アマゾン開発に夢を託した高等拓殖学校生(高拓生)の子孫【高拓会】の丸岡会長のお話を伺いました。
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マナウスでの日系企業訪問ヒアリング実施2日目に道案内も兼ねて同行頂いたマナウスの日系商工会議所の専務理事をしておられるROBERTO TEISUKE 丸岡さんに大変お世話になりましたが、長い1日を終えマナウスの日本食店でビールを飲んでいる時に丸岡さんのお父上は有名な高等拓殖学校のピークに当たる3回生との事で1932年にパリンチンスの近くのビラ・アマゾニアに入られたとの話に飛び色々聞かせて頂きました。高拓生は、第一回生が1931年6月20日ビラ・アマゾニアに到着してから1937年の7回生まで242人のアマゾン開拓に夢を託した若い移住者を送りだした。丸岡ロベルトさんは、1947年にパリンチンスの近くのジュリチで生まれたとの事で現在は、商工会議の専務理事として活躍されている傍ら高拓会の2代目の会長さんをしておられるとの事です。
写真は、2代目【高拓会】会長の丸岡ロベルトさんです。
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私が学生時代1963年の正月をトメアス移住地で過ごしその後ベレンからアビアドールと呼ばれているアマゾン河の各産品(ジュウト麻、グアラナ、胡椒、ゴム、ピラルクの乾し肉、鰐の皮等)と生活必需品としての塩、砂糖、メリケン粉、ビスケット等との交換貿易をしながら港から港を訪問して周る取引船に乗せて貰う機会があった。船の名前は記憶していないが確か120トンのポンポン船で船長?兼オナーは、高拓生の4回生、山崎さんと言う方だったと丸岡さんに話すと山崎さんは亡くなれているが奥様のテレザさんはお元気でべレンに住んでおられ高拓会のメンバーだと教えて呉れました。お世話になった山崎さんの船は、ベレンから確か25日程掛けて高拓生の住んでいる各拠点(港)に立ち寄りながらマナオスの手前の町?の中島さんの海上ガャ潟塔|ストの所まで乗せて呉れました。その時にお世話になったのが山崎夫人でまだお若くて3歳程のお嬢さんが一緒に船に乗っておられました。お元気ならもう45歳以上のご夫人になっておられるはずです。機会が有れば当時お世話になった奥さんとお嬢さんにお会いして昔のお礼を述べたい所ですが。。。
『俺の船は、観光船でも客船でもない。商売をしながら河を航行するアビアドールである。停泊中は、担げるものを担ぎ手伝うと言う条件で良いなら乗せてやる』と言ってお世話になったが塩の袋20kg、ジュート麻の大きな塊はとても担げず河に落としてしまい怒鳴られたり、乾しておいたパンツを仲間に盗られたりハンモックにぶら下っての1ヶ月弱のアマゾン河生活は忘れられない。毎日食事は、魚の料理でスープにマンジョカの粉を混ぜて食べたり、河魚の煮たものが出ていた。ピラルク、ピラニア、ツクナレ、タンバキ、クニマタ等当時覚えたものは忘れない。
マナオスの佃さんからも高拓生のHPがあるよと教えて頂いたのですが、アクセスしてみても上手く繋がらない。高拓生でGOGLEで検索してみたら2001年の11月2日付けで下記の通りニッケイ新聞の特集号が出てきました。関係ニュース総てを下記に掲載して置きます。
アマゾン高拓生70周年特集 ニッケイ新聞2001年11月2日付けより
生存者ら久闊叙す−記念式典、ミサ、夕食会も−マナウス
ニッケイ新聞 11月2日
