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地の果て 真夏の初日の出及びアンデスの氷河の氷は青かった 小樽の水口さんのHPより転載。
年末年始に最果ての町USHUAIAでの新年と66歳の誕生日を迎えその後CALAFATEの氷河を訪問する機会があった。この夏の南米大陸南端と氷河訪問の記録を読まれた小樽に住む水口 忠さんがお便りを呉れました。水口さんは、私たちより20年も前に粗同じ時期に同じ場所をご家族3人で訪ねておられます。パラグアイの首都アスンシオンの日本人学校の初代校長先生として勤務中の最初の南米休暇旅行であったとのこと。その後ポルトアレグレにも来られているとの事でその時の様子等も書いて頂く積りですが、水口さんのHP【北の風信】よりお借りして<真夏の初日の出>と<アンデスの氷河の氷は青かった>の2編を最近の記録比較する意味も兼ねて掲載させて頂くことにしました。
写真は『背景は国指定建造物日本郵船旧小樽支店です。明治末建築で小樽観光スポットの 一つになっています。』とのコメントと共におくって下さった水口さんの近影です。


地の果て 真夏の初日の出
南米パラグアイのアスンシオンに在勤中のことである。休暇を利用し1週間ほどの旅に出た。メーンはフエゴ島とアンデス山脈からアルヘンチナ湖に落ちる氷河を見ることであったが、その一齣である。
 12月31日大晦日に飛行機はでマゼラン海峡を越え、フエゴ島のウシュアイア(USHUAIA)ヘ飛んだ。船であれば1年中荒れ狂うという魔の海も何のこともなく飛び越えたことになる。機内放送で間もなく着陸が告げられたが、下を見ると今は真夏なのに残雪が見える。間もなく急降下し着地すると急ブレーキがかかり、前の座席につんのめるようにして停止した。窓から見るとあと僅かでビーグル海峡であった。短い滑走路着陸するには最高の技術であったかもしれないが、とにかく怖かった。
この南米大陸最南端の小さなフエゴ島はチリとアルゼンチンに分割されている。ここ港町ウシュアイアは南緯56度にあり、南極の観測基地を除くと人間が定住する南限であるという。海岸から僅か数百メートルしかない町のようで背後の山は残雪でリフトが見えたので冬にはスキーで楽しんでいるのがわかる。しかし真夏なのに緑はなく荒涼たる褐色の世界で、地の果ての厳しさを感ずる静かな町であった。ここには海軍の施設があり約800キロ離れた南極のアルゼンチン観測基地まで物資を運ぶらしい。1982年のフォクランド(マルビーナス)戦争には、重要な港であったという。冬の寒さは想像を絶するものがあろう。かつてここがアルゼンチンの政治犯の流刑地であったのも頷ける。
レストランを貸し切っての夕食は午後9時から始まったが、外はまだ日中のように明るい。ツアーの客ばかりではなく南米各国をはじめ、ヨーロッパなど多くの国の人たちが集まり和やかな会食になった。今夜はどのテーブルも「サルー(乾杯)」「サルー」が続き酔いの回りが早いようだ。そのうちピアノ、ギターの伴奏で各国自慢の歌が披露され、雰囲気はいっそう盛りあがってきて、いよいよ今年の最後の夜はふけていく。
 そのうち電灯が消され静かになった、しかしラジオの午前零時の時報とともに雰囲気は一変し、全員期せずして立ちあがり、各国それぞれの言葉で新年を祝い、すぐに国、男女、老若をとわず、あふれるような熱気の中で歌やダンスが続いた。
午前1時過ぎ太陽が沈んだがまだ明るさが残っていた。そして間もなく再びビーグル海峡の朝やけの雲から、真っ赤な「初日」が鮮やかに地平線から上がった。しばらくしてホテルに戻ったが白夜であるウシュアイアの空気はやはり冷たかった
いつもこの時期になると地の果てで経験した真夏の『初日の出』を思い出す。


