位に近ずいて居たと思います。
それに連れて、生活の安定から来る自信とその思考が未来思考に大きく変化した事は見逃すことは出来ません。これは1980年頃から始った日本の繁栄と拡張する、バブル経済が求人難という、経済の根幹を揺るがす事になって、その事が南米移住地社会に隅々まで浸透して、労働手配師と言うブローカー的な求人捜しで、日本の工業化社会が他のアジア諸国からの労働力の導入が難しくて、戦前・戦後の移住地へ、過去の移住者、その子供達、現地生まれの二世、三世までをスカウトする事になり、そこで移住地社会が大きく思考的に変化しはじめた次期と思います。
私は成熟期から安定期に入り、そこでの分化された思考が多角的に変化して行った初期の時期ではないかと思っています。同じ日本人の血を受け継ぐ子供達も、そこで祖国日本への、思考回帰現象が起きたと感じます。
これは祖父祖母の時代への、南米に土着化しつつある日本人思考が、また、先祖帰りの思考を模索し始めていたと感じます。
日本に出稼せぎをした日本語の堪狽ネ2世でも、仕事を始めた会社での、田舎から来ている仲間の労働者が、明らかにパラグワイでの祖父母の思考を持って居る人が居たと話していて、自分がその考えの思考に同調して働く事が日本人として、同じ仲間意識で仕事が出来る一番の条件であったと聞いています。
その事は移住者の思考が、祖国日本への先祖帰りと感じます。その事が移住者に良かれか、悪かれかは、その人が感じる考えの思考的な差と感じますが、日本滞在が長期化する人ほど、顕著な感じと思います。その事がパラグワイに帰った時に持ち返った思考的な変化と、多額の出稼ぎ資金での生活状態の向上とに合わせた考え方が出てきた時期と感じます。
パラグワイでの日本人移住地の生活安定と、子供達の教育環境も少しずつと現地化と平行して、日本語教育もかなりの成果が出て来ていました。南米各地の移住地がある国で一番、日本語教育が成功したと感じます、その事はフラム移住地が、そしてパラグワイでの多くの移住地で日本人として、子供達の現地の学校の教育水準を考えて、親達が日本語教育に熱を入れたのは、日本語での教育を受けて、将来の子供達には飛躍した未来と希望を持たせて、パラグワイでの生活を安住の地として、医者や弁護士、技術者などと言う大学卒の資格と職業を考えた思考があったと感じます。
1970年の初めには、かなりパラグワイからの移住者の子弟、パラグワイ生まれの日系人などが、アルゼンチンに留学を始めた時期と思います。一部はブラジルや、日本に親戚や兄弟などを頼って日本留学をしていますので、教育思考は日本人の生活目標として、家族中が子供達の将来に賭けていた事が分ります。
生活の安定が生活向上と一致して、教育への思考が大きく変化して、現地パラグワイでの生活向上と言う重要な資金も、営農の成功と将来の展望が開けて、当時ではかなりの大きさの住宅を開拓当初に建設した住宅から立て替えて、レンガ作りの邸宅を作る人も出てきた時期と感じます。
その頃になると、毎年移住してから繰りかえされる正月も共同体の集団的正月の催しも新年会や県人会などの年始の挨拶など、少しずつ変化して来たと思います。移住地からアスンションに転住した息子達を訪ねて、首都での賑やかな家族での正月や、アルゼンチンに再移住している子供達や、親戚など、またパラグワイからブエノス近郊などに嫁に行った家族を訪ねて訪問する事などが正月の時期にかなり見られるようになり、ブエノスに上陸
して汽車や汽船でパラグワイ入りして、初めての観光訪問などが生活の安定と収入に裏打ちされ、定住の思考に大きく変わったと感じます。
中にはかなりの収入を得て、両親を日本の郷里に里帰りをさせる家族も出て来て、故郷に歳を取った両親を親元の墓参りや親族訪問に行かせる移住者が出てきた時期と感じます。移住者の思考がパラグワイが定住化と永の住みかとして、日本国が祖国としての思い出の郷里と変化した時代ではないかと思います。
この様な状態は1980年ごろから始った、日本のバブル経済の求人の募集が各移住地で起き始めるまで、小日本人移民社会の成熟期と思います。
移住者社会の経済的な安定と子弟教育の成功、各種日系団体の活動の活発化などが重なり、子供達がパラグワイ社会での足場を築き、教育に支えられ、裏打ちされた世代への思考の変化の時期とも感じられます。(14)

パラグワイの移住の歴史において、祖国日本への回帰現象とも思える状態が起きた出稼ぎ現象は、一度この日本のバブル現象でのボロ稼ぎが賃金差、経済水準の差、特にパラグワイが近年においても、生活水準が世界で一番安いという事が、大きく作用して各移住地では直ぐに行動を起こす人が出た事は、当時では不思議では有りません。1980年台のパラグワイでの一ヶ月の平均労働賃金を日本では4日も仕事すれば手にする事が出来れば、誰でもが一度は考えたと思います。この様な思考は自然であり、特にパラグワイでの移住地において日本語教育の盛んだったな事は、移住者達の子供達や二世などが日本に対して、一度行ってみたい、住んでみたい、仕事をしてみたいと言う願望と合わせて、親もその祖国日本では抵抗も無く賛成していたので、全ての全体的思考として、まとまっていたと感じます。親は子供達が仕事を通じて、語学、教育、日本的な習慣の取得、日本的な価値観の理解、その合計として日本と言う国の理解を考えていたと思います。そのような考えは移住地でのこれからの発展と将来にプラスとなると感じていたと思います。まず出稼ぎで得たかなりの、パラグワイ社会にしては巨額な資金は、移住地での農業経営と生活向上と、パラグワイでの一層の定着と安住の地として確立して、何かの時は直ぐに日本に行って稼げると言う、思考が出てきた時期でも有ります。私が知っている夫婦は三ヵ年で当時の日本円で800万円を稼いで、パラグワイでは不可狽ネ短期間での資金獲得で、飛躍した生活と、将来への最短距離でのパラグワイ再出発を果したのを覚えています。
その事は、アルゼンチンに再移住した子弟の子供達も同じで、同じ手配師で、同時期の日本行きで、真面目に仕事をしていた人はパラグワイ在住者と同じ思考での行動であったと感じます。そして同じぐらいの資金を持ち返り、また同じ様な日本での職場で、同じ様な新日本的思考を持って帰ったと感じます。(15)