高等拓植学校卒業生(高拓生)一回生がアマゾナス州パリンチンス市近郊のビラ・アマゾニアに到着して七諸N、その記念式典が曙雌藷マナウス市内で行われた。この式典は、高拓生子弟家族と親類が中心となって今年二月結成されたアマゾン高拓会(中島ロベルト・タツオ会長)が開催した。高等拓植学校の故上塚司校長の孫にあたる上塚芳郎氏(四九)とリタ夫人、娘理恵さんが来伯、式典に参列した。当日はミサを午前庶桙ゥらノッサ・セニョーラ・デ・ナザレ教会で、午後八時から記念夕食会をポンタ・ネグラ街道沿いの会食場ドゥルシアで行った。上塚一家は二庶O日にパリンチンスとビラ・アマゾニアを訪問し、パリンチンス日伯協会(猪股エリゼウ会長)主催の記念昼食会に参席した。
ミサはマリオ・ノジアト神父により午前庶桙ゥらノッサ・セニョーラ・デ・ナザレ教会でしめやかに執り行われ、亡くなった高拓生とその家族を慰霊した。教会には二回生・故山口諭さんの妻・敏子さん(八七)と四回生・故伊原只郎さんの妻・清子さん(八五)が参列した。
宮本アデリアさんが感謝の祈りを捧げた。「七諸N前に一つの物語が始まりました。高拓生の歴史です。我々のブラジル、アマゾンでの歴史です。
「高拓生はアマゾンのジャングルを切り開くという大きな夢と高い理想を持っていました。高拓家族七諸N存続を記念すべき良きこの日に、この世界を創造せし神に賛美を称えます。高拓生はこの地で平和に調和を保ち、障害を物ともせず、現地文化と同化を図り、このアマゾンで日伯の混血文化を築き上げたのです。この理想を実現すべく努力し、本日既に天に召します全ての高拓生に思いをはせ敬意を払います。
「この地で我々と共に歩み続けている高拓生に、その献身的なクリスチャン精神、協力的な姿勢に心の底から感謝の意を浮オたいと思います。神の恩恵が我々と共にあることを願い、挨拶の言葉とさせていただきます」。
参列者は共に祈りの言葉をとなえ、賛美歌を歌った。
記念夕食会は午後八時からドゥルシアで行われ、マナウス市在住の高拓四回生・千葉守さん(九〇)始め高拓生の未亡人や子供、その関係者ら約二百人が訪れた。
来賓席にはマナウス総領事館の河合弘総領事、上塚芳郎氏、歴史研究家のジョゼ・カミロ・ラモス・デ・ャEザ氏、西部アマゾン日伯協会の村山惟元会長、アマゾナス日系商工会議所の河原崎勤会頭、パラー日系商工会議所を代浮オて岡島博理事、汎アマゾニア日伯協会を代浮オて小野重善・第一会計理事を迎えた。
アマゾン高拓会の中島ロベルト会長は、一回生の故中島敏三氏の子息にあたる。「高拓生は貧しくても子供の教育を優先させました。本日は各州の高拓生代普A高等拓植学校の創設者・上塚司氏の名代としていらした芳郎氏、アマゾン高拓会の名の下に歓迎します。七庶年記念式典を迎え、本日お越しいただいているご来賓の皆様、またこの式典を開催するにあたり、多方面からご支援、ご協力いただきました企業や団体の皆様にお礼垂オ上げます」。
続いて上塚芳郎氏が司氏の思い出について語った。「祖父とは一緒に住んでいたが、渋谷の自宅の応接間には恩人の高橋是清総理の肖像画と、神奈川県生田村にあった日本高等拓植学校の絵が飾られていた。横文字の証書のようなものが額に入れて壁に掛けてあり、ブラジル政府からもらった南庶嚼ッ勲章の賞状だと説明してくれた。中学生になった時、生存者叙勲で勲二等瑞宝章を日本政府から受章した時に語った言葉を今も忘れない。〃自分は国会議員を通算七期勤め、大蔵政務次官をしたので叙勲の対象となった。しかし、日本とブラジルへの貢献で叙勲したのならもっと嬉しかったのだが…〃」。
歴史研究家のャEザ氏は「大きな経済的貢献を果たした高拓生は当時としてはかなり戦略的な制度であった。サンパウロ州に入ったコーヒー農場の契約移民と比べると、アマゾンの移民は計画的」と分析した。
故上塚校長の孫来伯−思い出の地ビラ・アマゾニアへ