雪は青いか?アンデスの氷河の氷は青かった
今年の雪の降りようは異常ではなかろうか。この雪を何とか利用できないものかという人の話に同感です。もういい加減にして欲しいと嘆いてはみてもやはり大自然にはかなうわけがない。
参加しているメーリングの仲間の「雪,青いんでないかい」というメールに<この時期になるともう雪にはうんざり、天から限りなく続いて落ちてくる雪をのろいたくなりますね。>(中略)<更にもう一つ雪について、今年に入って雪が青い日が時々あります。雪と雪が重なって陰になった所とかスコップで彫った穴の中とかが青いのです。ヒマラヤやスイスのように! 私は当然のように眺めていますが、札幌から来た妹は”青いよ〜”と感激しています。皆さんの所はどうでしょうか? ヒマラヤはありますか?スイスはどうでしょう!勿論この話はすごい山奥に住んでいるみたいですが小樽駅から歩いて15分、隣には高層マンションがある環境です。> 
これを読んで思い出したことがあります。アンデス山脈から流れ出た氷河の氷はまさしく青かったのです。もう20年も前の話ですが、南米に勤務中のこと正月休暇に南アメリカ大陸の最南端フェエゴ島の港町ウスアイヤ(USHUAIA)に行きました。南半球ですから真夏ですが、谷間にはまだ雪が残っていました。日没は午後10時ころですが、いつまでも明るく夜の気配なく午前3時に早くも日の出での白夜でした。南緯55度ですから当然ですが、この港町からビーグル海峡を挟んで南極大陸が広がります。
ここに着いた日は日本で言う大晦日でした。午後9時からオープンのレストランはアルゼンチンのほかに、アメリカ、ヨーロッパからの観光客で賑わっていました。午前0時の時報の前は電燈も消されました。新年と同時にサルー、サルー(スペイン語で乾杯)Happy new year! など、各国の歌がピアノやギターの伴奏で独唱や、言葉は違っても曲は共通でいつしか合唱になったりします、ここでは国籍も肌の色も言葉も関係なく、歌と踊りがいつまでも続いていました。
 その帰途にカラファテという町に近いアンデス山脈から流れ出る氷河を見ました。何万年前に降った雪が重なり、氷になり1年に僅かずつ谷間を滑り落ちてくるわけです。実際に見たのはラゴ・デ・アルヘンチーナ(湖)ですが、この湖に落ちる氷河のうち船で近くまで行って見られるウプサラ氷河と、もう一つは氷河が湖に落ちる対岸のから見られる幅2キロもありそうなモレノ運河でした。ここで幸運にも(夏でも1日待っても見られないことが多いといいます)氷河の先端が湖に落ちるのを見ました。10階建てほどの高さの厚い氷が崩れると物凄い波が立ち、間もなく雷鳴のような音が周囲に轟きました。観光船も近くに行くと転覆するというのもわかりました。とにかくその落下は凄い迫力でした。(左の写真はモレノ氷河今も夏の観光シーズンは交通事情もホテル関係の事情で到達するのも難しいようですが、自然状況や氷河は変わっていないようです。
湖でその氷をいくつも見ました。小さなビルくらいから家ほどのものなど様々ですが、船から見るとその氷は白でもなく、透明でもなく、メールのように見事に真っ青でした。多少オーバーに言えば巨大な宝石のような青さで今も忘れません。小樽の雪と何万年前のアンデスに降った雪が何かの共通点があるのか科学的なことはわかりませんが、青さには神秘的なものを感じるのではないでしょうか。厄介者の雪が何とか有効な使途がないものなのか考えているこのごろです。(写真は湖に落ちる氷河と浮かんでいる氷ですが、この湖の色はベルデ・レイチェ(スペイン語で緑・牛乳の意味)で緑がかった乳白色といえるなんとも不思議な色でした)

年末年始の備忘録にもう20年も前に同じく大晦日をUSHUAIAで過ごされた水口かさんから下記お便り、コメントを頂きまました。
水口さんのHPもリンクさせて頂くよう工事する積もりです。
今後とも宜しく御願いします。

久しぶりに書きだしました。和田さんのウシュアイアへの旅大変楽しく読みました。そしてアスンシオンにいた20年前に、正月休みに家族で行った事を思い出しました。実に細かな記録で感心しました。私どもも大晦日の夜レストランで多くの国の人が一つになってそれぞれの国の歌をギターやピアノの伴奏で歌って踊って楽しいフエスタをしました。アメリカ、イギリス、イタリアなどずいぶん共通の曲があり、それこそ違った歌詞で混声(?)合唱をしました。やがて電気が消され静かになり、ラジオで12時の時報がなると今度はサルー、サルーで乾杯がしばらく続きました。午前2時ホテルに戻ったのですが、外はまだ明るさが残り、もう夜明けの気配を感じ、はじめての白夜の経験でした。もう一つ子羊の焼肉私も田中さんがいかれたレストラン(そんな風ではなく外であったかもしれません)かも知れませんが、やはりアバラのところの肉が最高でした。
今同じ季節の北海道に住んでいますが、毎日の除雪に大変です。アスンシオンの暑い正月を懐かしく思い出しています。
最後に和田さん差し支えなければ下記宛メールいただければありがたいのですが、お願いしたいことがあります。

水 口  忠 
tamizu@nifty.com

北の風信(水口)
  http://homepage2.nifty.com/tamizu-otaru
小樽啄木会
  www.swan2001.jp/takubokuindex.html">http://www.swan2001.jp/takubokuindex.html

和田さんの紀行文に大変感激しました。あそこに書いたように20年前の情景を思い出していただきありがとうございました。それでお願いは下記の私の個人のHP「北の風信」に和田さんの文章を転載させていただけないでしょうか?できれば写真もですがこれは固執しません。なにとぞよろしくお願いします。垂オ遅れましたが私は1962年〜1965年までアスンシオン日本人学校の創設期の校長で赴任していました。現在は北海道小樽に住んでおります。




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