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「日本ブラジル交流協会と共に25年!!」ブラジル日本交流協会 和田 好司
日本ブラジル交流協会の幕が閉じられる。現在研修中の25期生48名の研修終了が3月6日(月)、3月10日(金)にはサンパウロで感謝のつどい(仮称)が日本から然るべき方が来伯して行われるとの通知を受けた。玉井会長が椎間板ヘルニアをおして来伯されるのであれば女房殿を連れてこの最後のつどいには是非参加したいと思っている。
日本ブラジル交流協会の25周年記念誌がその華々しい歴史と共に記録を残して置く動きがある。
長い長い玉井会長、藤村理事長とのお付き合いを歴史の一コマとして書き残して置くのも何かの役に立つかもしれない。原稿を下記掲載して置く事にする。
写真は、アマゾナスに於ける日本ブラジル交流協会のお世話を頂いている陣内さんご夫妻とアマゾントラヴェルサーヴィス社社長になっておられる島 準元研修生ご夫妻とお二人のお子さん達がマナウスの飛行場に見送りに来て呉れた時に撮らせて頂いたものを使用しました。



1981年に第一期生13名を派遣し2005年度の第25期生48名を持って終結する日本ブラジル交流協会の研修生派遣事業の集大成としてその活動を日伯交流史の一面として残して置くのも意義ある事だとは思いますが、今後の活動をどのような形で継承させて行くのかが大いに気になる所です。

一区切りとしての『日本ブラジル交流協会の25年史』編纂への原稿をとのご指定ですのでそれに添って書き綴ってみます。

日本ブラジル交流協会は、1974年に玉井義臣会長が始めてブラジルを訪問された事から始まる。故斎藤広志先生との邂逅、先生のお勧めで訪問したポルトアレグレ総領事館勤務の故アルフレッド・山下さんとの交友、山下さんのリオへの転出に伴いそれを引き継ぐ形でお付き合いが始まりましたが、具体的には1978年末実施の交通遺児育英会派遣の第四回研修大学の準備の為にポルトアレグレアレグレを訪問された時からで実に28年間のお付き合いとなります。最初にポルトアレグレでお会いした時には、確か藤村 修理事長の初めてのブラジル訪問でポルトアレグレからアルゼンチンにも足を伸ばされたように記憶しています。従い玉井、藤村コンビにはその最初の時期からご一緒させて頂いていることになります。

何度かのブラジル研修大学、研修生との来伯でご一緒させて頂いた他にも訪日時には必ずお会いしていました。特に1984年には、地元ポルトアレグレの名門サッカーチームINTERNACIONAOLのジュニオーレス(15歳18歳)のチーム一行25名を交流協会主催、アシックスタイガーズの後援で日本の高校県単位の選抜軍との10試合をプロモートする行事に同行し仕事半分、休暇半分で暑い日本の各地(姉妹県の滋賀、姉妹都市の金沢、大阪、札幌、東京)を転戦したのは忘れ難い思い出です。東京の等々力でのユニバーシアーダ日本大学選抜との試合場で結婚前の玉井夫人にお会いしたし選抜軍メンバーの一人一期生の松田 浩君にもお会いした。滋賀県では、RS州知事のメッセージを持参、試合開始前のセレモニーで披露したり、札幌では、友好のシンボルとして熊牧場の熊の番を寄贈されたが受け入れ施設が準備できず受け取れなかったのは心残りとなった。

日本ブラジル交流協会では、南2州の研修生の引き受け先をお世話する事、研修生の相談相手(サッカーの見学は、欠かせない行事)等をお手伝いして来ましたが、今でこそ交流協会は、今年は48名の研修生の引き受け先を探すにも苦労しない程、ブラジル全土で認められた若者の交流、研修制度として認知されていますが、初期の段階では年間13名の内3-4名がRS州で研修すると言った年もありこれまでに約10%強の80名近い研修生を引き受けて来ました。一人一人の思い出を語る紙数はありませんが、中間研修に南部に遣って来て我が家でカレーライスの昼食会をした4期生16人は、忘れ難い仲間で女房のけ い子が炊いても炊いても間に合わないご飯に泣き出す始末で今でも時々思い出して苦笑いの話題になります。その4期生の現事務局長の山口 達朗君がニチレイのレシフェー事務所に勤めている時にJICA派遣で同地にいた蝋山 はるみさん、日本から出張して来ていた浜口 伸明君の3人と我々家族5人でムケッカを食べながら当時のカレーライス事件に付いて語り合ったことがあります。当時INTERNACIONALのサッカー場で皆で撮った写真があるが次女がまだ私の腕の中に抱かれていた。21年前の写真を送って呉れたのは桜澤 健一君でその後長女弥生が神戸の震災後に兵庫県警で震災後の処理をしていた彼に町を案内して貰ったことがある。同期16人中、伊藤 充君、福田 誠君が南部で研修していた。 

名簿を見ないと名前も思い出せない沢山の研修生との触れ合いが懐かしく思い出されますが、その代浮ニして下記のお二人だけは記録して置きたい。

一期生の筑波大学のサッカー部に所属、ポルトアレグレの名門サッカーチーム(今年はブラジル選手権準優勝)INTERNACIONALでサッカー研修をしていた松田 浩君で彼は研修中にブラジル選抜軍の主将を務めアメリカ大会でブラジルを4回目の世界1に導いたDUNGA選手とインテルで一緒にボール蹴りをした事が誇りでアビスパ福岡を見事J1に復帰させた彼のサッカーの原点がこのポルトアレグレでの1年間の研修であったと何時も語っており訪日時には、東京広島、神戸、福岡と彼のチームを応援に出かけている。

女子研修生には、個性的な忘れらない研修も多かったが、矢張り17期生の田口 尚子さんが一番忘れ難い存在です。中間研修前に風を拗らせ研修から戻ってからも体調が優れず、熱をだし臥せっていたがカトリック大学の森口博士も始めてのケースとして細菌性髄膜炎(当地ではメネンジツチ=脳膜炎)に罹り脳に膿が溜まる恐ろしい病気で森口先生から死ぬか生きるか危険度は、50%の神の祈る以外には方法がないとの診断でお父さんとお兄さんがブラジルに来られ一時はどうなることから心配しましたが、森口先生のご尽力と本人の意思で元気になり12月に早期帰国しましたが、『自分のブラジル研修はまだ終わっていなかった』と2年後にアルバイトで貯めた旅費で再度ポルトアレグレを訪問しお世話になった皆さんに直接お礼を述べられ、一日紫陽花の咲く山の避暑地を案内してあげたのを思い出します。

私自身が早稲田の海外移住研究会のメンバーとして在学中に移住船に乗りブラジルに移住して来たとの前歴から【順送りの精神】として自分より後に歩いてくる若い人達に昔お世話になった多くの人達へのお返しの気持ちでバトンタッチして行きたいとの思いでお手伝いして来ましたが、今後は若い者に任せて行きたいとの玉井会長、藤村理事長のご判断であれば私も嫌われぬ間に引退した方が良いのではないかと思っています。

何とか今の若者にも魅力あるブラジルという人生の一つの選択の場が残される事を切に望みながら今後の日本ブラジル交流協会の継承団体としてのブラジル日本交流協会の発展、活躍を期待しながら拙文を閉じます。



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