ニッケイ新聞 11月2日(金)
曙雌庶O日、上塚一家はパリンチンスとビラ・アマゾニアを訪問し、アマゾン高拓会の半田ジルャ燈實長と東海林ウィルャ痘搦魔ェ同行した。パリンチンス日伯文化協会の猪股エリゼウ会長が出迎え、ビラ・アマゾニアで記念昼食会を行った。かつてビラ・アマゾニアで医師をしていた故戸田善雄さんの娘、アマゾニアさんも同地を訪れ、地元の人々から歓待された。
午前庶桙ゥらアマゾナス州パリンチンス市議会(ジルバンドロ・ビアナ・ゴンサルベス議長)により、故人を含むパリンチンス市在住の日系人二諸ェ人が、その功労を讃えて撫イされた。その中に高拓七回生の東海林善之進さん(八七)や三回生徳田源爾さん(八八)、尾山種ジュート発見者の故尾山良太氏の子息、多門さん(八二)の姿があった。東海林さんは「私たちのためにベレンやブラジリア、サンパウロから来ていただきまして感極まる思いです。苦労しましたが移民とはこういうもの。賞状をいただいて明日からなおいっそう元気を出して頑張ります」と話した。同地には尾山良太の名前がついた学校があるが、エネアス・ゴンサルベス・ャuリニョ市長は、現在建築中の健康センターに、故戸田善雄医師の名前を付けたことを明かした。
上塚氏一行は船でビラ・アマゾニアへ、パリンチンス日伯協会主催の昼食会に参席した。猪股会長は来賓に向けて「ビラ・アマゾニアの歴史を消さないために苦労している。ここまで来て下さって本当にありがとうございました」とお礼の言葉を述べた。
アトラクションとして学校オタビオ・ゲデス・デ・アラウジョの生徒により、同地の歴史が芝居形式で語られた。会場には生徒手作りの町の模型が展示され、来賓は熱心に見入った。生徒たちを指導した同校のマリア理事は「日本人がビラ・アマゾニアの土地を選んで入植し、この地で命を落とした人もいることに感動している」と話した。
40人を記念撫イ−ジュートの故尾山氏らも
ニッケイ新聞 11月2日(金)
七庶年を記念して高拓生とその未亡人ら約四署lが撫イされた。マナウス市内唯一の現存者である千葉さんはこの式典当日が九渚ホの誕生日にあたり、二重の喜びとなった。当日式典に参列した未亡人の山崎テレザさん(パラー州ベレン市在住、四回生)、尾山エミさん(パラー州カスタニャル市在住、二回生)、ジョゼフィナ・ザグリ・ナカイさん(マナウス市在住、三回生)、佐藤マスヨさん(マナウス市在住、一回生)、山口敏子さん(マナウス市在住、二回生)、伊原清子(すみこ)さん(マナウス市在住、四回生)、高橋フデさん(マナウス市在住、二回生)、平石アメリアさん(マナウス市在住、四回生)らに、中島会長が賞状を手渡した。
高等拓植学校の校長だった故上塚司氏と尾山種ジュート(黄麻)発見の功労者、故尾山良太氏の二人が特別撫イされ、司氏の孫にあたる芳郎氏と良太氏の子にあたる芹沢尾山可買ニアさんがそれぞれ受け取った。
式典に向けてノンフィクション作家・山根一眞氏からもメッセージが寄せられた。「高拓生の事業を正しく正確に記録した書物がブラジルにも日本にもないので、その本を書く仕事に取り組む決意をしました。私の高拓史の本が七庶年式典に間に合わなかったことを皆さんにお詫びします」。
式典第二部は日本の踊りに始まり、芳郎氏が持参した司氏や高拓生にちなむ写真が披露された。最後はボイ・ブンバの踊りとなり、来場者が共に踊って式典は華やかに終了した。
アマゾン開拓に挑んだ若者たち−250人が原始林入り−「指導的役割」の使命背負い
ニッケイ新聞 11月2日(金)
高拓生とは何か。アマゾンに植民地を作るにあたり、移住者の中心者となり指導的役割を果たす人材を育成するために高等拓植学校を創設、その卒業生が入植した。高拓生の制度が優良ジュート種の発見、育成のきっかけとなった。高拓第一回生がビラ・アマゾニアに到着して七諸N、その足跡を辿る。