パラグワイでの移住地の発展と安定は1980年の終わりには確定的な要素を持って、いくつかの重要な出来事が成し遂げられました。
パラグワイの主要作物としての小麦と大豆の大農的栽培の確立、世界市場に対しての安定供給と、それを上回る需要での価格の安定と生産。
移住した子供達、パラグワイ生まれの2世の成長で、世代交代としての、政治的なパラグワイ社会への進出、政治的発言力及び勢力拡大、この事は政治に関しての思考が一世から世代交替して、次の世代への思考と移行したと感じます。また出稼ぎ現象での新日本的思考が再登場して、旧世代と交じり合い、融合して、また狭い移住地での日本人社会の再成熟となったと感じます。家族の中で日本に出稼ぎに行き、祖父母の郷里を訪問して、親族と再開して日本でのルーツを再発見した、世代交替した新しいパラグワイ日系人達が現代の日本を学び、、覚り、自覚して、日本的な習慣の取得、日本的な価値観の理解、語学をさらに磨き完成させて、これからの将来の建設資金を持ち返り、また、かなりの新世代の若
者達が隣国、アルゼンチンやブラジル、僅かな数のウルグワイ、遠くは日本で学び研究して、新思考という風をパラグワイに吹き込んだ事は、1990年台の大きな収穫となったと感じます。
1990年過ぎてから日本の景気後退に伴う、バブルの破綻でのパラグワイへ戻る家族も有り、パラグワイ移住地での日本的な新思考と隣国から学んだ学問的思考や、アルゼンチンなどに再移住した親族、友人、県人などからパラグワイ移住地に入って来る新しい思考、それぞれ異なる思考が移住地での日本人、と日系人の思考に大きな影響が出て来て、再成熟期と感じ、パラグワイ移住地でも現地パラグワイ人との結婚も増えて、日本人の幅の広がりと、日系人の層の厚みも増した時期と感じます。
この様にして2000年の新しい世紀を迎えたと思います。
次回で最終と致します。(16)

パラグワイの移住地での日本人の入植者達が持ちこんだ日本的な思考と、それが幾多の遍歴をを経て。現在のパラグワイ日系人がもつ思考となったと感じます。

      日本からの移住者、ブラジルからの転移住者、
                   V
アスンションに出た人達<=コルメナ移住地=>ブラジルに戻った移住者。
                   V
           アルゼンチン、ブラジルに出た人達。 
第二次大戦での移住という時間的な空白と、日本人的な思考の移住地内
での閉鎖的な維持。その中では前ペルー移住経験者と日本の純農村出身
者ではかなりの思考的な開きが移住地内で有ったと聞きました。 
                   V
       戦後の移住再開での南部パラグワイ各地の移住地。        
      
ここで、本格的な計画的日本人移住者の入植が始り、日本人の農村的な思考と各地から来た都会経験者が持つ思考との軋轢と格差が一部は楓ハ化して、移住地での農業経営の破綻から来る、その後の行動と、将来を考えた思考とのギャップとしての大きな差が、現在の移住地に残り営農を続けている方々と、再移住して隣国に移住地を捨てて行った人々とが、分割した思考の原点では無いかと感じます。この事はパラグワイ移住での重要なポイントとなり、思考という移住者が持った考えが、『日本の田舎では米も満足に食べられなかった』『三反百姓として将来の夢も無かった』と言う方々は満足では無かったが、ひとまずは地主として、食べる事と何とか生活出来るから、もう少し頑張ってみると言う人もいましたので、それは個人的な思考の出発点の差と感じます。
青々とした2町歩の真平らな田んぼを見せてくれ、これさえあれば腹を空かすことはないと言い切って、『俺はここで骨を埋める覚悟が出来たから辛抱する』と話した人を知っています。
パラグワイ移住者の原点を突き詰めて見ると、日本人が定住稲作民族としての思考が身体に刻まれたDNAとして作用して、多くの移住者がパラグワイに骨を埋める覚悟を決め、その決意での思考で、子供達を育て、教育して、パラグワイでの将来と未来の発展の為に世代交替まで頑張って来たと感じます。
その次ぎの世代はもっと多くのチャンスを掴み、それを活かして、出稼ぎ回帰現象も取り入れて、それを第二の成熟期の思考育成として、パラグワイに日本的な思考が、なかば土着化した日本的な農村社会の思考で、3世に入りつつある社会で、また新しい世界を開いて行くと確信しています。2000年の区切りからする思考は、未来志向の日系社会を築く源になっていると感じます。現時点のパラグワイ日系社会は揺るぎの無い、パラグワイに土着化した新思考の定住小麦、大豆作民族と変化し、進歩し、発展しつつあると感じます。 おわり。



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