一九二六年、当時の駐伯日本全権大使、田付七太が水路パラー州を公式訪問した。これを知ったアマゾナス州知事がアマゾナス州訪問を要請し、田付大使はマナウス市を訪問した。当時のアマゾナス州はゴム産業が衰退し、他に目立った産業がなかったので、日本人移民を導入して全地域の農業開発を計画していた。
田付大使は帰京後、通訳官として同行した粟津金六に対して同氏の名前でコンセッション契約を締結するよう勧めた。粟津金六は当時ブラジルを訪問して市場調査中の実業家、中西源三郎と話し、アマゾナス州知事の垂オ出を受けることとし、一九二七年二月マナウス市を訪問して譲渡契約を締結した。
粟津、山西両氏が契約を行ったものの、アマゾン開発には多額の費用と技術、及び長期間を要し実施不可狽ニなった。そこで田付大使は、熊本県出身で神戸高商コンセッション百万ヘクタールの権利を引き継いだ。上塚司は、一九三〇年六月七日に粟津金六らと日本を出発、ブラジルに渡って二処齔lのアマゾン調査団を組織した。曙雌処齠にはパリンチンスの下流、アマゾン川とラモス川の合流点ビラ・アマゾニアで入植祭を挙行、アマゾニア産業研究所を建設し、農事試験場。気象観測所、病院、実業訓練所などを開設した。
上塚司は一九三〇年三月二藷、国士館高等拓植学校を設立した。入学資格は旧制中学卒業以上、日本で一年、現地で一年実地訓練をする。人作りと事業を共に進める移民拓植事業としては極めて特色のある体制であった。
当初は国士館専門学校の敷地内にあり、国士館高等拓植学校と称された。しかし一九三二年に満州国が建設されたことで満州開拓移民が国策として取り上げられた。国士館専門学校の要人も満州進出論に統一され、アマゾン開拓を目指す高等拓植学校と原点において判然とした相違をきたした。
上塚司は国士館高拓に代わり神奈川県稲田登戸に新校舎を建設し、日本高等拓植学校と改名した。高拓生は三回生をピークに、七回生の送り出しを最後に閉校となった。高拓生は全部で約二百五署lに上った。
ジュート栽培に成功−アマゾン流域の主産業に
ニッケイ新聞 11月2日(金)
アマゾンで何を主要生産物にするか。生産が容易で需要が大きく、短期に資金の回収ができる作物としてジュートを選んだ。辻小太郎はインド低湿地地帯におけるジュート栽培を研究した結果、アマゾン地域の低湿地地帯もジュート栽培に有利であると考え、上塚司はこの計画を採用した。インドから種子を取り寄せ、サンパウロで現地種を集めて調査団を組織する時に持参し、鹿児島高等農林学校出身の荒木衛門に試作を命じた。
ジュートをアマゾナス州の気候に適応させることを目的としてアマゾニア産業研究所を設立、気象台、農事部(試験場)と実業練習所を併設し、高拓生の現地での訓練所とした。ジュートの試作は農事部で東京農大出身の佐藤信一、木内謙一、鹿野勇、荒木衛門らによって、日本から持参したジュートの種子、サンパウロで入手したパウリスタ種を試作したが草丈が一メートル位にしか伸びなくて失敗。一九三一年処鼬獅ノリオ大使館野田良治一等書記官を通じて入手した四種類のインド産の種子を播種したが丈は一・五メートル以上にはならなかった。
この頃上塚司は日本高等拓植学校の講師、木野逸作をインドに派遣、ジュート産地を視察させて栽培、耕作、加工について研究させた。一九三三年四月、辻小太郎が現地アマゾニア産業研究所所長としてビラ・アマゾニアに着任、支流三藷キロ上流のアンジラに建設、農事部のジュートの試作をアンジラ模範植民地のバルゼア(低湿地帯)に移した。
この年の処鼬雌植した第一回家族移民五藷人の中に、岡山県出身の尾山良太氏とその家族六人がいた(長男万馬氏は高拓二回生)。尾山のバルゼアで、丈が他より高く、枝が出ていないジュート優良種二本を発見した。一本は増水で倒れて水に流されてしまったが、もう一本の茎に付いた女アの実を採取する。一九三七年には約純gンのジュート繊維が尾山良太らの手で作られた。ジュートはその後長年にわたりアマゾン川流域の主要な産物となった。
参考文献『緑 西部アマゾン日本人移住七庶年記念誌』、高拓生五庶年記念式典プログラム、野口敬子「アマゾンにジュート産業を興した若者たち」
高拓生 アマゾン入植年譜 ニッケイ新聞 11月2日
・一九二七年三月処齠
アマゾン地方を視察調査中の山西源三郎と粟津金六が、アマゾナス州政府との間で百万ヘクタールの未開地譲渡と開発に関わる契約書(山西・粟津コンセッション契約)を交わす。
・一九二八年三月
山西源三郎がコンセッション契約の権利を上塚司へ移管。
・一九二九年一月処齠
上塚司が派遣した第一次アマゾン調査団(粟津金六団長)が、百万ヘクタールのうち三叙怎wクタールを画定。
・一九三〇年六月一日
国士館高等拓植学校(上塚司校長)第一回生(四庶O人)入学式。
・一九三〇年曙雌処齠 事業本拠地としてビラ・バチスタ(現ビラ・アマゾニア)を購入、入植祭を挙行。
・一九三一年六月二藷
越智栄指導員が引率する国士館高等拓植学校第一回卒業生三曙ワ人が、夜遅くインスチツット・アマゾニアへ到着。東京農大生三人も同行。翌朝、アマゾニア産業研究所付属実業練習所入所式を行う。
・一九三一年九月藷日
アマゾニア産業研究所農事試験所担当の荒木衛門と木内謙一が、インスチツット・アマゾニアの本館裏にある湿地へジュートの種子をまく。これがビラ・アマゾニアにおけるジュート試験栽培の始まり。
・一九三二年四月八日
国士館と決別した上塚司が新たに日本高等拓植学校を開校、小田急線東生田駅近くに新築した校舎で、この日第三回入学式を挙行。
・一九三四年二月
尾山良太が試作したジュートのうち変種が二株あることを発見。それから得たわずか女アほどの種子をもとに二年がかりで増殖。
・一九三七年三月二処齠
日本高等拓植学校で第七回生卒業式が挙行される。入学希望者がいないためこれをもって閉鎖。
・一九四一年藷月八日
日本海軍によるパールハーバー攻撃により日米開戦。
・一九四二年九月二曙ワ日
この日マナウス市から陸軍一個中隊がビラ・アマゾニアへ派遣され、アマゾニア産業株式会社の資産を差し押えるとともに、現地に残留していた日本人幹部社員八人をスパイ容疑で逮捕。
「高拓生」役員名簿
高拓生七庶年記年式典を主催したアマゾン高拓会は、今年二月庶オ日に高拓生子弟やその親族によって設立された。
[理事会]
会長=中島タツオ・ロベルト、副会長=半田ジルャ刀A会計理事=丸岡ロベルト、管理理事=東海林ウィルャ
[監査審議会]
正会員=ジョルジ・ケンイチ・ナイトウ、ジョルジ・ヒロシ・ミワ、テレザ・ヨウコ・ノムラ・レビィ、準会員=ゼミラ・ミナミ・ツクダ、ビクトリア・サトウ・フェイトザ、テイ・カザリナ・イハラ
[規約による理事]
渉外担当理事=宮本ツヨシ、技術発展理事=丸岡アデルシー、企画理事=半田リツコ、中島ファッチマ、文化体育理事=内藤マリエ、青年理事=宮本アデリア
暫定本部の住所はアマゾナス州マナウス市ポンタ・ネグラ区バレ・ド・ポ通りカーザ一一クアドラR。ホームページのアドレスはwww.amazonkoutakukai.cjb.net/">http://www.amazonkoutakukai.cjb.net/
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